千葉の干潟を守る会40周年
千葉の干潟を守る会が40周年を迎えコメントを求められました。昨日、コメントの載った『谷津干潟から三番瀬へ-千葉の干潟を守る会40年史』が送られてきました。
私が創立の場にいたことから創立者の一人として敬意を払っていただけるのは、たいへん心苦しいですね。というのは創立は1971年、私は学生で東京湾のシギチドリの調査をボランティアでやったりしていた流れで、干潟の保護運動に関わりました。何もわからず気持ちだけで活動していた時代です。ですから、その後も40年間も運動を続けてきた方々の努力とは比べようもありません。
私自身は、調査をしていた幕張から習志野にかけての干潟がサンドパイプが唸りを上げて埋め立てられて行くのを見て、自分がさほど挫折感を感じないことにショックを感じつつ、ボランティアによる市民団体の限界を感じ、活動の場を移します。
その後、守る会は日本野鳥の会千葉支部の設立を促し、さらに日本野鳥の会本部との決別、支部の解散、新支部の結成などの曲折。また、埋め立てはご覧のように行われ、谷津干潟が残り観察センターができます。そして、現在では三番瀬の保護に取り組んでいます。
歴史に”もし”は禁物ですが、もし守る会の運動がなければ谷津干潟も埋め立てられ、浄水場やゴミ処理工場などの施設ができていたでしょう。三番瀬も埋め立てられ、道路や施設できてしまう可能性があります。今のご時世ならば、谷津干潟は残るかもしれませんが、当時は風前の灯火だったのです。もし守る会の活動がなければ、ずいぶん鳥の生息地も変わっていたはずです。
またもし、さらに守る会の主張がとおり、埋め立てが行われない東京湾とはどうなっていたのかも考えさせられます。たとえば、東京ディズニーランドも幕張メッセもありません。湾岸道路もないということは、その先の成田空港もないかもしれません。そのような状況の日本経済は、果たして発展していった国際状況のなかで現在のような地位を日本が保て行けるのか、今の生活を享受できるのかと考えてしまいます。ですから、自分の生活のレベルを落とすことなく環境を守れ自然を保護しろという主張は疑問です。結局のところ、多くの保護運動に私は感情移入できないでいます。
千葉の干潟を守る会のことを考えると、青春時代の思い出、多くの人との出会い、市民運動の難しさと限界と、さまざな思いが千々に心をよぎります。
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