ディズニーランドが泥沼だった頃
今日は、東京ディズニーランドができて30周年だそうです。お祝いムードに水を差してもうしわけございませんが、私としては干潟の生き物たちの30回忌の気分です。
1960年代に始めて新浜に行ったときは、東京ディズニーランドのあるあたりは広大な干潟が広がっていました。新浜とは、当時のバードウォッチャー特有の地域名で、千葉県の江戸川の本流と放水路の河口の間、地名で言うと浦安から行徳を言います。京葉線はもとより東西線もなく、新小岩駅からバスで浦安橋まで行き、あとは延々と海岸を歩きました。ちょうど今頃の季節は、シギやチドリが大群で訪れていました。
私が通い始めた頃から埋め立てが始まり、行くごとに干潟がなくなり広大な埋立地が広がっていきました。そのひとつが、現在の東京ディズニーランドのあるエリアで、当時はオリエンタルランドと呼んでいました。
埋め立て方法は、沖の海底の砂をパイプで吸い上げてパイルで囲われた造成地に流し込むものです。そのため、埋め立てられる場所だけでなく、その先の海底も破壊されます。東京ディズニーランドの埋立地の土の何割かは、東京都側の干潟の土砂が使われています。当時、東京都側の葛西の沖には三枚州と言われる広大な干潟が広がっていました。しかし、今では1枚もなくなってしまったのはそのせいです。
埋め立て直後の造成地は泥沼です。底なし沼状態の場所もありました。そのため、鳥を数える調査では、サンドパイプの上を歩いて行かなくてはなりません。なかには、足を取られあやうく命を落とすところだったと聞いたことがあります。私も同行の者が、太ももまでもぐってしまい助け出すのに一苦労したことがあります。当時のバードウォッチングは、命がけだったのです。
埋立地は、水が抜けるまで放置されます。ところどころに水たまりがあって、そこにはたくさん水鳥たちが集まりました。ツルシギの300羽を超える群れ、当時は珍しかったミヤコドリ、日本で初めて記録されたハシブトアジサシ、サンドパイプの上にとまったノゴマ、友人の股の間をくぐったマキノセンニュウなど皆、オリエンタルランドでのバードウォッチングの思い出です。こうした、鳥たちの出現は、失われていく干潟の最後の輝きであったかもしれません。
当時のフィールドノートです。昭和45(1970)年10月6日の記録です。高野伸二さんご夫妻との思い出深いバードウォッチングです。種類の多さから、新浜の凄さをご理解いただければと思います。
私はこれらの鳥たちのことを思うと、とてもではありませんがディズニーランドで遊ぶ気にはなりません。
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この年は浪人中。この日は夕方予備校から帰宅後、近くの善福寺公園で、渡ってきたばかりのヒヨドリ(当季初認)を見ていました。うう、現役合格していれば、ご一緒できたのに。(涙)
投稿: GEM | 2013年4月24日 (水) 21時01分
GEM様
浪人中でも、ちゃんとバードウォッチングをしていたのですね。
しかし、どういう経緯でこういうメンツになったのか、思い出せません。電話で打ち合わせしたのでしょうか。それとも、たまたま鳥のところに行ったら、合流できたのでしょうか。
投稿: まつ | 2013年4月25日 (木) 08時54分