じんさんの訃報-藤村仁さん
今日、届いた山階鳥類研究所Newsに、藤村仁さんの訃報が載っていました。また青春時代、いっしょにバードウォッチングを競いあった仲間が亡くなってしまいました。
仁は”ひとし”と読むのですが、目上の者は「じん」、同輩や後輩たちは「じんさん」と呼び、親しまれていました。私は「じんさん」と呼ぶつきあいをさせていただきました。
高校時代、日本野鳥の会の東京支部の新浜探鳥会あたりで会ったのが最初だと思います。その後の学生時代、バードウォッチングのライバルとして競い合う仲間となります。彼は、ペタックスSP+タクマーの500mmで野鳥写真を撮っていました。高野伸二さんと同じシステムで、当時のバードウォッチャーあこがれの組み合わせです。私は、これを持っていた仁さんがうらやましくて、しかたありませんでした。また、よく珍鳥を見つけては、これもうらやましがらせてくれました。私は、識別と珍鳥では彼に勝てないと思い、自然保護運動に関わって行ったようなものです。
その後、仁さんが山階鳥類研究所、3年前に亡くなった柚木修さんが日本野鳥の会、私が日本鳥類保護連盟に就職し、仕事上でもライバルとなります。私にとって、当時のライバルが2人とも逝ってしまったことになります。
仁さんには、1999年から行われたカラスのシンポジウムを中心とするカラス問題では、ずいぶんお世話になりました。私がしきった最初の東京都のカラス調査では、ねぐらいりの調査方法を教えてもらいました。おかげで馴れない調査のしきりを無事にこなすことができ、私がその後、カラスにのめり込む道筋を作ってくれたことになります。
2001年、名古屋のテレビ局のハシブトガラスにPHSを付けて移動を追うという取材に協力しました。仁さんには、2羽のハシブトガラスにPHSを付けてもらいました。彼は、少しでも鳥への負担を減らすためにパーツをそぎ落とし、かつ防水加工してくれました。面白かったのは、仁さんにPHSを渡した後、ディレクターが試しに追跡したのです。翌日、ディレクターから「昨夜、藤村さんは東中野の駅前にいて、ずっと飲んでいたみたいです」と、報告を受けました。じつは、仁さんの家は駅前、この日はまっすぐに家に帰っていたのです。たぶん、家では飲んでいたと思いますが「まっすぐに家に帰ってよかったね」と仁さんには言ったものです。これが、彼との最後の仕事となりました。
彼が倒れたのは、10年以上前だと思います。その間、ときどき「仁さんどうしたかな」と思い出してはいたものの何もできず、内心忸怩たる思いがあります。先日のあしだちの探鳥会でお会いしたK野さんから彼が亡くなったと聞いたのものの信じることができず、翌日行った行徳野鳥観察舎の蓮尾純子さんに確認をしたほどです。
蓮尾さんによると亡くなったのは7月3日のこと、ご遺族からご連絡があったのは9月下旬とのことでした。そのため、私の人生に影響を与えてくれた仁さんのことを書きたいと思っていたのですが、ご遺族の意向をくみとり記事は控えておりました。本日、山階鳥研NEWSに公表されたことで、やっと思いのたけを起稿することができました。
右が仁さん、左が私です。たぶん20代後半、1970年代の写真、撮影者は不明。山階芳麿先生の受賞のパーティではと思います。スーツを着ていていてもカタギに見えない2人です。
藤村仁さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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