日光の鳥の古記録-シマエナガ
『日光の植物と動物』(1936)の中の岸田久吉が書いた「日光の鳥類」には、シマエナガがリストに載っています。
ヤマゲラがいるのですから、シマエナガがいてもおかしくないと思います。しかし、最近ではエナガの眉の薄いタイプが千葉県と東京都で記録されていて、その誤認の可能性もあると思ってしまいます。
ということで、本文を当たってみます。
「7.日光の秋の鳥界」の項のリスト、シジュウカラ科の欄に「シマエナガ」があります。また、「8.日光の冬の鳥界」の表にも「シマエナガ(!)」となっています。ビックリ・マーク付きです。この他、イスカ、ナキイスカ、ベニバラウソにも(!)が付いています。シマエナガは、秋から冬の鳥になっています。
本文を読むと、鳥屋で捕獲されたことのある鳥の名前が並んでいて、そのひとつにシマエナガが出てきます。この文節は「佐藤善氏によると」と、書き始められ日光の鳥屋の歴史や方法が書かれているので、話の流れから、シマエナガなどの記録も佐藤氏の談なのでしょうか。いずれにしても伝聞記録で剥製があるわけではありませんし、岸田の観察記録もありませんでした。
鳥屋は「とりや」ではなく「とや」と読みます。かすみ網猟で小鳥を捕らえて、捕らえた小鳥を市場に卸したり、その場で酒肴を出して客をもてなしたりしていたもので、寒村においては数少ない現金を得る貴重な産業であったと言えます。現在のかすみ網は化学繊維ですが、当時は木綿や麻でできていたと書かれています。
日光もかすみ網猟がさかんで、地元の私と同年代(現在70才前後)の人でも、戦後の話としてツグミの焼き鳥を食べた話をしてくれます。また、戦前の日本野鳥の会の「野鳥」誌には日光探鳥会の帰り、こうして捕らえたヤマガラをお土産にした話が載っています。また、日光市に記念美術館のある小杉放菴は、渡りの季節には鳥屋に籠もって膨大な鳥のスケッチをしています。
しかし、かすみ網猟は一網打尽に渡り鳥を捕らえてしまうので、戦後は違法となり取り締まりの対象となります。日本野鳥の会では、署名運動をしたり国会に働きかけるなどしてきた経緯があります。
いったい鳥屋は、日光のどこにあったのか。わかれば、そこは渡りのルートになり、そこで待てば今でもいろいろな渡り鳥に会えるのではないかと日光の鳥仲間と考えたことがあります。
小川の記録にも「とやの山」が出てきて、こちらは川俣に近く、かなり山奥となります。
岸田の報告では「日光町の東の小山のなかの雑木林」、地名としては所野が出てきます。日光の市街地というのは、東西に長いので東の小山を特定するのが難しいのです。北東くらいに考えると、小倉山と外山があります。外山は、かなり急峻な山なので作業がしずらそうです。小倉山は、1時間もかからず登ることができます。また、昇り始めはいきなり階段状の山道ですが、頂上付近はなだらかで網を張るのには都合がよさそう。山の中腹には、水がわき出ているので調理にも便利。ということで、小倉山の可能性が高そうです。
現在の小倉山、乗馬倶楽部から見上げたところです。
しかし、現在の小倉山では鳥屋はできません。というか、日光のどの山も無理です。かすみ網を張るためには樹木が低い、あるいはササ原に灌木が点在するような環境にしないとなりません。木が高ければ、その上を飛んで行ってしまうのでかすみ網にはかからないことになります。そのため、かなり鳥屋の設置できる山は限られます。
今、日光の山を見ると、どこも頂上まで樹木で覆われています。戦後行われたスギやカラマツの植林が成長して山々を覆っていることになります。戦前や戦後間もない頃の日光の山が写っている写真を見ると、樹木は低いかササに覆われています。
建材のスギ林にしろ、炭や薪のための広葉樹林にしろ、数10年で巡回して伐採していたはずです。そのため、どこかに裸地や伐開地がありました。しかし、今では樹木は手つかずで放置されている感じです。それだけに、もう鳥屋を設置する環境はなくなったことになります。
『日光の植物と動物』(1936)には、まだまだネタがあります。ウチダハリオアマツバメ、ハシボソシロチドリ、アイゼンガラ、ベンケイガラ、キントキガラなど聞き慣れない鳥の名前が出てきます。もちろん鳥以外の章もあります。たとえば、岸田が書いている「日光のほ乳類」には、ニホンジカ、エゾジカ、タテガミジカの3種がいると書かれています。
実は、ここ10日間カゼをひいてしまい、外に出られず。ヒマをもてあましての考証でした。皆さん、おつきあいありがとうございます。
年取って身動きがとれなくなったら、こうした楽しみ方もありますね。すでに、その領域に達しつつありますが・・・
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