« カモ類の変遷を古い絵はがきから探る-六義園 | トップページ | 『朝の小鳥』スタジオ収録-来年1月は江戸の鳥たち »

2019年12月 8日 (日)

カモ類の変遷を絵はがきから探る-上野不忍池

  六義園では資料となる絵はがきの点数が少ないので、説得力にかけます。
  ということで、絵はがきの多い上野不忍池で調べて見ました。
  まず、私が撮った1974年2月9日の写真です。

 19740209
 当時は、オナガガモがこのように多かったのです。上野動物園の飼育係の人がボートを出して餌を撒いていました。その時間をあらかじめ聞いての撮影でした。こうして、集まるのはほとんどがオナガガモで、少し離れたところにオシドリが数10羽いて入園者が与える餌をもらっていました。この他、キンクロハジロとホシハジロは池の真ん中に集まり寝ているというのが不忍池の風景、当時は池中がカモであふれているという印象です。
 1970年代の不忍池は、カモ類が多かっただけにトモエガモ(1973年)、アカハジロ(1973年)、クビワキンクロ(1977年)などの珍鳥も記録されています。
 ということで、絵はがきを調べて見ました。「不忍池 絵はがき」で画像検索すると、今度はたくさんありすぎて見るのがたいへんでした。横書きの文字が右から書かれていますので、少なくとも戦前、紙質や印刷の具合から昭和初期ではないかと思います。写真製版が一般的になり、絵はがきも普及した時代ということにもなります。
 博覧会などのイベントや蓮が茂った夏の風景をのぞき、雪景色やバックの木々の枯れている風景を探しました。
 それでも、かなりの点数になるのですが、カモの群れは写っていませんでした。

2_20191208202701  
 蓮池の東側の北端から、弁天堂をのぞんだ風景です。現在、いつも屋台が並んでいるところです。蓮が枯れていることから冬から春ですが、カモは見当たりません。

 1_20191208202701  
 かろうじて、カモが写っていたものです。タイトルも「不忍雪の鴨」です。弁天堂あたりだと思います。右手手前にいるのはマガモのように見えます。中央は背中まで白いので、ホシハジロでしょうか。マツの頬杖の根元にいるお腹の白い小型のカモは何でしょう。この他は、特徴がわかりにくいカモの雌のようです。この1枚が、いちばんカモが写っていた絵はがきとなります。
 不忍池のカモの増減については、上野動物園による餌撒きの影響がかなり大きいと言われています。小宮輝之さんの『動物園ではたらく』(2017)によると、カモへの給餌は戦後の古賀忠道さんが園長の時代にはじまったそうです。1958年からはじまり、10年ほどでオナガガモが集まりはじめたとのこと。ということは1968年頃にオナガガモが集まり始めて、1970年代にかけて多かったことになります。
 ですので、絵はがきのように戦前の不忍池は、それほどカモは多くはなかったと推測されます。
 話は、いっきに江戸時代に飛びます。

Photo_20191208202801
 歌川広重の『絵本江戸土産』の「不忍池」です。『絵本江戸土産』は、1850(嘉永3)年から1867(慶応3)年にかけて制作されていますから、江戸後期の風景です。当時、流行った鳥瞰図で上から見たように描かれています。以前、池之端の料理屋の5階から見たら、同じように見えました。江戸時代は、見ることのできないアングルのはずですが、見事に描かれています。
  池の中には、弁天堂に続く道があるだけで、現在のように池が3分割されていません。上に書かれた文字には「(前略)冬は鴨雁蝿の如く水に戯ぶれ、浪に遊ぶ(後略)」と書かれています。カモやガンがハエのようにいたことになります。水面の点々は、ガンやカモなのでしょう。「浪に遊ぶ」という粋な表現と「蝿のごとく」のミスマッチが、江戸風なのでしょうか。
 いずれにしても、江戸時代の文献を見ると、江戸市中の赤坂の溜池などの池には、ガンやカモ、そしてハクチョウが多数渡来していたように伝えられています。
 ツルやトキが乱獲されていなくなった明治から大正の狩猟の暗黒時代は、ガンカモ類にまで及んでいたのかもしれません。
 わずかな資料からいろいろ推測する楽しみに、このところ惹かれています。
 おつきあいありがとうございます。

« カモ類の変遷を古い絵はがきから探る-六義園 | トップページ | 『朝の小鳥』スタジオ収録-来年1月は江戸の鳥たち »

考証」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« カモ類の変遷を古い絵はがきから探る-六義園 | トップページ | 『朝の小鳥』スタジオ収録-来年1月は江戸の鳥たち »