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2020年2月 9日 (日)

彫刻家 ・ 村田勝四郎と日本野鳥の会-展示会

 私が入会した1960年代の日本野鳥の会のバッチです。
 Batch1
  今では、くすんでしまいましたが、最初は金色がピカピカ光っていました。わかりにくいですが、下の部分に村田勝四郎さんのイニシャルのK.Mの文字があります。
 なお、当時の日本野鳥の会東京支部のワッペンも、このバッチのデザインから作られていました。

  Wapenp1090699

 村田勝四郎さんは彫刻家で、戦前から戦後の日本野鳥の会を支えてくれた一人です。
 当時の『野鳥』誌の扉や目次、あるいはタイトルには、よく村田さんのカットが添えられていました。
 その村田さんと日本野鳥の会の関係の展示会が開かれます。
 
 松濤美術館
 前期:2020年2月12日(水)~2月24日(月・休)
 後期:2月29日(土)~3月15日(日)
 入館料:無料
 詳しくは、下記のURLでご確認ください。
  https://shoto-museum.jp/exhibitions/2019salon/

 村田さんには、一度お会いした記憶があります。
 まだ、日本野鳥の会が財団法人となって事務所ができたばかりの頃です。当時の事務所は、渋谷の宮益坂を登り志賀昆虫社の先にありました。その後、隣にこどもの城や国連大学ができました。
 第一次第一園芸ですから1971年だったと思います。第一園芸自体が2階建てのプレハブのような構造で、事務所といっても倉庫、物置スペースを改造したようなところでした。床がぎしぎしいっていたのをおぼえています。竹下さん、蓮尾さん、市田さんが事務局員で、重泉さんご夫婦が会計をやっていた時代です。
 私は、東邦大学の4年生で、野鳥の発送のボランティアや干潟埋め立て反対の署名運動などで、毎週1回くらいは顔を出していました。
 たまたま、事務所には重泉さんご夫妻しかおらず、私がいたところに村田さんがいらっしゃいました。品の良い小柄なご老人というイメージが残っています。重泉さんが「バッチのデザインをしてくれた先生です」と言って教えてくれたと思います。
 ただ、村田デザインのバッチは当時の会員にはあまり評判が良くありませんでした。探鳥会でバッチを付けている人に会うことは希でした。今思えば、当時としては斬新すぎるデザインだったのだと思います。
 そのとき、村田さんが「野鳥の会も事務所を持つようになれた」と感慨深げに言っていたのをおぼえています。そして、「あと、これで鳥籠を飾れば野鳥の会に事務所らしくなる」というようなことを言ったと記憶しています。これには、びっくり。重泉さんの奥さんが、慌てて取り繕うようなことを言ってくれたのですが、たぶん私はボランティア作業をもくもくとしたことと思います。ですので、お話はしませんでした。
 当時の私は、TシャツにGパン、髪が長く当時流行のヒッピーのように見えたと思います。村田さんもそんな怪しい若者とは話のしようがなったのかもしれません。
 ただ、1960年に発行された『野鳥』の200号記念号には、村田さんが「どうにかならないのか」というタイトルで、飼い鳥問題から農薬問題にいたるまで野鳥を取り巻く問題を憂えています。ということは、事務所での一言、あれはジョークだったのだと今、思っています。
  「野鳥」誌のバックナンバーを調べていて村田さんの挿絵を見ると、この出来事を思い出します。
 そんな村田さんの作品をじっくりと鑑賞しにいけたらと思います。

 

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