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2020年3月

2020年3月30日 (月)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その5

 それから11年後の1891(明治24)年、はじめて日本人による日本産鳥類のリストが発表されます。
 飯島魁(1861~1921)による『日本の鳥目録(Nipon no Tori Mokuroku)』(飯島魁・1891)です。およそ130年前になります。
 飯島さんの肖像写真です。昔の方は、皆りっぱな風貌をしています。
Isaoiijima
 このリストは、日本動物学会誌に連載されたもので、33ページ403種類がリストアップされています。和名も表記、ただしこれもローマ字、ウグイスはUguisuです。しかし、不思議なことにこのリストには、なんとコウグイス(Ko-Uguisu)も載っていました。
 飯島さんは、のちに東京大学(当時は帝国大学)の動物学教室を中心に日本の鳥類学の礎を築いた方です。日本鳥学会の初代会長にもなり、教え子には山階芳麿、黒田長禮、内田清之助、蜂須賀正氏、鷹司信輔といった日本の鳥学を支えた大御所がずらっと並びます。山階さんには、以前の勤め先の会長で、孫のように接してもらいました。中学高校時代は、内田さんのエッセイを読んで勉強しました。蜂須賀さんの本もわくわくした読みました。黒田さんの本は今でもネタ本です。鷹司さんは明治神宮の宮司であったことから、日本野鳥の会東京支部の明治神宮探鳥会では有料の御苑にタダで入れてもらっていました。私も何度か恩恵にあずかっています。今、私がこうして鳥に関わる仕事ができるのも、元をたどれば飯島さんがいらしたおかげなのです。
 その飯島さんが、10年前に否定されたのにも関わらず、また日本人でありながらコウグイスの存在を認めた根拠はなんでしょう。リストは、学名とローマ字の和名を列記しただけのもの、そのためそれぞれの種類についての解説がないので理由は不明です。
 この『日本の鳥目録』は、飯島さん30才のときのお仕事です。30才の若さでは、テンミックに反証するすべを持たなかったのでしょうか。飯島さんが、まだ学業中場であったためでしょうか。
 私が調べた限り、これ以降にコウグイスは、見つかりませんでした。コウグイスは、シーボルトの『日本動物誌』から飯島さんの『日本の鳥目録』まで、およそ40年間存在したことになります。
 ウグイスの学名と和名の変遷をたどり調べてみたら、日本の鳥類学の夜明けを知ることができました。(おわり)

飯島 魁 1891 Nipon no Tori Mokuroku 動物学雑誌 Vol.3 31-33
下記サイトにて動物学雑誌のバックナンバーを閲覧できます。飯島さんの『日本の鳥目録』は、当該号の”OTHERS”という項目に入っています。
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10824026?tocOpened=1

2020年3月29日 (日)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その4

 日本のウグイスが2種に分かれているのはおかしいと気が付いたのは、イギリスのヘンリー・シーボム(1832~1895)です。シーボムは、製鉄会社の社長でありながら鳥類学者として名前を残しています。著書の見返しに掲載されている肖像写真です。
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   1862年のイギリスの学会誌に「シーボムが間違いだと指摘している」と後述のブラキストンとプライヤーが書いています。のちにシーボムは『日本帝国の鳥』(H. Seebohm・1890)を著します。明治23年のことです。この本は、一般の書店に並んだ最初の”日本の鳥の本”となります。386ページも及ぶ大著で、381種が収録され、ところどころイラストも添えられています。
 この本では、ウグイスに相当するSalicaria cantillansはSmall Japanese Bush-Warbler、Salicaria cantansにはLarge Japanese Bush-Warblerとそれぞれ英名がつけられてますが、本文を読むと「日本人は、2種の存在を認めていない。」と書いています。
 ただ、シーボムはシベリアまで来たものの日本には来ていません。まえがきには、2,000体もの剥製を元に書いたとあり、剥製の提供者に謝辞を述べています。シーボムもテンミックらと同じように日本から送られてきた剥製を元に研究をしていたことになります。そのため、日本にいた仲間からの生の情報をえての判断ということになります。
 日本にいた仲間とは、イギリス人の軍人であり貿易商のトーマス・ライト・ブラキストン(1832~1891)と、同じくイギリス人で保険会社社員ヘンリー・ジェームス・ストーブン(ストヴィン)・プライヤー(1850~1888)です。2人とも、明治の初期に横浜と函館に在住して商売をします。仕事のかたわら、鳥のみならず昆虫も含めて研究をして論文を発表します。とくにブランキストンは、北海道と本州とでは生物相が異なり、津軽海峡に分布境界線があると示唆、のちにこれをブランキストン線と呼ぶようになり名を残します。
 実は、この2人によって1880年に書かれた "日本の鳥類目録" (Blakiston & Pryer・1880)が、日本の鳥の和名が書かれた最初の報告となります。この目録で、スズメはスズメとなり、カラスはハシブトガラスとハシブトガラスとなりました。ただし、和名はローマ字で表記され、ウグイスはUguhisuとなっています。
 日本は広く、それぞれの地方で独特の文化が発達している国でした。それだけに、方言も豊富で、鳥の名前も地方によってさまざまです。たとえば、ヒガラとコガラでは地方によっては逆なところもあります。
 彼らが日本全国を旅して地方名を採集して、そのなかから選んだというより彼らが拠点とした横浜と函館、関東地方と北海道の方言名を採用した可能性があります。
 もう一つの可能性として、415種の鳥の名前を50音順に並べた『鳥名便覧(ルビ:ちょうめいべんらん)』が1830年に江戸で刊行されています。筆者は薩摩藩の大名、島津重豪(1745~1833)です。蘭癖大名と言われていました。蘭癖とは、”西洋かぶれ”と言ったらよいでしょうか。鳥が好きで西洋の学問を学びました。当時、いろは順が多いなか50音順のリストも斬新なことであったと思います。
 ちなみに、『鳥名便覧』の巻末の序=跋を寄せている福岡藩主の黒田斉清は、シーボルトと面談し西洋の知識を取り入れようとした蘭癖仲間です。当時の大名同士、博物好きのネットワークがあったことになります。さらに、斉清の4代あとに日本鳥学会の会頭を勤めた長禮、そのご子息に長久がいます。鳥好き、生き物好きの家系と言えば家系なのですね。
 いずれにしても、ブランキストンとプライヤーが選んだ方言名は、その後の日本人によるリストでも多くが採用され現在の和名に至ります。
 ウグイスもいろいろな呼び名があったはずですが、そのなかからウグイスが採用されたことになります。こうして、日本の鳥の名前は今から100年ほど前に固定されました。
 なお、このリストでは「ウグイスは1種。小さい方は、雌である」と書かれています。二人は、横浜郊外や北海道で採集をしていますから、フィールド経験も豊富です。ウグイスを観察しての結論でしょう。(つづく)

Blakiston & Pryer 1880 Catalogue of the Birds of Japan. The Asiatic Society of Japan Vol.8. 172-241p.8 (1964年のYushodo Booksellers Ltd.Tokyo.による復刻を参考)
Seebohm H.  1890  The Birds of the Japanese Empire.  R.H.Porter.
『日本帝国の鳥』は
https://www.biodiversitylibrary.org/item/115889#page/7/mode/1up
で公開されています。
島津重豪 1830 鳥名便覧 (江戸科学古典叢書 44 「博物学短篇集 上」 1982 恒和出版より)

追記:園部浩一郎さんから、「日本の鳥の和名が書かれた最初の報告として1880年の”Catalogue of the Birds of Japan”(プラキストン&プライヤー)があげられていますが、両人による1978年のIbisの”Catalogue of the Birds of Japan”が最初です。(中略、ウグイスは)Herbivox cantans, T. & S. "Uguisu"と載っています。」とのご指摘をいただきました。
 プラキストン&プライヤーが、複数リストを発表しているのは記憶していましたが、検索して最初にでてきたリストを使用してしまいました。最初の和名の書かれたリストは、1978年となりますので、2年遡ることになります。訂正いたします。
 園部さん、ありがとうございました。


2020年3月28日 (土)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その3

コウグイスがいた時代
  本州などに分布するウグイスの学名について、エピソードも紹介しておきます。
 本州などのウグイスに学名がつくのには、キットリッツから20年たった1850年に成立したシーボルトの『日本動物誌』まで、待たなくてはなりません。
 江戸後期、日本に来た医師のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796~1866)がいます。シーボルトは、日本と交易のない国のドイツ人であるため、オランダ人と偽って入国します。現在で言えば、日本人が中国人と偽って北朝鮮に入国するようなものです。のちに、スパイの嫌疑をかけられ関係者は処刑され、シーボルト自身も追放されるという事件になります。
 しかし、シーボルトがもたらした近代医学の礎は、その後の日本の発展に大きく寄与したといえます。また、博物学にも造詣が深く、長崎に滞在した1823~1829年間に生物の標本を採集してはオランダに送ります。
 その集大成が『日本動物誌』と『日本植物誌』です。絵の黒い部分は石版刷り、色は職人の手で彩色されています。絵1枚で1種、解説文が別に印刷されています。これを一回に数種ずつ発行して、ですから、読者は完成してから製本して保存します。鳥編だけで1844~1850年の6年間、全体は1833年からで17年かかった大事業でした。実質的には、シーボルトの自費出版です。シーボルト家は、貴族階級でそれだけの資産があったことになります。
 また、動物の学名を整理して命名したのは、オランダのライデン博物館のコンラート・ヤコブ・テミンク(1778~1858)とヘルマン・シュレーゲル(1804~1884)です。2人は、シーボルトに雇われて関わりました。
 『日本動物誌』は、近代日本の生物学の礎とも言える書物ですが、日本には数セットしか現存していません。
 私は一度、『日本動物誌』のオリジナルが古書展に出品されると聞いて、見に行ったことがあります。さわることができないため、古書店に方にページをめくってもらいました。大きなことと100年以上たっているにも関わらず、退色することのない石版刷り手彩色の美しさに魅せられました。もはや書籍ではなく芸術品だと思いました。バブル後期でしたが、このときの値段が500万円。もちろん買えませんが、高級外車より安い値段に物の価値とは何なのだろうと思ったものです。
 また、昭和初期の1934~1937年に植物文献刊行会によって復刻された版を持っています。復刻版と言えども、私の蔵書のなかでもっとも高価な代金を払い入手した本となります。
 この『日本動物誌』の制作作業のなかで、トキにIbis nippon、後にNipponia nipponという学名がつけられました。また、前掲のアカヒゲとコマドリの学名の付け間違いも起きています。どうも、テミンクとシュレーゲルの仲があまりよくなく、連携が取れていなかったためという説もあります。
 現在のドイツは、ユーロ圏はもとより世界のリーダー的な存在です。GDP(国内総生産)でみると、ドイツは4位、オランダは18位と大きな差があります。ところが19世紀のオランダは、東南アジアを中心に植民地を持ち、イギリス、スペインなどと並ぶ列強国のひとつでした。それに対しドイツは、植民地政策で遅れをとり格下。また、日本と国交のないドイツの医師シーボルトが交易のあったオランダ人と偽って日本にきています。
 こうした当時の世界情勢のもとオランダ人のテミンクとシュレーゲル、そしてドイツ人のシーボルトの関係には軋轢があって、それが間違いにつながったのではと想像してしまいます。
 ところでいくら『日本動物誌』を見ても、ウグイスが載っていないのです。
 よく探すと、Salicaria cantillansSalicaria cantansという学名がついた鳥がどうもウグイスのようなのです。ウグイスの雄と雌の大きさが違うことから、雌雄を別の種類として命名していたのです。
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 Salicaria cantansとされているウグイスの雄
     
Bushwarbler
Salicaria cantillansとされているウグイスの雌   

 学名は、日本から送られてきた剥製を根拠に考えられました。剥製は、内臓を抜き取り防腐剤で処理しているか、塩漬けの状態です。魚を分類するのに干物を元に行っているようなものです。ですから、卵巣があるか精巣が残っているかなど雌雄を判断する材料はなかったことになります。ちなみに、オオルリも雄と雌で別種として記載されています。
  のちに雄の学名のcantansが、本州のウグイスの亜種名のとして採用され現在にいたります。ちなみにcantansは、「歌う」にちなんだラテン語です。学名をつけたテミンクは日本に来ていませんし、ウグイスの鳴き声を聞いたことはないはずです。シーボルトは、1830年に帰国し1859年に再来日しています。帰国中は、『日本動物誌』の制作に関わったはずで、日本で聞いたウグイスの声を思い出しながら学名をテミンクに提案したのかもしれません。(つづく)

 Philipp Franz von Siebold 1844~1850 Fauna Japonica.(シーボルトの『日本動物誌』は昭和9年(1934)に発行された植物文献刊行会のものを参考にしています)
福岡県立図書館では、シーボルトコレクションとして内容を公開しています。下記URLで閲覧できます。
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/001/dou_index.html

 

2020年3月27日 (金)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その2

 キットリッツがハシナガウグイスにつけた学名は、Sylvia diphone。その後、属名のSylviaは何度か変更され現在のCettiaに至ります。
 なんとウグイスの種小名は、小笠原の亜種ハシナガウグイスのものだったのです。なお、diphoneのdiは2です。mono、di、tri、tetraのdiです。phoneは、今では電話の意味として使われることがあります。しかし、当時はまだ電話は普及していませんので、元の意味の”音”でよろしいでしょう。ですから、2つの音という命名です(久保順三・1991)。
  ウグイスの「ホーホケキョ」はどう聞いても4音、2つ以上の音があります。そのため、この学名と合致しないのが気になっていました。
 思い出してください。方言のところ(122ページ)で書いたように小笠原のハシナガウグイスのさえずりは「ギーチョン」や「ギーホッ」と聞こえ、2音なのです。キットリッツが命名したのは、ハシナガウグイスなのですから、2つの音という意味で合致します。キットリッツは、実際に小笠原で生きたハシナガウグイスの鳴き声を聞いて、学名を付けていたのです。
 当時の多くの分類学者は、採集人が取ってきた標本を元に学名を付けました。そのため学名の意味は、色や形になりがちです。鳴き声由来の学名は、命名者が実際に見聞きした証拠となります。
  現在、ハシナガウグイスの亜種名まで表記すると、Cettia diphone diphoneです。
 本州などのウグイスの亜種名は、Cettia diphone cantansとなります。ハシナガウグイスのように、種小名と亜種名が同じ亜種を基亜種といいます。ウグイスの場合、ハシナガウグイスが基亜種となります。これは、亜種のなかで最初に学会に登録されたものが基亜種となるためです。
 多くの場合、分布が広く数の多い亜種のほうが先に学名がつけられることあるため、基亜種は普通にいる亜種となります。しかし、小笠原だけというたいへん分布の狭いところにいる亜種が基亜種になることもあるのです。
 私は、1988年にロシア(当時はソ連)のサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)に行ったことがあります。大きな博物館があって、現地の鳥類学者とタイガに野宿に行ったりしてバードウォッチングも楽しんできました。そのとき、オガサワラマシコの標本を見せてもらいました。世界に11体しかなく日本にはない標本なのですから、とても緊張して見たのをおぼえています。このとき、この博物館にはキットリッツが採集したハシナガウグイスの標本もあったはずですが、そこまで気が回らず、今思えば残念なことをしました。(つづく)
参考文献
久保順三 1991 日本鳥名ノート・改訂版 鎌倉自主探鳥会

2020年3月26日 (木)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その1

 去年の5月に発行された『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』が、増刷されました。本が売れない時代にもかかわらず1年もたたずの増刷は、たいへんありがたいことです。
 本書は、中学生が読者対象ということで、表現はもとよりボリューム的にもいろいろな制約がありました。実は、収録した原稿の1.5倍ほどを書いています。全体に少しずつカットした部分とごっそりとネタそのものを削った項目があります。
 増刷御礼として、このカットしたネタをアップします。『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』の読了後に重ねてお目通しいただければ、より内容を楽しむことができると思います。
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ウグイスの学名は誰がつけたのか
 現在のウグイスの学名は、Cettia diphoneです。学名であることを示すために、斜体をかける=イタリック体で表記します。
 まず、人が発見した生物の種には、バクテリアでも哺乳類でも学名がつけられています。学名を付けることで種としての定義されます。たとえば、イヌはちいさなチワワから大きなセントバーナードまでいますが、学名はすべてCanis lupusとなり1種です。ちなみに、私たちヒトの学名は、Homo sapiensです。
 学名は、ラテン語で属名と種小名の2名連記で表記します。なお、亜種は3名連記となります。
 この学名を提唱したのは、スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(1707~1778)です。リンネは、うぬぼれが強く人間的にはあまり評判の良くなかった人物でしたが、学名の命名法を考案した功績は大きなものがあります。生き物を分類するという基礎の基礎は、その後のダーウィンが進化論を発想するなど、生物学の発展の契機となっています。それに、今から200年以上も前に提唱されたシステムであるに関わらず、今も有効なのですからリンネに感謝です。
 さて、学名は先につけた方が優先されます。こうした交通整理を動物の場合は、動物命名法国際審議会が行っています。これにより、同じ学名がいろいろな生物に付けられないように管理されています。また、一度学名を付けると基本的には変えることはできません。ですから、アカヒゲの種小名にkomadori、コマドリはakahige、ミゾゴイにgoisagiとつけ間違ってもそのままです。ただし、分類学の発展によって属が変わり学名が付け替えられることもあります。
 もし、私が新種を発見したとします。
 発見者の私には、学名をつける権利があります。ですから、自分の名前を付けることも可能です。基本的には、命名者として名前が残ります。この文明が存在する限り自分の名前が残ることになります。生物学を志すものとしては、新種発見は夢です。
 ただ、新種として認めてもらうためには、ちゃんと論文を発表しなくてはなりません。さらに、これが新種発表の元になった標本、これをタイプ標本と言います-を残すことも必要です。あとから誰が見ても新種であると証明できる客観的な証拠を残さなくてはならないのです。
  さて、diphoneの学名を使ったのは、ドイツ人貴族の博物学者のハインリッヒ・フォン・キットリッツ(1799~1874)です。
 キットリッツは、1828年5月1日から2週間、小笠原諸島に滞在して鳥を採集します。これは、ロシア船による4年近くに渡る航海の途中のことで、まだ大航海時代の面影の残るクルーズです。当時の小笠原は、捕鯨の基地の役割を果たしていました。また、この時代、ロシアは捕鯨大国でした。
 この頃の日本は、まだ江戸時代で鎖国政策のまっただなかです。西郷隆盛が生まれ、葛飾北斎が『富嶽三十六景』を描きはじめ、庶民の間に伊勢神宮に集団でお参りにいく、お陰参りが大流行した頃です。
 なお、アメリカのペリーが浦賀に黒船4隻とともに、やって来たのは24年後の1853年のことです。いかに、キットリッツの小笠原来訪が早い時期であったか、わかると思います。
 このとき、キットリッツは、絶滅したオガサワラマシコも採集しています。オガサワラマシコの標本は、このキットリッツら採集した11体しか現存していません。それだけ、あっというまに絶滅してしまったことになります。
 キットリッツは、オガサワラマシコにも学名をつけて発表するのですが、2年前に発表されていて先取権を奪われます。しかし、セントペテルブルグの帝国大学理学部の学会誌に発表した小笠原のウグイス、ハシナガウグイスの学名の命名は、世界で最初となり認められます。1830年のことです(黒田長禮・1927)。
 当時の日本の学校と言えば寺子屋で読み書きそろばんを習い、藩校で武芸と四書五経を学んでいた時代です。しかし、すでにヨーロッパでは大学があり、近代科学への道を歩み始めていたのです(つづく)。
参考文献
黒田長禮 1927年 『日本鳥学発達史』 自然科学Vol.2, No.2:20-57 改造社

2020年3月22日 (日)

21時間録音してこれだけ-日光

 連休ということで栃木県日光に行ってきました。
 20日は強風で録音はあきらめていましたが、せっかく日光に来たのだからと山陰の少しでも風の少なそうなところにタイマー録音を仕掛けました。標高800mほどの雑木林です。ここにYAMAHA W24を2台とTASCAM DR-05を1台、タイマー設定は、午前4時30分から7時30分です。
 東北新幹線が止まるほどの強風、それもかなり長時間吹き荒れ、朝のゴールデンタイムも止みませんでした。そのため、合計9時間録音したのですが、まったく鳥の声を捉えることができなかった録音機があったほど、鳥が鳴いていない朝でした。
 奇跡的に録音できたのは、DR-05がとらえたミソサザイです。ボリュームを少しアップ、2,000Hz以下のノイズを軽減、ノイズリダクションをかけています。

 この3声のみです。それも、風の止み間に鳴いていました。このあと、かなり遠くで鳴く声をかすかにとらえていましたが、9時間でこれだけです。
 21日は、同じ場所に2台。さらに、標高1,600mの高原に3台を置きました。まだ、森のなかには雪が残っています。タイマー設定は同じ時間ですが、1台は夜の録音を録るため午後6時から9時までとしました。
 なんと、TASCAM DR-05のタイマー設定をミス。録音されていませんでした。それでも、この日は、合計12時間分の録音をしたことになります。
 21日の標高800mの雑木林では、同じ時間にミソサザイがやはり数声鳴いただけで、ほとんど鳥の声をとらえることができませんでした。強風のせいというより、まだ時期が早いようです。
 標高1,600mの高原のほうは、夜の録音には鳥も含めて生き物の声は録音されていませんでした。ただ、早朝は遠いもののミソサザイ、コゲラ、ヒガラ、コガラ、エナガの鳴き声とアカゲラのドラミングが入っていました。遠いと言うことは、まだ密度が低く録音機の近くで鳴いてくれる鳥がいなかったということでしょう。
 なんとか音ととらえていたのが、コガラの変わった鳴き声です。YAMAHA W24で録音、ボリュームのアップ、2,000Hz以下のノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。

 この声は、ときおり早春に聞くことができる鳴き声です。ただ、夏に鳴いた記録もありますので、どのような意味があるのか不明になってしまいました。
 いずれにしても、いよいよ野鳥録音のシーズン到来です。21時間録音できるのも録音機の発達のおかげです。録音機を磨いて、また挑戦いたします。

2020年3月21日 (土)

激しい笹鳴き-六義園

 先日の六義園での録音です。
 以前、ウグイスがさえずっていた場所です。
 激しい笹鳴きが聞こえました。PCM-D100で録音、1,500Hz以下のノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。

 よく聞くと「ジャジャ」という声と「ジュルル」という連続して鳴く声がかぶっていて2羽が鳴き合っているのがわかります。
 録音機をそっと置いて離れて観察しました。間違いなく2羽のウグイスがミヤコザザのなかにいるのを確認できました。ただ、雌雄まではわかりません。1mも離れていないところで鳴き合っています。
 この録音は、10分32秒あります。私が録音する前から、激しく鳴いていましたので10数分はやりあっていたことになります。
 笹鳴きは、姿の見えない藪のなかでお互いの存在を確認しあう意味のほか、自己主張の意味もあると思っていました。さらに、こうした激しい鳴き合いから威嚇をしているような印象もあります。
 笹鳴きをウグイスの地鳴きとして一括りにするのは、まずいのではと思う録音でした。 

2020年3月18日 (水)

『朝の小鳥』スタジオ収録-4月は北海道

 本日は、文化放送にて『朝の小鳥』のスタジオ収録でした。
 4月は、何度かこの季節に訪れて取材した北海道の鳥たちです。
 今回、挑戦したのは高い声で鳴く鳥です。ここ数年で、ラジオの聞き方が変わってきました。radikoの普及で『朝の小鳥』のように朝早い時間に放送されている番組でも、24時間以内であればネットを通じて聞くことがきるようになりました。そのため、Twitter検索すると、以前は日曜日の午前5時20分になると書き込まれていた感想が一日中、時間に関係なく書き込まれるようになりました。

 そのため、AM波では高い声を伝えにくいのですが、ネットならば大丈夫だろうということでの挑戦です。今回とくにエゾライチョウが6,000~9,000Hzの高い声で鳴くため、前もって技術担当の方に大丈夫かどうかの確認をしてもらいました。大丈夫というお墨付きをもらっての収録です。

 実は、同じように8,000Hzの高い声で鳴くヤブサメを放送したことがありません。もし、聞こえないという苦情がきたらと思うと取り上げるのをためらっていました。これからは、反応を見ながら高い声で鳴く鳥たちにも登場してもらうつもりです。

2020年4月 放送予定
4月 5日 トラツグミ
  12日 クマタカ
  19日  キバシリ
  26日  エゾライチョウ
 

2020年3月13日 (金)

トラツグミの早春の鳴き声

 近くの公園にトラツグミが、滞在しています。しかし、人の近づけないところにいて、遠くて写真にならないと常連さんたちは嘆いています。
 では、録音してみようと昨晩、録音機を仕掛けました。過去の経験からトラツグミが鳴き始めるのは、午後9時頃からです。そのため、午後9時から翌朝の午前6時までの9時間、2Gのファイルが3個できます。
 録音機は、2台仕掛けました。しかし、1台は録音先が本体のメモリ(2G)になっていたために、午後9時から3時間のみの録音でした。ひさしぶりの録音での失敗です。
 2,000~3,000Hzの音がときどき入っています。ざっと1時間に1~2回、一音から三音、入っています。自転車のブレーキのように聞こえますが、近くに坂はありません。夜中にブレーキをかけるような状況にあるとは思えず、トラツグミといたしました。
 その一例です。午前5時頃です。YAMAHA W24で録音。トラツグミの鳴き声部分を増幅、2,000Hz以下のノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。

 ほとんどが、1~2回で3回鳴くのはこの音源くらいです。過去の録音では、3月下旬にトラツグミは長い時間、連続鳴きをしていました。もう一度挑戦をしてみたいと思います。
 あと、昼間いるところに近い場所に録音機を仕掛けたのですが、かなり遠くで聞こえます。ソングポストと餌場は、異なるのかもしれません。あるいは、公園ですから人通りもあるため、昼間と夜の活動場所が違う可能性もあります。
 いずれにしても、あと1ヶ月楽しめそうです。

2020年3月 8日 (日)

昔あったことー野犬の群れ

 昔あったバードウォッチング中の危険なことに、野犬との遭遇がありました。
 ネガのスキャン作業で、出てきた小櫃川河口で遭遇した野犬です。1973年とメモには、あります。
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 こちらは、造成中の葛西臨海公園での野犬です。現在の西なぎさに渡る橋の付近ではないかと思います。1973年5月3日となっています。

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 蒲谷鶴彦さんは「高尾山に行ったときに30匹くらいの野犬がゾロゾロ出てきて、あのときは本当に怖かった」と『放送レポート』(1992・7/8月号)のインタビューで語っています。1960年代のことではないかと思います。
 写真にはありませんが、私も現在の谷津干潟自然観察センターのあたりの埋め立て地で、20匹くらいの野犬に囲まれてことがあります。1970年代です。もちろんセンターはまだなく、一面の砂漠のような造成地が広がっていました。その砂の飛散防止のために高さ1.5mくらいのネットが護岸に沿って張られていました。そのネットを張るための杭に登って、犬たちがいなくなるのをひたすら待ったことがあります。
 バードウォッチングをはじめたばかりの1960年代頃は、板橋区付近の荒川河川敷がホームグラウンドでしたから野犬の群れとはよく会いました。だいたい早めに見つけて、野犬のコースを読んで回避していました。しかし、谷津干潟のときはシギチドリの数を数えるのに夢中になっていて、野犬の群れの接近に気が付きませんでした。
 なんだかあたりの気配が騒がしいと思ってプロミナーから目をはずすと、すぐそばに大きなイヌがいてびっくり。私は、イヌの群れの中にいましました。刺激しないようにそっと近くの杭に登ったと記憶しています。あとは、三脚にマーキングするなよなと願ったものです。
 昔のフィルムのスキャンは、作業をしながらいろいろ思いだし効率が悪いです。しかし、ぼけ防止には良いかもしれません。
 

2020年3月 7日 (土)

初めての鳥の写真-野田の鷺山

   滅多に使いませんが、今まで使っていたニコンのフィルムスキャナー(Coolscan IV)が、Window10ではドライバーがなく、動かないことがわかりました。Window7時代でもすでにドライバーがなくて、手書きのバッチを当てて稼働させていましたので、今回は諦めました。かわりに、EPSONのフラットスキャナー(GT-F740)を購入しました。新コロナウィルスのハイリスク者としては、人混みに出るのも憚れますので、家でスキャン作業です。
 ということで、自分で撮影したいちばん古いネガからスキャンです。
Sagiyama1 

 1960年代、埼玉県浦和にあった野田の鷺山です。高校生だったと思います。
 初めての撮影と同時に、はじめての探鳥会の参加です。初参加の探鳥会で勝手もわからず、”山”というので軽登山靴のようなものを履いていった記憶があります。かなりあとで知ったのですが、農家の方は防風林を山と呼びます。「裏山」というから、てっきり山があるのかと思ったら防風林でした。ただ、田中徳太郎さんの写真集『白サギ』(1961・東京中日新聞)を見ており、鷺山の状況は予習済みでした。
 上から見下ろすようなアングルの写真が撮れたのは、やぐらが建てられていたからです。 
Sagiyama2

 当時、誰かが田中徳太郎さんが建てたと言っていました。
 ところで、この写真に写っている人物は学生帽をかぶっているのに、当時としては長いレンズで写真を撮っています。私の写真は、父のカメラです。ネットで検索するとマミヤ35オートメトラですので、標準レンズで撮っていました。もちろん一眼レフではありません。この方は、今では老練なバードウォッチャーになっていることと思います。

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