若いツバメ-考証
最近、若い人に「”若いツバメ”って知っている?」って聞いたら「幼鳥ですか」と言われました。ということで、若いツバメについて知っている人は知っていると思いますが、考証してみます。
念のために意味は、年上の女性と付き合っている年下の男性でよろしいでしょうか。たとえば「あのバーテンは、ママの若いツバメだから」という感じに使います。ちょっと憧れる状況ではあります。
江戸時代からある言葉かと思ったら、昭和時代になって流布した言葉であることがわかりました。それも、ちょっと日本野鳥の会に関係しているかもしれないということでの考証です。
この若いツバメという言葉のきっかけになったのは、平塚らいちょうさんです。らいちょうさんは、鳥の名前が付いているので調べたことがあります。日本における女性の権利を主張した運動家です。今でも男女平等、同権を訴えるのはたいへんですが、戦前戦後にかけて主張されたのですから、弾圧や誹謗中傷に耐えての運動だったと思います。彼女の意志は戦後の女性運動に引き継がれ、市川房枝さんや神近美智子さん。近年でも土井たか子さんや福島瑞穂さんの活動に影響を与え続けていると思います。
らいちょうさんは、1912年夏に5歳年下の画家志望の青年奥村博史さんと出会い、事実婚(夫婦別姓)を始めます。今は、同棲なんて当たり前でのことですが、加えて有名女性が年下の男性といっしょに暮らすということは、当時としてはとてもセンセーショナルなことで、文春があれば文春砲の餌食なるような事柄だったでしょう。
男女のことですからいろいろあって、一度奥村さんと別れます。そのときの奥村さんの言葉が「若いツバメは活けの平和の為に飛び去っていく」で、ここから若いツバメが流行語になったと言われています。今で言えば、文春砲で狙い撃ちされて、その年の流行語大賞を受賞した感じでしょうか。
ということで、中西悟堂さんの登場です。この件を調べるにあたり、私が住んでいる駒込や巣鴨にらいちょうさんが居住していたことと、悟堂さんが天台宗東部大学(のちの大正大学、現在の駒込学園の場所)であることから駒込つながりがあるかと思っての考証でした。どうも、お二人は駒込では会っていないようです。
ただ、山下桐子さんの「中西悟堂と平塚らいてう」によると、1928年(昭和3) らいちょうさんと悟堂さんが玉川上水で初めて会ったと書かれ、それ以降のお付き合いです。らいちょうさん42才。悟堂さん33才のときで、日本野鳥の会の発足以前のこと。著書は小説や詩集などで、まだ鳥の本は出していません。昆虫のほうに興味があった頃と推測します。
悟堂さんにしてみれば、10才近く年上のらいちょうさんは、業界の先輩として接していたことと思います。ちなみに、悟堂さんは40才の時に20才年下の八重子さんと結婚していますので、どちらかというと年下の女性のほうがよろしかったのではないかと推測いたします。
今回、見つけたのは日本野鳥の会の第1回探鳥会と言われている須走探鳥会に、らいちょうさんの旦那、奥村さんが参加していたことです。私が一人で見つけて喜んでいたら悟堂研究家の西村眞一さんや安西英明さんは、すでにご存知のことでした。
『野鳥と共に』(中西悟堂・1935)には「班に別れた。1班は柳田國男、荒木十畝、北原白秋、金田一京助、内田清之助、清棲幸保、奥村博史、金澤秀之助、杉村楚人冠、菅原恒覧、穂積忠の諸氏に、苔雲荘の三橋小一郎、瀧口俊次郎両氏が加わり、高田昂さんが付添った。もう1班には戸川秋骨、窪田空穂、中村星湖、半田良平、若山喜志子、猪川珹、松山資郎、内田清一郎、金田一春彦、柳田千枝子、柳田三千子、加来都、岡茂雄、松室重行」とあり、奥村さんは白秋さんといっしょの班です。
探鳥会のあとは「北原氏と奥村氏とは旅烏になって伊豆の方へ」とあり、奥村さんは白秋さんと行動をともにしています。どうも、奥村さんは白秋さんに誘われて参加したようです。
ここで不思議なのは、有名な探鳥会の集合写真に奥村さんが写っていないのです。写っていている人31名、班分けで名前が出てくる人(悟堂さんを入れて)29名と写っている人の方が2名多いのにかかわらず、奥村さんがいません。白秋さんが写っているのですから隣にいてもよいはずですがいません。奥村さんは、写真嫌いだったのかしれません。
ちなみに参加したと言われているのに写真に写っていない竹野家立、古見一夫がいます。また、写真に写っていて参加名がないのは、高田兵太郎、高田重雄でガイド役の高田家の人たちです。
「日本野鳥の会だけに若いツバメが来た」という会話があったどうかわかりませんが、資料を調べることでらいちょうさんから若いツバメ、日本野鳥の会の最初の探鳥会への話が広がる面白さを楽しみました。
参考Web
https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/174/174-03.pdf
参考文献
山下 桐子 2012 鳥のこぼれ話(その11)―の「こぼれ話」:中西悟堂と平塚らいてう 地中海歴史風土研究誌(36), 45-49
主な時系列
1886年(明治19) 平塚晴子(らいちょう)誕生
1889年(明治24) 奥村博(博史)誕生
1895年(明治28) 中西富嗣(悟堂)誕生
1911年(明治44) 『青鞜』の創刊にともないらいちょうのペンネームを使う。
1912年(大正1) らいちょうさんと奥村さんが出会う。事実婚を始める。
らいちょうさんと奥村さんが別れる。奥村さんが若いツバメの言葉を使う。
1914年(大正3) らいちょうさんと奥村さんが再びいっしょに生活を始める。
1915年(大正4) 長女誕生。
1917年(大正6) 長男誕生。
1928年(昭和3) らいちょうさん(42才)と悟堂さん(33才)が玉川上水で初めて会う。
1934年(昭和9) 日本野鳥の会の創立に伴う須走探鳥会。奥村さん参加。
※らいちょうのペンネームも若いツバメの言葉も悟堂さんに出会う前のことでした。
« 山の秋の音-日光 | トップページ | 『朝の小鳥』スタジオ収録-10月は粟島 »
「考証」カテゴリの記事
- 地震の時に謎の声ー六義園(2023.05.11)
- サブソングはコルリかも-訂正(2023.04.07)
- オオダイサギの鳴き声-芝川第一調節池(2023.02.01)
- 黒田長久さんのことーその5(2023.01.11)
- 黒田長久さんのことーその4(2023.01.10)
コメント