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2021年3月

2021年3月30日 (火)

思い出のキンクロハジロ-日光

 蒲谷鶴彦先生は、キンクロハジロの鳴き声が録れないとなげいました。上野の不忍池などに行ったのですが、ノイズが大きくて録れなかったそうです。
 それならば、日光の貯水池にキンクロハジロがいるので録れるかもとご案内したのは1997年3月31日でした。ちょうど24年前の明日になります。日光駅の近くでしたが、地面には雪が歩くの苦労するくらい残っていて、早朝はかなり寒い日だったと記憶しています。四半世紀たって温暖化が進んでいることを実感します。
 当時、蒲谷先生はパラボラにサンケンの無指向性マイクを2本、DATのD10-ProⅡで録音していました。夜が明けたばかりの薄明かりのなかで録音を開始、先生ご夫婦、私とTさんもいたこともあって、いつもよりキンクロハジロは遠くにいます。それでも、ディスプレイの鳴き合う声は聞こえましたので、録音はなんとかできました。先生におたずねすると「あっちこっちをつまめば、なんとかなりそう」と言われほっといました。
 そのときの苦労を思うと、今では前の日の夕方に録音機を置いておけば、無人のため近くで鳴いてくれます。簡単に録れてしまって、先生には申しわけないといつも思ってしまいます。先日の同じ場所での録音です。
  TASCAM DR-05で録音、ボリュームの増幅、500Hz以下のノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。

 日光でキンクロハジロの鳴き声を聞き録音をするたびに、先生をご案内した寒かった早朝の録音を思い出します。

2021年3月29日 (月)

『お殿さまの定年後』-感想

  このところ、もっぱら本はアマゾンで買っています。通販だと書店の棚いっぱいに並んだ本の前に立って選ぶ満足感がないのと、本から「私を読んで」という声が聞こえないのが難点です。
 久し振りに書店に行ったら本から声が聞こえました。安藤優一郎・著『お殿さまの定年後』でした。声が消えたというのは嘘ですが、表紙の江戸名所百景のイラストとお殿さま、定年のタイトルのキーワードにひかれました。
Otonosama210329
 江戸時代、大名の定年というのは基本はないのですが、おおむね70才が多かったとのことでした。現在の私の年とほぼ同じと言うことで、まず興味を引きました。また、取り上げられたお殿さまは、我が六義園に隠居した柳沢信鴻をはじめ、江戸の膨大な記録となる日記『甲子夜話』の松浦静山、鳥の和名の基本となった『鳥名便覧』を表した島津重豪が収録されていますので、読まないわけにはいきません。この他、水戸の黄門様で有名な徳川光圀、白河藩主の松平正信が名を連ねています。
 大名になれば好き勝手なことができると思っていたのですが、大間違いでした。江戸城での年末年始の行事のみならず年中行事で多忙を極めます。格式と伝統のなか手配や出席しなくてはならないのですから、窮屈なことこの上ありません。もちろん、自分の藩の運営にも神経を使わなくてはなりません。それ以前に跡継ぎを作らなくてはならない、できなければ問題が生じないように手配しなくてはならないという大命題があります。ですから好きなことができるのは、大名と言えども隠居をしてからということになります。
 信鴻は、どうも仮病を使って隠居をして六義園に住み芝居やら詩歌をたしなむなど、風流な生活を行ったようです。なにしろ津山から江戸に来たとたん元気になり、片道10数キロは歩いて歌舞伎を見に行っているのですからどこが具合悪かったのかと思います。
 隠居後は吉原通いという人もいたことと思いますが、光圀や重豪のように学問追求のために残りの人生を費やす大名もいたことは、その後の日本文化の発達に与えた影響は大きなものがあります。
 こうした定年後の大名の実績と苦労のエピソードが楽しめる本でした。
 自然仲間のなかには定年前に会社を辞めて、好きな生き物や自然のなかで生活を始めた方が複数人います。もちろん、定年になるのをじっとまって弾けたようにバードウォッチングにのめり込み人もいます。
 人生は一度だけ、時代が変わっても好きなことができることは幸せなことだと思います。
 
アマゾンのURL.
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E6%AE%BF%E6%A7%98%E3%81%AE%E5%AE%9A%E5%B9%B4%E5%BE%8C-%E6%97%A5%E7%B5%8C%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E5%AE%89%E8%97%A4-%E5%84%AA%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4532264553/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E3%81%8A%E6%AE%BF%E3%81%95%E3%81%BE%E3%81%AE%E5%AE%9A%E5%B9%B4%E5%BE%8C&qid=1616991590&s=books&sr=1-1

2021年3月27日 (土)

メジロのさえずり初め-六義園

 3月23日の朝、六義園からツグミ系のさえずりが聞こえてきました。
 アカハラではないけれどシロハラともつかないさえずりです。数声だけ録音できましたが、どうもよくわかりません。それならば、早朝にタイマー録音を仕掛けておけば、もっと近くで、あるいは長く鳴いてくれるのではないかと思い、ここ数日チャレンジしてみました。  3日間、録音しましたがくだんの鳴き声が録音されていることはありませんでした。しかし、昨日から長い間さえずるメジロが録音されていました。昨日の3月26日より本格的なさえずりがはじまったという感じです。
 TASCAM DR-05で録音、ボリュームの増幅、2,000Hz以下の低音の軽減、ヒスノイズリダクションをかけています。

 実は去年の今頃、TASCAM DR-05を六義園に向けて長時間録音を行っていました。電池の持ちの実証実験です。この実験は、4月7日より開始したのですが、そのときはすでにメジロがよくさえずっていました。毎日、メジロのさえずりを録音していると言って良いほど、良く鳴いていました。このさえずりが、いつからはじまっていたのか気になっていたのです。どうも、今年のようすから実験開始の1週間以上前から始まっていたようです。
 ただ、去年の4月はさえずっている時間は26分23秒、今年の初日は11分17秒で、比較して短いものでした。また一節一節も短く、まだ力強さを感じません。さえずりの時間はじめは短く、だんだん長くなるのは当たり前のようですが、実際に記録できたのは初めてです。                      

 

2021年3月25日 (木)

シマアオジを守ろうキャンペーン-日本野鳥の会

 1年ほど前に、カワセミをろくに見ていないのにカワセミで寄付を集めることになった日本野鳥の会のT田さんに六義園でカワセミを見せることができました。そのときのエピソードです。
  http://syrinxmm.cocolog-nifty.com/syrinx/2019/12/post-578896.html
  そのT田さんから次なる課題は、シマアオジの保護のためキャンペーンに協力してほしいとのことでした。もちろん、T田さんはシマアオジを見たことも聞いたこともありません。今や小鳥のトキと言われるほど減少してしまったシマアオジなので、カワセミのように気軽に見せることはできません。
 シマアオジは、1970年代にはごく普通にいました。春国岱の海辺の道を歩くとノゴマとシマアオジが交互に現れて、ハマナスの花の上でさえずっていたものです。その頃、サロマ湖畔、石狩川の河口などにも行きましたが、北海道のホオジロという感じで出会うことができたのです。今では、道北のサロベツ原野でかろうじて見られる程度に減ってしまいました。そのため、サロベツに行くとシマアオジ狙いの野鳥カメラマンに何人も出会いました。しかし、鳴き声の記録は少なく、北海道の太平洋側と日本海側では鳴き方が違うのではないかという説の検証ができないほどです。
 ということで、シマアオジの魅力を広く知ってもらうためにYouTubeに動画をアップしたい、ついてはシマアオジの鳴き声を画面に合わせて作って欲しいとの希望でした。動画部分は、大橋弘一さんの写真を中心に2分ていどの構成です。
 音声のほうは、音楽もナレーションも入れないで環境音とシマアオジさえずりだけで画面と合わせるという、けっこうきびしい課題です。2分なのでなんとかなるかと思いましたが、短いだけに秒単位でのタイミングを合わせなくてはならず、本来ならばスタジオで行う作業をコンピュータでコツコツと作るということになりました。
 できあがったのが、次の動画です。
  特設ページが昨日より公開されています。トップのページの動画はアップされていますので、ご覧いただければと思います。
 https://www.wbsj.org/lp/birdmate/
 また、バードメイトに1口1,000円の寄付をいただくとお礼に、シマアオジのピンバッジがプレゼントされます。シマアオジのイラストは武藤修さんです。
  私もいただきましたので、さっそく紺ブレにつけてみました。

 P1110627
どうぞ、皆さん。シマアオジの保護のためにご協力をお願いいたします。

2021年3月24日 (水)

カワアイサ、録り直し-日光

 狩猟鳥で警戒心の強いカワアイサの鳴き声を録るのは、難題です。
 伊豆沼などでは、数100羽の群れでいても水面の真ん中に集まっているのが普通です。どこから見ても距離があり、数100mは離れているのですから鳴き声が聞こえてきたことはありません。
 日光で録音した鳴き声を1ヶ月前にアップしましたが、遠い音を無理矢理、編集加工しているので本来のカワアイサの鳴き声の魅力が伝わるかどうか不安です。ということで再度、録音に挑戦いたしました。
 日光の貯水池ではカワアイサが近いとはいっても、顔を出せば警戒して離れて行きます。近づこうと思えば、カワアイサだけが池から飛び立って池から出ていってしまいます。それだけ警戒心が強いのですから、手持ちでの録音はうまくいきません。そのため、無人録音、あるいはタイマー録音の出番です。録音機を何台も置いて、近くで鳴いてくれる確率を増やすか、何度も試すということで録音を試みました。
 前回も今回も録音機は2台、水の流れ込む音のある水路から離れた場所に置いておきました。鳴くのは日の出時刻の前後であろうと予想して、小鳥の録音と同じように日の出前1時間前から開始して3時間録音しました。
 TASCAM DR-05で録音。200Hz以下の低音の軽減、ボリュームの増幅、ヒスノイズリダクションをかけています。
  前回はおそらく50mは離れていたと思います。今回は、10m程度の距離でさかんにディスプレイをしてくれた感じです。
 今回近くで録れたことで気が付いたことがことあります。まず、ムックリのような「ビューン、ビューン」というのが雄の声、「グ、ゲゲゲ」が雌の声であることは今まで観察でわかていました。ところが近くで録れたことで、連続した「グァグァグァ・・・」という鳴き声がずっとしていることがわかりました。音のかぶり方から雌が鳴いているように思いますが、雄の鳴き声かもしれません。これは、観察することでわかりそうなので次回の課題となりました。

2021年3月23日 (火)

早春の音-コゲラ

 早春の鳴き声の続きです。コゲラです。
 鳴きながらドラミングをしています。
  YAMAHA W24で録音。ボリュームの増幅、400Hz以下のノイズの軽減をしています。


 今までの経験だと「キョキョキョ」という鳴き声のあとにすぐにドラミングをしているのを聞き録音したことがあります。しかし、「ギーッ」といっしょは初めてです。
 ドラミングは、短く回数も少なめ。本格的なドラミングは10回を超えるのが普通ですが、これではおよそ半分の5~6回しか叩いていません。本格的なドラミングをする前に練習をしている感じです。早春ならではのコゲラの鳴き声とドラミングです。
 キツツキ類のドラミングは、春の槌音です。
 

 

2021年3月22日 (月)

早春の音-ヒガラ

 早春の鳴き声の続きです。
 ヒガラのさえずりです。20日、早朝のタイマー録音に入っていた録りたての音です。
 昨日、書いたようにヒガラのさえずりの期間はとても長いのです。しかし、なかなか良い録音が録れません。実はコガラ、メジロ、そしてヒガラといった小さな鳥たちは、鳴き声も小さいのです。たぶんバードウォッチングをしていて、これらの鳥の鳴き声を聞いても声が小さいとは気が付かないと思います。好きな鳥の鳴き声ですから、脳が増幅して聞いてくれるので大きく聞こえてしまうのです。しかし、録音していると声量がないことに気が付きます。ようするに近くで鳴いてくれないと、クリアな音になりません。
 録音をはじめた頃、ヒガラが鳴いている木の下にそっと近づいて録音したことがあります。しかし、それでも大きく録れませんでした。その上、私の気配を察し数声で鳴きやんでしまいました。おそらく私とヒガラとの距離は、10mも離れていなかったと思うのですが、小さな音にしかなりませんでした。
 今回のタイマー録音に入っていた音は、そのときより大きく入っています。10m以内、録音機を置いた木の梢にとまって鳴いていたのでしょうか。いずれにしても、まずまずの録音になりました。
  YAMAHA W24で録音。ボリュームの増幅、2,000Hz以下のノイズの軽減をしています。

 ヒガラの早口のさえずりとキジバトののんびりとした鳴き声、この対比が面白い音の風景になってくれました。
 こうした早口のヒガラのさえずりを聞くと「春がどんどん過ぎていく、急いで仕事しろ」といわれているようで気がせいてしまいます。

 

 

2021年3月21日 (日)

早春の音-コガラ

 早春の野鳥たちの鳴き声の続きです。
 昨日とは別のところに仕掛けたタイマー録音に、コガラとヒガラのさえずりがきれいに入っていました。
 おそらくヒガラは、この季節から8月までさえずり、ウグイスとならんでさえずりの期間が長い鳥だと思います。それに比べると、コガラがさえずる期間は短いように思えます。夏鳥がやって来てにぎやかなコーラスを奏でる頃には鳴き止み、コーラスに入っていることは希です。それに、キビタキやオオルリに比べれば、単純で地味な節回しですから他の鳥がさえずっていると紛れてしまいます。
 やはりコガラのさえずりは、このシーズンの録音しておかないとならない早春の音です。
 YAMAHA W24で録音。2,000Hz以下のノイズの軽減、ボリュームのアップをしています。

 

2021年3月20日 (土)

早春の音-ミソサザイ+キジバト+キツツキのドラミング

 夏鳥たちが来る前にしなくてはならない仕事があります。
 早春の鳴き声の録音です。
 日光のいつもの雑木林にタイマー録音を仕掛けました。なお、タイマー設定は午前4時30分~7時30分、ちなみに日の出時刻は5時44分です。
 置きにいった夕方はミソサザイの姿が見えただけでした。回収にいった今朝7時は、キジバトがさえずっていただけで、林のなかはとても静かでした。まだ、留鳥たちはさえずっていないのか、不安になります。
 ところが、録音を聞いてみると5時11分にフクロウ、26分にミソサザイの地鳴き、30分シジュウカラのさえずり、39分ミソサザイのさえずり、ミソサザイはこの後もなんども繰り返して鳴いています。5時55分にコガラのさえずり、ハシブトガラスも鳴き始めます。このあと、キツツキのドラミング、コゲラの地鳴き、ゴジュウカラ、キジバト、ヒガラのさえずりと続いていました。そして、6時25分には静かになっていました。
 この季節のバードウォッチングの時刻としては午前7時は遅いとは思っていませんでしたが、日の出前後30分はこの季節でも通用するゴールデンタイムでした。ということは、初鳴きが遅いとか早いと記録するのは、日の出時間に合わせて記録を録らないと意味がないのでは思ってしまいました。
 では、早春の音です。ミソサザイとキジバト、合いの手を入れるのはキツツキのドラミングです。TASCAM DR-05で録音。ボリュームの増幅、500Hz以下のノイズの軽減、ヒスノイズリダクションをかけています。

 

2021年3月16日 (火)

ジョウビタキのぐぜり-芝川第一調節池

 久しぶりに県境を越えてのバードウォッチングです。
 埼玉県川口市の芝川第一調節池に行きました。
 南北線は下り、その先はバスかタクシー、現地はもとより人の往来の少ないなかで移動できる唯一のバードウォッチングポイントです。スギ花粉さえなければ、ほとんどマスクをはずしてもなんの問題のないルートを移動できます。
 本日の暖かさは、季節感を失います。まだ、冬鳥のチュウヒが飛んでいるのがおかしいくらい、この暖かい風ならばツバメが飛んでいても良いからです。
 調節池の水位がかなり低くなっているせいか、季節のせいか、以前はたくさんいた潜水性のカモ類やカワウ、カンムリカイツブリ、オオバンがいなくなっていました。
 暖かいとはいえ、まだツグミ、ジョウビタキといった冬鳥たちがいました。帰り際には、ジョウビタキがぐぜっていました。
 PCM-D100で録音、ボリュームのアップ、2,000Hz以下のノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。

 この季節限定の鳴き方です。濁った音や「グジュ」という声はノイズではなく、ぐぜりの一節です。
 あと、1ヶ月もすると渡って行ってしまいますし、国内での繁殖地ではさえずりはじめると思います。今しか聞くことができない鳴き声です

2021年3月13日 (土)

ウグイスがさえずり始めた-六義園

 10日、六義園からかすかにウグイスのさえずりが聞こえてきました。
 最初は、空耳かと思うほど遠くて、しばらく聞いて確認するほどでした。この日は、関東地方は強風に見舞われていましたので、録音は断念しました。翌11日タイマー録音を仕掛けましたが、ウグイスをとらえることはできず。
 昨日12日の朝の録音に入っていました。TASCAM DR-05で録音。1,500Hz以下のノイズの軽減、ウグイスの音域のみボリュームを増幅、ノイズリダクションをかけています。 

 ヒヨドリとかぶっていますが、もうしっかりとしたさえずりになっています。
 時間は午前6時45分頃、1分23秒にわたって鳴き続けていました。この間、谷渡りはしませんでした。さえずり初期は、谷渡りが少ないようです。
 六義園も閉園したまま。コロナで引きこもっているうちに春は、どんどん進んで行きます。
 

2021年3月12日 (金)

『朝の小鳥』スタジオ収録-4月は松戸の田んぼ

 昨日は、文化放送の『朝の小鳥』のスタジオ収録でした。リモートでの参加です。
 昨日は、時あたかも3.11の10年目です。私は、10年前のこの日、松戸の江戸川の川原に行っていました。珍鳥のキガシラシトドがさえずりはじめたということで、午前5時に起きて日の出時間の6時に現着だったと思います。カメラマンのいない間に録音しようと思って行ったのですが、すでに1人いました。曇りで薄くらいなか、キガシラシトドがさえずってくれました。カメラマンも1人ですから、おしゃべりもなし。このときの録音は、『朝の小鳥』でも使っています。
 昼近くになって風が出てきたため録音は不可となり、帰宅しました。一息入れていると大地震。本の雪崩が起きて、スピーカーが落下。でも、まずは家にいて良かったです。
 スタジオでも話題となりました。アナウンサーの鈴木さんは多摩のほうにいて、なんとか家にたどり着いたのが、夜の8時だったそうです。ディレクターの門馬さんは会社にいたので、そのまま泊まり込みだったとか。10年経てば思い出話となります。このコロナ禍もいずれは思い出話となることを祈ります。
 さて、奇しくも4月のテーマは、同じ松戸です。川原側ではなく田んぼ側です。季節も1ヶ月進んで、春の雰囲気の鳥たちです。ふるさとの北国に帰る準備の冬鳥のタヒバリとタシギ、渡りの途中のムナグロ、もう子育てまっさりのムクドリです。
 そういえば、この鳥たちの取材に行ったときに気がついたのですが、大きな農家の瓦屋根が壊れ、青いビニールシートに覆われていました。また、川原には地割れがあったりして、まだ地震の痕跡のあるころでした。

2021年4月 放送予定
 4月 4日 タヒバリ
    11日 タシギ
     18日 ムナグロ
    25日 ムクドリ

事務連絡です。
 4月からの番組編成で、放送時間が5分後ろにずれ、毎週日曜日5時15分~20分となることになりました。 
 またNET局は、4月以降、下記3局となります。
 茨城放送  日曜日 06:00~06:05
 新潟放送  日曜日 06:15~06:20
 朝日放送  土曜日 05:00~05:05

 

 

 

2021年3月11日 (木)

日本野鳥の会にとって3月11日-その2

 昭和初期当時の社会情勢については専門外ですが、私の持てる知識と印象から述べておきます。
 まず創立した年の12年前、大正12(1923)年9月に関東地方は、関東大震災に見舞われています。当時のインフラの状況や首都が被害にあったことを考えると、10年前の東日本大震災以上の爪痕が残っていたはずです。当時の日記などを読むと、知人や近親者が被害にあっていることが多く、まだ震災の記憶が生々しく残っている頃です。
 そして、昭和に入って、だんだん戦争のきな臭さが漂ってきます。
 昭和3(1928)年6月4日 張作霖爆殺事件 
 昭和6(1931)年9月18日 柳条湖事件(満洲事変勃発)
 昭和7(1932)年3月1日 満洲国建国宣言
         5月15日 5.15事件
  昭和8(1933)年3月27日 日本、国際連盟脱退を通告
 国際連盟を脱退することで、日本は世界から孤立して行きます。欧米から見れば、アジア辺境の地の日本が力を付けていくのは面白くありません。また、東アジアのほとんどが列強国の植民地であり、資源と富はヨーロッパに搾取され続けていた時代です。日本にしてみれば、それと同じことを行って何が悪いというスタンスだったことでしょう。
 ドイツではヒットラーが総統の地位につき、しだいに緊張感が高まっていく頃でもあります。
 加えて日本では、2月プロレタリア文学の旗手とされた小林多喜二が、特高により拷問を受けて殺されています。表現の自由が、すでに失われていた時代を迎えていました。そして、日中、太平洋戦争への道を歩むことになります。
昭和9(1934)年3月1日 愛新覚羅溥儀が、満州国の皇帝に即位。映画『ラストエンペラー』の世界です。この10日後に日本野鳥の会が発足したことになります。
昭和11(1936)年2月26日 2.26事件
昭和12(1937)年7月7日 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
昭和14(1939)年9月1日 ドイツ、ポーランド進撃を開始(第2次世界大戦勃発)
昭和16(1941)年12月8日 日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発)
 日本は、朝鮮半島での権益を明治43(1910)年の韓国併合により得ています。そして、さらに中国、とくに満州に植民地を拡げていったことになります。いわば、昭和の初期は朝鮮バブル、それに続く満州バブルが頂点を迎えていたと言っても良いでしょう。とくに満州鉄道の権益は、膨大な利益をもたらさせたと言われています。当時の記録を見ると、満州鉄道の勢いは、ただの鉄道会社ではありません。技術と文化の粋を集めた先端企業です。医療などの技術は本土の日本より進んでいたほどで、満州は未来輝くユートピアの様相を呈していました。この利権を守るために日本は、満州に皇帝を即位させ傀儡を確実なものとします。それが、日本野鳥の会の創立と同じ年でした。
 今でも同じような風潮がありますが、当時の農家は長男が田地田畑を継ぐことで、次男以下は長男に何かあったときの保険に過ぎません。こうした家長制度のなか、意識あるものはユートピアの地の満州で一腹上げようと開拓に加わるか、兵隊となって大陸に渡っていったことになります。
 こうした利益は、株式の高配当となってもたらされました。先にあげた山階以下の貴族たちは、国策もあって満州鉄道の株式を財産として持っていました。こうした利益から、大図鑑を発行する資金を得たものと想像します。たとえば、昭和15年に発行された水野馨の『満州鳥類原色大図鑑』(東京プロセス社・1940)の前書きには、満州鉄道の関連会社から資金協力を得たと書かれています。あえて言えば、満州から搾取された利益で大図鑑ができたのかもしれないと思うと複雑な心境になります。
 ちなみに、戦前の日本野鳥の会も『野鳥』誌の発行も満州鉄道から寄付をもらっています。松山資郎の『野鳥と共に80年』(文一総合出版・1997)によれば、「(悟堂が)満鉄総裁、早川千吉郎さんの御子息の早川忠吉さんを来訪されたが、この方々のお金のだしぶりは実に気前が良かったそうである」と書かれています。
 その反面、終戦を迎えたとき、満州鉄道の株券は紙くずとなり多くの貴族学者たちは財産を失うことになります。
 たとえば、発起人に顔を連ねた北原白秋はヒットラーユーゲントの来訪に合わせて「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、軍国主義に加担しています。この日本で生きていくこと、そして好きな文学の世界に身を置くためには、そうせざるを得ない世相であったことは十分に想像できます。私の両親の話などから、当時の日本人の多くが戦争に負けるとは思っていませんでした。疑問を持っていた人がいたことは事実ですが、現在の香港、このところミャンマーの市民活動家以上に命をかけなくては葬られる時代であったと言えます。
 言論統制のなか、雑誌の発行や文学活動はいかに苦労の多かったことか、想像できません。戦争が拡大するとともに『野鳥』の戦地からの報告も地名は、だんだん伏せ字が多くなっていきます。当然のことながら検閲を受けての発行ですが、受けたことやその苦労を書くことはできません。行間からもどかしさを推し量るしかありません。
  今回、自分が日本の近代史に暗いことを改めて実感いたしました。昭和初期は、日本野鳥の会が創立したくらいですから平和でのんびりした時代だと、かってに思っていましたが大違いでした。日本は前年に国際連盟を脱退し小林多喜二が謀殺され、ドイツではヒットラーが総統になっていました。そして、創立した年は満州国皇帝が即位し、翌年には2.26事件が起きています。日本、そして世界が戦争への道を歩みはじめたなか、日本野鳥の会が発足したのです。
 この後、多くの会員が戦地に赴き帰ってこなかった方もいたことでしょう。悟堂も山形県、東京都福生などに疎開をします。日本野鳥の会の活動も滞り、『野鳥』の戦前の最終刊は、廃刊のつもりで編集されています。そして昭和20(1945)年、敗戦を迎えます。
 終戦とともに日本野鳥の会も活動を開始します。なんと、翌年6月には『自然と四季』という雑誌を発行しています(掲載写真は表紙) 。第1号は昭和21年5月25日発行となっていますから、終戦後わずか9ヶ月で発行されたことになります。準備があるはずですから、戦争が終わるのを待ってましたとばかりに作業が始まったと言っても過言ではないでしょう。そして、戦後の最初の『野鳥』誌は、昭和22年(1947年)より発行されます。
Y2
 ちなみに、東京支部が発足したのも終戦わずか2年目のこの年です。支部の活動は、榎本佳樹が確立させた野外識別のノウハウを探鳥会で活用することで発展していきます。いわば、『野鳥』誌を中心とした文芸路線からバードウォッチング中心の野外活動になるのが戦後の日本野鳥の会の特徴です。
 いずれにしても終戦後、食べるものもろくにない時代、日本野鳥の会の復興に尽力してくれた諸先輩がいたのです。おかげで、こうして日本野鳥の会が存続しバードウォッチングを楽しむことができるだと思うと皆さんに感謝です。
 現在、コロナ禍のなか公益財団法人日本野鳥の会は、きびしい経営を強いられています。連携団体は思うように探鳥会が開催できず活動が滞っています。しかし、戦前戦後の動乱期に苦労された諸先輩に比べたらと思うと、頑張れるのではないでしょうか。
 将来「2020年代コロナの時代に頑張った人たちがいて今の日本野鳥の会がある」と言われるようになるのかもしれません。(終わり)

2021年3月10日 (水)

日本野鳥の会にとって3月11日-その1

 3月11日は「日本野鳥の会の創立の日」として日本野鳥の会のカレンダーに書かれている記念すべき日です。しかし、10年前の東日本大震災以来、今や別の意味を持つ日になってしまい、お祝いしにくい日となってしまいました。ここでは日本野鳥の会が発足した昭和初期とは、どんな時代であったのか。時代背景を見ることから、日本野鳥の会の発足とその背景について考えてみたいと思います。
Y-1
 ちなみに昭和9(1934)年3月11日、日比谷の陶々亭にて「野鳥之会」座談会が開催されます。これには、鳥の専門家として中西悟堂、黒田長禮、鷹司信輔、内田清之助、竹野家立、文学方面から戸川秋骨、竹友藻風、柳田國男、北原白秋、美術方面から窪田空穂、勝田勝琴、新聞人の杉村楚人冠よる座談会が行われ、このときをもって日本野鳥の会創立の日としています。
 また、この年の6月2、3日に日本野鳥の会としてのはじめての探鳥会を須走で行い、さらに雑誌『野鳥』を5月に創刊しています(掲載写真、日本野鳥の会のサイトより)。いわば、昭和9年、西暦1934年は日本野鳥の会にとって記念すべき年であることは間違いありません。
 私は、戦後の昭和25(1950)年生まれのため、戦前や戦後間もない頃の日本野鳥の会のことは伝え聞いているだけです。ただこうして今、私が野鳥を楽しみバードウォッチングを謳歌できるのも当時の先輩諸氏が大戦から敗戦のなかでも、灯火をたやさず日本野鳥の会の思いを伝えてくれたおかげと感謝しています。それだけに当時のことが気になり調べてみました。
 昭和9年、昭和初期とはいったいどんな年だったのでしょうか。
 鳥の世界では、日本鳥学会という舞台で内田清之助が活動していた時代です。礎を気づいた飯島魁は大正10(1921)年に亡くなっていますので、50才台となった内田の存在は大きかったものと思われます。また、山階、黒田、鷹司、蜂須賀といった貴族学者たちによる新種、新亜種の発見競争が行われていた剥製のコレクションの時代だったと言って良いでしょう。
 興味深いのは、前年からこの年にかけて黒田図鑑、同年に山階図鑑という日本の鳥学史上、歴史に残る大図鑑が出版されています。後述のように時代の流れが大きく影響している大図鑑の発行となります。
 ただ、この年代に出版された本は多くは、専門的で一般的な本は多くありません。かろうじて、内田清之助によるエッセイ集が前後して発行されています。内田の魅力は、鳥の博士でありながら、わかりやすい文章で書かれていることです。当時の「末は博士か大臣か」時代でありながら、その博士の知識触れることができるエッセイは人気だったことがうかがえます。
  もし、この時代にバードウォッチングを始めようと思ったら可能でしょうか。まず、3年前に発行された下村兼二の『原色鳥類図譜』(1931・三省堂)を手に入れればなんとか鳥の名前を知ることができたはずです。問題は双眼鏡です。当時の価格は、いくらくらいしたものか不明です。機能的には、ポロタイプで左右のピント合わせはそれぞれ別々、飛び回る野鳥にピントを合わせるのは、苦労したことでしょう。さらに、双眼鏡は軍事用品となっていたはずで、一般市民が買うことができたのか知りたいところです。少なくとも、日本野鳥の会の第1回探鳥会である須走の集合写真で胸元が見えるかぎり、双眼鏡を首から下げている人はいません。
 さらに、カメラで家が1軒買えた時代から経ているものの下村兼二のカメラの使い方を見ると個人が鳥の写真を気楽に撮れる時代ではなかったこともわかります。写真は野外で撮るものではなく、写真館に行って撮影する時代といってよいでしょう。
 加えて世の中は、鳥は食べるもの飼うものであり、そのような風潮のなかで、日本野鳥の会を創立させるという発想をした人たちがいたことになります。
 日本野鳥の会発足の構想は、悟堂の記述から推測するに英文学者の竹友露風と思われます。悟堂宅を何度も訪問し口説かれたと書いています。悟堂によれば露風は、悟堂の放し飼いのようすに感銘を受けて野鳥の魅力を広めたいと思ったようで、内田清之助に協力を得て、当時40才台の悟堂に協力を仰いだという流れが見て取れます。ときおり悟堂に日本野鳥の会構想があって「中西悟堂が日本野鳥の会を創立した」と書かれることがありますが、『愛鳥自伝』などを読むと露風の口説きには辟易としたようすが書かれています。
 ただ、この時代の日本野鳥の会は、現在の日本野鳥の会とは組織も活動も大きく異なります。露風が悟堂をくどいたのは「鳥の雑誌」を発行することでした。雑誌を通じて啓蒙活動を行うという出版活動に軸足がおかれています。当時、俳句雑誌の『ホトトギス』や『アララギ』、あるいは梓書房が発行していた山岳雑誌の『山』のように鳥の雑誌を出したい、どちらかという野鳥同人というイメージだったと思います。
 ですから、探鳥会を定期的に行うなどの積極的な活動は見当たりません。少なくとも、第1回の探鳥会のような有名人を集めてのイベントは行われていません。また、戦前に結成された支部は、札幌、京都、大阪など8支部にすぎません。まだ「日本野鳥の会」と名乗っても全国組織の名称とはかけ離れていたことになります。現在のように事務局があるわけではなく、会員数千人への配送は出版社のボランティアに頼っていたことになります。
 ただ、戦前の『野鳥』を見る限り質の高さは文芸誌なみ、著名な執筆陣のみならず内容は今読んでも面白い記事が掲載されています。それに、連載から単行本になった記事は複数あります。悟堂は、それだけ内容の濃い雑誌を毎月編集していたのですから、他の活動を行うことは現実的には無理だったことは間違いありません。
 そして、問題なのは肝心の雑誌『野鳥』が売れないことでした。返本の山に、出版元の梓書房が音を上げ昭和10(1935)年9月で降ります。
 それが、昭和19(1944)年7月号まで続くのは、貴族たちの援助、満州鉄道からの寄付などがあったからと推測しています。
 もう一つ加えておくと、悟堂の著作を読むと日本野鳥の会の創立の翌年に出版された『野鳥と共に』(巣林書房・1935)が15万部売れたとか、日比谷図書館での貸し出し1位だったと書いています。本書の定価は2円80銭。昭和15(1940)年に日新書院から発行された普及版でも2円です。当時の金額を現在の貨幣価値にするのは難しいのですが、ネットの計算サイトからは、当時の1円は1,800~2,000円となります。今で言えば5,000円の本が15万部というのは、にわかに信じられないのですが、悟堂は複数回記述しています。
 現在の印税計算で10%とすると、75,000,000円の金額になってしまいます。この私財を投入したのか、このあたりのことは私の知る限り書かれているものはなく、謎と言えば謎です。(つづく)

2021年3月 1日 (月)

きれいな声紋の主は-日光

 タイマー録音の楽しみのひとつが、不明な鳥の声が録れること。不明な鳥の鳴き声の謎解きも楽しみです。また、音源をチェックしていると思わぬ美しい声紋が表示されることがあります。見たこともないようなきれいなパターンに巡り合うとどんな声なのか、なんという鳥なのか興味はつきません。
 今回、見つけたのは次のような声紋です。

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 音声は下記のようです。TASCAM DR-05で録音。ボリュームの増幅2,000Hz以下のノイズのカット、ノイズリダクションをかけています。


 環境は、日光市街地に近い里山、スギ林と広葉樹の林がパッチ状に広がっています。時刻は、午前6時55分。明るくなっている時間帯です。鳴き声は3.5秒間、この間に16回の音があります。メインの音は8,500Hzですから、かなり高音です。倍音が18,000Hzあたりにうっすらとあります。カタカナで書けば「チチチチ」としか書きようがありませんが、表現の難しい音です。
 なお、エナガの鳴き声が後ろのほうでかぶっているので、ご注意ください。
 この鳴き声の前後では、鳥はほとんど鳴いていませんでした。14分前にセグロセキレイが一声、さえずっているだけです。
 このあと、エナガの声がより近くになり、1分30秒後から18分にわたりさかんに鳴いていました。ひょっとすると録音機を置いた近くで巣作りをしているのかもしれません。
 まず可能性としては、このエナガが考えられます。しかし、この後の18分にわたる鳴き声のなかに、このパターンが一声もないのです。想像すると、一声鳴いたらエナガの巣の近くだったため、エナガに追い払われたというシーンではないかと思います。
 コガラなどのように、鳥によっては早春特有の鳴き方をするものがいます。いずれにしても、夏鳥が来る前にまだまだ楽しみはつきません

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