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2021年3月10日 (水)

日本野鳥の会にとって3月11日-その1

 3月11日は「日本野鳥の会の創立の日」として日本野鳥の会のカレンダーに書かれている記念すべき日です。しかし、10年前の東日本大震災以来、今や別の意味を持つ日になってしまい、お祝いしにくい日となってしまいました。ここでは日本野鳥の会が発足した昭和初期とは、どんな時代であったのか。時代背景を見ることから、日本野鳥の会の発足とその背景について考えてみたいと思います。
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 ちなみに昭和9(1934)年3月11日、日比谷の陶々亭にて「野鳥之会」座談会が開催されます。これには、鳥の専門家として中西悟堂、黒田長禮、鷹司信輔、内田清之助、竹野家立、文学方面から戸川秋骨、竹友藻風、柳田國男、北原白秋、美術方面から窪田空穂、勝田勝琴、新聞人の杉村楚人冠よる座談会が行われ、このときをもって日本野鳥の会創立の日としています。
 また、この年の6月2、3日に日本野鳥の会としてのはじめての探鳥会を須走で行い、さらに雑誌『野鳥』を5月に創刊しています(掲載写真、日本野鳥の会のサイトより)。いわば、昭和9年、西暦1934年は日本野鳥の会にとって記念すべき年であることは間違いありません。
 私は、戦後の昭和25(1950)年生まれのため、戦前や戦後間もない頃の日本野鳥の会のことは伝え聞いているだけです。ただこうして今、私が野鳥を楽しみバードウォッチングを謳歌できるのも当時の先輩諸氏が大戦から敗戦のなかでも、灯火をたやさず日本野鳥の会の思いを伝えてくれたおかげと感謝しています。それだけに当時のことが気になり調べてみました。
 昭和9年、昭和初期とはいったいどんな年だったのでしょうか。
 鳥の世界では、日本鳥学会という舞台で内田清之助が活動していた時代です。礎を気づいた飯島魁は大正10(1921)年に亡くなっていますので、50才台となった内田の存在は大きかったものと思われます。また、山階、黒田、鷹司、蜂須賀といった貴族学者たちによる新種、新亜種の発見競争が行われていた剥製のコレクションの時代だったと言って良いでしょう。
 興味深いのは、前年からこの年にかけて黒田図鑑、同年に山階図鑑という日本の鳥学史上、歴史に残る大図鑑が出版されています。後述のように時代の流れが大きく影響している大図鑑の発行となります。
 ただ、この年代に出版された本は多くは、専門的で一般的な本は多くありません。かろうじて、内田清之助によるエッセイ集が前後して発行されています。内田の魅力は、鳥の博士でありながら、わかりやすい文章で書かれていることです。当時の「末は博士か大臣か」時代でありながら、その博士の知識触れることができるエッセイは人気だったことがうかがえます。
  もし、この時代にバードウォッチングを始めようと思ったら可能でしょうか。まず、3年前に発行された下村兼二の『原色鳥類図譜』(1931・三省堂)を手に入れればなんとか鳥の名前を知ることができたはずです。問題は双眼鏡です。当時の価格は、いくらくらいしたものか不明です。機能的には、ポロタイプで左右のピント合わせはそれぞれ別々、飛び回る野鳥にピントを合わせるのは、苦労したことでしょう。さらに、双眼鏡は軍事用品となっていたはずで、一般市民が買うことができたのか知りたいところです。少なくとも、日本野鳥の会の第1回探鳥会である須走の集合写真で胸元が見えるかぎり、双眼鏡を首から下げている人はいません。
 さらに、カメラで家が1軒買えた時代から経ているものの下村兼二のカメラの使い方を見ると個人が鳥の写真を気楽に撮れる時代ではなかったこともわかります。写真は野外で撮るものではなく、写真館に行って撮影する時代といってよいでしょう。
 加えて世の中は、鳥は食べるもの飼うものであり、そのような風潮のなかで、日本野鳥の会を創立させるという発想をした人たちがいたことになります。
 日本野鳥の会発足の構想は、悟堂の記述から推測するに英文学者の竹友露風と思われます。悟堂宅を何度も訪問し口説かれたと書いています。悟堂によれば露風は、悟堂の放し飼いのようすに感銘を受けて野鳥の魅力を広めたいと思ったようで、内田清之助に協力を得て、当時40才台の悟堂に協力を仰いだという流れが見て取れます。ときおり悟堂に日本野鳥の会構想があって「中西悟堂が日本野鳥の会を創立した」と書かれることがありますが、『愛鳥自伝』などを読むと露風の口説きには辟易としたようすが書かれています。
 ただ、この時代の日本野鳥の会は、現在の日本野鳥の会とは組織も活動も大きく異なります。露風が悟堂をくどいたのは「鳥の雑誌」を発行することでした。雑誌を通じて啓蒙活動を行うという出版活動に軸足がおかれています。当時、俳句雑誌の『ホトトギス』や『アララギ』、あるいは梓書房が発行していた山岳雑誌の『山』のように鳥の雑誌を出したい、どちらかという野鳥同人というイメージだったと思います。
 ですから、探鳥会を定期的に行うなどの積極的な活動は見当たりません。少なくとも、第1回の探鳥会のような有名人を集めてのイベントは行われていません。また、戦前に結成された支部は、札幌、京都、大阪など8支部にすぎません。まだ「日本野鳥の会」と名乗っても全国組織の名称とはかけ離れていたことになります。現在のように事務局があるわけではなく、会員数千人への配送は出版社のボランティアに頼っていたことになります。
 ただ、戦前の『野鳥』を見る限り質の高さは文芸誌なみ、著名な執筆陣のみならず内容は今読んでも面白い記事が掲載されています。それに、連載から単行本になった記事は複数あります。悟堂は、それだけ内容の濃い雑誌を毎月編集していたのですから、他の活動を行うことは現実的には無理だったことは間違いありません。
 そして、問題なのは肝心の雑誌『野鳥』が売れないことでした。返本の山に、出版元の梓書房が音を上げ昭和10(1935)年9月で降ります。
 それが、昭和19(1944)年7月号まで続くのは、貴族たちの援助、満州鉄道からの寄付などがあったからと推測しています。
 もう一つ加えておくと、悟堂の著作を読むと日本野鳥の会の創立の翌年に出版された『野鳥と共に』(巣林書房・1935)が15万部売れたとか、日比谷図書館での貸し出し1位だったと書いています。本書の定価は2円80銭。昭和15(1940)年に日新書院から発行された普及版でも2円です。当時の金額を現在の貨幣価値にするのは難しいのですが、ネットの計算サイトからは、当時の1円は1,800~2,000円となります。今で言えば5,000円の本が15万部というのは、にわかに信じられないのですが、悟堂は複数回記述しています。
 現在の印税計算で10%とすると、75,000,000円の金額になってしまいます。この私財を投入したのか、このあたりのことは私の知る限り書かれているものはなく、謎と言えば謎です。(つづく)

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