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2021年3月11日 (木)

日本野鳥の会にとって3月11日-その2

 昭和初期当時の社会情勢については専門外ですが、私の持てる知識と印象から述べておきます。
 まず創立した年の12年前、大正12(1923)年9月に関東地方は、関東大震災に見舞われています。当時のインフラの状況や首都が被害にあったことを考えると、10年前の東日本大震災以上の爪痕が残っていたはずです。当時の日記などを読むと、知人や近親者が被害にあっていることが多く、まだ震災の記憶が生々しく残っている頃です。
 そして、昭和に入って、だんだん戦争のきな臭さが漂ってきます。
 昭和3(1928)年6月4日 張作霖爆殺事件 
 昭和6(1931)年9月18日 柳条湖事件(満洲事変勃発)
 昭和7(1932)年3月1日 満洲国建国宣言
         5月15日 5.15事件
  昭和8(1933)年3月27日 日本、国際連盟脱退を通告
 国際連盟を脱退することで、日本は世界から孤立して行きます。欧米から見れば、アジア辺境の地の日本が力を付けていくのは面白くありません。また、東アジアのほとんどが列強国の植民地であり、資源と富はヨーロッパに搾取され続けていた時代です。日本にしてみれば、それと同じことを行って何が悪いというスタンスだったことでしょう。
 ドイツではヒットラーが総統の地位につき、しだいに緊張感が高まっていく頃でもあります。
 加えて日本では、2月プロレタリア文学の旗手とされた小林多喜二が、特高により拷問を受けて殺されています。表現の自由が、すでに失われていた時代を迎えていました。そして、日中、太平洋戦争への道を歩むことになります。
昭和9(1934)年3月1日 愛新覚羅溥儀が、満州国の皇帝に即位。映画『ラストエンペラー』の世界です。この10日後に日本野鳥の会が発足したことになります。
昭和11(1936)年2月26日 2.26事件
昭和12(1937)年7月7日 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
昭和14(1939)年9月1日 ドイツ、ポーランド進撃を開始(第2次世界大戦勃発)
昭和16(1941)年12月8日 日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争勃発)
 日本は、朝鮮半島での権益を明治43(1910)年の韓国併合により得ています。そして、さらに中国、とくに満州に植民地を拡げていったことになります。いわば、昭和の初期は朝鮮バブル、それに続く満州バブルが頂点を迎えていたと言っても良いでしょう。とくに満州鉄道の権益は、膨大な利益をもたらさせたと言われています。当時の記録を見ると、満州鉄道の勢いは、ただの鉄道会社ではありません。技術と文化の粋を集めた先端企業です。医療などの技術は本土の日本より進んでいたほどで、満州は未来輝くユートピアの様相を呈していました。この利権を守るために日本は、満州に皇帝を即位させ傀儡を確実なものとします。それが、日本野鳥の会の創立と同じ年でした。
 今でも同じような風潮がありますが、当時の農家は長男が田地田畑を継ぐことで、次男以下は長男に何かあったときの保険に過ぎません。こうした家長制度のなか、意識あるものはユートピアの地の満州で一腹上げようと開拓に加わるか、兵隊となって大陸に渡っていったことになります。
 こうした利益は、株式の高配当となってもたらされました。先にあげた山階以下の貴族たちは、国策もあって満州鉄道の株式を財産として持っていました。こうした利益から、大図鑑を発行する資金を得たものと想像します。たとえば、昭和15年に発行された水野馨の『満州鳥類原色大図鑑』(東京プロセス社・1940)の前書きには、満州鉄道の関連会社から資金協力を得たと書かれています。あえて言えば、満州から搾取された利益で大図鑑ができたのかもしれないと思うと複雑な心境になります。
 ちなみに、戦前の日本野鳥の会も『野鳥』誌の発行も満州鉄道から寄付をもらっています。松山資郎の『野鳥と共に80年』(文一総合出版・1997)によれば、「(悟堂が)満鉄総裁、早川千吉郎さんの御子息の早川忠吉さんを来訪されたが、この方々のお金のだしぶりは実に気前が良かったそうである」と書かれています。
 その反面、終戦を迎えたとき、満州鉄道の株券は紙くずとなり多くの貴族学者たちは財産を失うことになります。
 たとえば、発起人に顔を連ねた北原白秋はヒットラーユーゲントの来訪に合わせて「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、軍国主義に加担しています。この日本で生きていくこと、そして好きな文学の世界に身を置くためには、そうせざるを得ない世相であったことは十分に想像できます。私の両親の話などから、当時の日本人の多くが戦争に負けるとは思っていませんでした。疑問を持っていた人がいたことは事実ですが、現在の香港、このところミャンマーの市民活動家以上に命をかけなくては葬られる時代であったと言えます。
 言論統制のなか、雑誌の発行や文学活動はいかに苦労の多かったことか、想像できません。戦争が拡大するとともに『野鳥』の戦地からの報告も地名は、だんだん伏せ字が多くなっていきます。当然のことながら検閲を受けての発行ですが、受けたことやその苦労を書くことはできません。行間からもどかしさを推し量るしかありません。
  今回、自分が日本の近代史に暗いことを改めて実感いたしました。昭和初期は、日本野鳥の会が創立したくらいですから平和でのんびりした時代だと、かってに思っていましたが大違いでした。日本は前年に国際連盟を脱退し小林多喜二が謀殺され、ドイツではヒットラーが総統になっていました。そして、創立した年は満州国皇帝が即位し、翌年には2.26事件が起きています。日本、そして世界が戦争への道を歩みはじめたなか、日本野鳥の会が発足したのです。
 この後、多くの会員が戦地に赴き帰ってこなかった方もいたことでしょう。悟堂も山形県、東京都福生などに疎開をします。日本野鳥の会の活動も滞り、『野鳥』の戦前の最終刊は、廃刊のつもりで編集されています。そして昭和20(1945)年、敗戦を迎えます。
 終戦とともに日本野鳥の会も活動を開始します。なんと、翌年6月には『自然と四季』という雑誌を発行しています(掲載写真は表紙) 。第1号は昭和21年5月25日発行となっていますから、終戦後わずか9ヶ月で発行されたことになります。準備があるはずですから、戦争が終わるのを待ってましたとばかりに作業が始まったと言っても過言ではないでしょう。そして、戦後の最初の『野鳥』誌は、昭和22年(1947年)より発行されます。
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 ちなみに、東京支部が発足したのも終戦わずか2年目のこの年です。支部の活動は、榎本佳樹が確立させた野外識別のノウハウを探鳥会で活用することで発展していきます。いわば、『野鳥』誌を中心とした文芸路線からバードウォッチング中心の野外活動になるのが戦後の日本野鳥の会の特徴です。
 いずれにしても終戦後、食べるものもろくにない時代、日本野鳥の会の復興に尽力してくれた諸先輩がいたのです。おかげで、こうして日本野鳥の会が存続しバードウォッチングを楽しむことができるだと思うと皆さんに感謝です。
 現在、コロナ禍のなか公益財団法人日本野鳥の会は、きびしい経営を強いられています。連携団体は思うように探鳥会が開催できず活動が滞っています。しかし、戦前戦後の動乱期に苦労された諸先輩に比べたらと思うと、頑張れるのではないでしょうか。
 将来「2020年代コロナの時代に頑張った人たちがいて今の日本野鳥の会がある」と言われるようになるのかもしれません。(終わり)

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