野鳥の神様といわれる中西悟堂が、オオコノハズクの鳴き声をどのように聞いていたか気になり、調べてみました。
『野鳥と共に』(1935・巣林書房)には、オオコノハズクを飼育した話が載っていますので、少なくとも飼育下の記録があるはずです。ただ、飼育していたオオコノハズクは『虫鳥と生活する』(1932・アルス)によると、最初はコノハズクだと思って飼っていたようで、まだ野鳥の識別の知識が普及していない時代の話として割り引く必要がありそうです。
なお、『野鳥と共に』には、オオコノハズクが鳴いたという記述はありませんでした。また、悟堂は彼女と言っているのですが、雌雄の判別をどのように行ったのかも不明です。
また戦前、悟堂が住んでいた善福寺周辺は武蔵野の雑木林が広がり、オオコノハズクが繁殖していた時代です。『武蔵野』(1941・科学主義工業社)の鳥の章を悟堂が担当しています。これには「善福寺風致地区の鳥」のリストがあり、オオコノハズクは一年中いる鳥になっています。この本には、樹洞から顔を出すオオコノハズクの写真が載っていて「オオコノハズクの営巣せる樹洞(井荻にて)」とキャプションが付いていますので、野外で鳴き声を聞く機会はあったはずです。ちなみに、井草は現在の23区内、杉並区の地名でです。
ただ、面白いのは悟堂は「コノハズクは霊鳥だが、オオコノハズクは当たり前の鳥で、あまり価値がない」と思っていたようです。そのため、記録はぞんざいになっているかもしれません。
今回、Birder誌への寄稿するに当たって、再度調べたら日本野鳥の会の雑誌『野鳥』の1953年5/6月号に中西悟堂の「オオコノハズクの鳴き声について」という小文があるのを見つけました。これは、「随筆四題」というタイトルで、宮古島のサシバ猟、旧友・鹿野忠雄博士のこと、ミルウォーム(ママ)が、他の3題です。
1953(昭和28)年は、終戦から8年経っています。私が3才の頃で、まだお米は配給、復員してきた人が町にあふれ、戦後の混乱が続いたと思います。にも関わらず、野鳥誌が発行されています。もちろん、わずか36ページ、紙も悪く私の蔵書は茶色に変色しています。しかし、表紙のジョウビタキは川合玉堂です。数ある野鳥誌の表紙のなかで、1、2を競う素晴らしい絵です。
後記を読むと編集は、後に神奈川支部の支部長となった鈴木秀男さんでした。「思いがけない印刷所の事故のため」発行が遅れたことをわびています。当時は、そんなことがあったのですね。
前置きが長くなってしまいました。悟堂が聞いたオオコノハズクの記述を要約します。
オオコノハズクの鳴き声は、従来ポスカスとかフーッーが多い。
私は、いずれも聞いたことがない。
飼っていたものがヴォウ、ウォウ、ウォウ、ウォウ、ウォウしか鳴かなかった。
しかるに最近、偶然知ったところでは、ホッ、ホッ、ホッともオッ、オッ、オッ、オッとも聞こえる声。
アオバズクより低く、ホーとは声を引かず、4,5声続ける。
「ホッ、ホッ、ホッ、ホッと区切って、4,5回つづけるその声は、私の受け取り方では、少しも不気味ではなく、優しい声だがやはり明らかにフクロウ類のタイプである。」
と結んでいます。
ホッホッ系であること、優しい声、ホーとは伸ばさないなど、記述を総合すると悟堂は、実際のオオコノハズクの鳴き声を聞いたことになります。お坊さんの悟堂が、木魚の音、あるいはリズムを連想しなかったことは気になりますが、よほど近いか飼育個体の可能性があります。また、小さな声、音であることが強調されていないことも室内で聞いた可能性を裏付けます。
加えて「しかるに最近、偶然知ったところでは」では、いつどこでどのような状況で聞いたのか書いていないことも、飼育下の個体であるためかもしれません。
いずれにしても「ポスカス」は、悟堂も聞いたことがなく、はたしてオオコノハズクなのか、それとも他の生き物の誤認なのか、謎の鳴き声です。
中西悟堂 1953 随筆四題 オオコノハズクの鳴き声について 野鳥 Vol.18,No.3,p18-19
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