竹下信雄さん-訃報
シバラボさんから、竹下さんの訃報が伝えられました。なんでも、シバラボさんは竹下さんの弟子だそうです。
竹下さんは、6月9日に急逝されたとのことで81才。最近、お会いした安西英明さんからは、お元気だったと報告を受けたばかり、急な知らせに驚いています。
日本野鳥の会が1970年に財団法人になって、はじめて事務局ができて職員を置くようになりました。この事務局の最初の職員3名のうちのお一人でした。当時の青山通りには、ビルはなくあっても木造2階建てのしもた屋が並んでいました。国連大学や青山劇場は、都電の車庫の跡地で広大な空き地が広がっていました。
第一園芸もプレハブのような造りで2階建て。その隅に日本野鳥の会の事務所かありました。今思えば、倉庫に机と椅子を置いたような感じでした。
ここに夕方になると、学生をはじめとする若者たちが集まって、議論をしたり野鳥誌の発送を手伝ったりしていました。私もその一人でした。狭い事務所に10人も入ると床がギシギシいって、竹下さんが「床が抜ける」と心配していたのを覚えています。また、若者たちが議論で盛り上がりつい大きな声になると竹下さんに「電話が聞こえない」とよく叱られたものです。学生たちからみれば、10才年上ですから大人から叱られた子どもの感じで、シーンとなったものです。ちょっと怖い存在であったと思います。
竹下さんは、私たちがTシャツにGパンなのに、いつもスーツにネクタイをしていたのも竹下さんのイメージです。いちばんのお仕事は、中西悟堂会長との連絡役で秘書的な役割を果たしていたと思います。悟堂さんとのやりとりは『野鳥』誌の編集に関わることで、悟堂さんにとっては『野鳥』誌が命でしたから、さぞ神経をつかったことでしょう。竹下さんの辞めた後、事務局と悟堂さんの関係が劣悪になったことを考えると、竹下さんの存在が大きかったのではないかと想像しています。また、常務理事の奈良部博さんと企業周りをしていたのを覚えています。夕方、2人が事務所に戻ってきて「今日は大丈夫だ」「たぶんだめだろう」と反省会を開いていました。
日本野鳥の会の事務局の黎明期、社会保障も不十分な事務所で、ご苦労されたことでしょう。日本野鳥の会の事務局がいまこうしてあるのも、竹下さんのような方がいたからこそ。大恩人のお一人であると思います。
竹下さんが、あるとき「平家物語に出てくる渡辺綱が退治したのは、ヌエではないのを知っているか」と言われました。たしかに、怪物は「頭が猿、身体はは狸、尾は蛇、手は虎の姿。鳴く声ヌエにぞ似たりける」とあります。「あの怪物には名前がない、正体のわからないものを”ヌエ的存在”という言葉が、間違いを広めてしまった」とのこと。その後、野鳥誌のコラムにこのネタを書かれていたと思います。その前になっとくできるか、私にネタを披露してくれたことになります。
それまで、てっきりヌエ=怪物だと思っていたので、びっくりです。それ以降、私のトラツグミの解説では「渡辺綱が退治した名無しの怪物の声」と書いています。いまだにトラツグミの解説で、怪物の名前だったと書かれているのを見ると、竹下さんのことを思い出しほくそ笑みます。
たぶん著作権のない写真ですのでアップします。もし、問題がありましたら削除いたします。1977年の日本野鳥の会全国大会・茨城です。後列右から3人目が竹下さんです。田久保晴孝さんと園部浩一郎さんの間に挟まれています。
思い出はつきませんが、竹下信雄さんのご冥福をお祈りいたします。
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