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2021年12月26日 (日)

森田三郎さん-訃報

 森田三郎さんの訃報が伝えられてきました。
 毎日新聞では11月11日にお亡くなった記事があり、昨日(12月25日)の朝日新聞に追悼記事が掲載されているのをFacebook情報で知りました。朝日新聞の記事のURLです。リンクが切れる可能性がありますので、早めにご覧ください。
 https://www.asahi.com/articles/ASPDR76RBPDQUDCB009.html?fbclid=IwAR1Yhx1fKWt -og_ROO_qZSqs0bXb4J6E7FnMmtcnc8MUHETy6An8JBZObI
 青春時代を同じ場で過ごした者として、思い出話を書いてみました。
 千葉の干潟を守る会に参加したのは活動が新聞に紹介され、それを見た森田さんが代表の大浜清さんをたずねたのが始まりです。大浜さんから、たのもしい仲間が参加してくれるようになったと毎週集まっていた菊田公民会で紹介があったと思います。当時、大浜さんは平凡社の労働組合から出版会社の組合運動を行っていました。そうした流れのなかで自然保護運動に関わっていたことになります。ですから、森田さんは新聞配達をやっている勤労青年という運動にはもってこいの仲間ととらえたようです。ちなみに当時は、若い労働者の集まりなどが、もてはやされていた時代でした。
 私は、何度か谷津干潟や埋め立て地で森田さんに鳥を教えたことがあります。彼は、1,000を超えるコアジサシの巣を見つけて、その位置を地図にするような作業をしてくれました。調査の前にシロチドリの巣との区別を教えたのですが、区別することなく調べてしまい、結果データ的にはもったいない記録となってしまいました。どうも科学的にとらえることは、得意ではなかったようです。
 当時としては熱くて感情のままに保護運動を行った情熱家として、もてはやされたことになります。しかし、習志野市長室にゴミをぶちまける暴挙をのちに行うなど、すでにトラブルの根がありました。
 現在の津田沼高校から先は広大な埋め立て地が広がっていました。その埋め立て地の水たまりでセイタカシギが繁殖したことがあります。今ではセイタカシギは東京湾各地で繁殖していますが、最初の記録となります[注1]。見つけた森田さんは「俺のセイタカシギ」という認識でした。日本で数例目の繁殖であり、まだ謎の多いセイタカシギの生態を調べ保護するために、後輩たちが標識用の脚輪を付けました。ところが、俺のセイタカシギに脚輪を付けたということで後輩が殴られる事件となります。脚輪についての説明不足などあったかもしれませんが、暴力を振るのは論外です。この事件から、私たちとも決別したといってもよいでしょう。
 また、同輩が彼の家に行ったら「国粋主義的な本が並んでいた」とびっくりして話てくれました。そして、革新的な大浜さんとも決別していくことになります。
 彼が人が変わったと感じたのは、森田さんが新聞の記事になってからではないと思います。当時、マスコミの取材がたくさんありました。おもに大浜さんや石川敏雄さん(千葉大学名誉教授、千葉県自然保護連合代表)、ときに私が対応しましたが、対応できないときに大浜さんが森田さんにふったことがあります。どうも、これがいけなかったようです。当時、自然保護を訴えるため新聞に載るのは、仲間では当たり前のことでした。しかし、森田さんにすれば今まで自分が配っていた新聞に自分の記事が載ったことになります。舞い上がったというか、その後はこうした記事になるように意図した活動が多くなったと感じます。
 現在、Googleで「森田三郎」を検索すると「“たったひとりで谷津干潟を守った”はウソだ!三番瀬」が上位に出てきてしまいます。これは、2009年12月8日に放送されたNHKのドキュメント番組への反論です。また、検索の下位には『どろんこサブウ-谷津干潟を守る闘い』(松下竜一・1990)[注]、『わが青春の谷津干潟』(本田カヨ子・1998)と彼を取り上げた著作のタイトルが上がってきます。いずれも彼一人が谷津干潟を守ったような内容のNHKのドキュメント同様、彼の本質に迫るものはなく、美談で終わっているのは残念です。番組では企画段階、出版の企画では原稿段階で本人のチェックを受けているはずです。谷津干潟は多くの人が関わり、その努力の結果、残ったのだと私は確信しています。このことをなぜ彼から言って、活動の事実を伝えようとしなかったのでしょうか。もし、「皆さんの活動のおかげもあって谷津干潟が残った」の一言があれば彼の評価も変わったことと思います。
 森田さんは、何が問題なのか仲間で話し合ったことがあります。結論のひとつは、コンプレックスの人という評価でした。とくに学歴についてのコンプレックスが強かったと異口同音に言われました[注3]。たしかに、大浜さんはじめ活動に参加した大人たちはインテリでしたが、誰がどこの大学を出たかなど私は知りません。私たち東邦大学生は、無名の大学に在籍しているコンプレックスさえありました。
 しかし、私が彼から言われたのは「学生は昼からマージャンをしている。もっと干潟を守るために活動すべきだ」です。彼の頭のなかには、学生はヒマで金があり、昼からマージャンをしていると思い込んでいました[注4]。
 その後、干潟の保護運動は全国に広がり干潟シンポジウムの実施、さらにはラムサール条約の登録湿地など国際的な活動と展開していきます。また、谷津干潟の保護については谷津干潟自然観察センターが自然観察会はもとより干潟まつりや講演会などのイベント、ゴミからアオサの回収などの環境管理を行ってきました。しかし、こうした場に彼が来ることはありません。
 森田三郎さんが、谷津干潟で何をしたかったのか?こうして考えると、わからなくなってしまうのは、私だけでしょうか。
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 写真は、まだ造成前の谷津干潟に森田さんが立てた看板。日本野鳥の会の名前がありますが、承諾はとられていません。愛国無罪の感覚で勝手にやってました。
 
注1:このセイタカシギについては、『セイタカシギ大空を飛ぶ―荒地に生まれた4つのいのち』 (1979・国松俊英)に詳しい。
注2:松下竜一さんに会うために大分県中津をたずねたことがあります。たいへん人見知りをする人で、著作の印象とは異なりました。ちなみに松下さんは、出版前に谷津干潟にも来ていませんし森田さんとは直接会ってはいないはずで、どれだけ交流があったか不明です。プロレタリア・エッセイストとも言える松下さんとしては、謎の仕事です。
注3:『わが青春の谷津干潟』(本田カヨ子・1998)によれば、森田さんは東洋大学文学部英米文学科に在籍、数ヶ月残して退学してます。退学の理由は、当時の学生運動による大学の荒廃にいやけをさしたためとなっています。今回、彼が学生であったのを始めて知りました。
注4:たしかにそういう学生もいたと思いますが、私は生涯マージャンをしたことはありません。それに、理系のため出席しないと単位を落とす実験が多く忙しかったのです。また、実験のない日は、渋谷の青山にできたばかりの日本野鳥の会の事務所に行って、野鳥誌の発送などのボランティアをしていました。同じボランティアのなかには、多摩川の自然を守る会、荒川の自然を守る会などの同じような学生が集まっていて、彼らが千葉の観察会や調査を手伝ってくれました。

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