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2022年1月

2022年1月31日 (月)

不明の高い鳴き声-六義園

 先日1月29日の録音のなかに、不明の鳴き声が入っていました。
 高い音で、実際には私には聞こえない音域です。鳴いていたのは、午前7時46分。8時に終了ですから、ギリギリ録音されていたことになります。この鳴き声で、21秒間にわたって鳴いていました。
 DR-05で録音。ボリュームのアップ、2,500Hz以下の低音を軽減しています。

 「チッ」というするどい音に聞こえます。音は、9,000Hzと11,000Hzにあります。そのため、高齢者には聞こえづらい音であることをあらかじめご了承ください。
 参考のために、前回のアオジかクロジの地鳴きの声紋表示しておきます。音の中心が8,000Hzあたりにある縦に長いパターンになります。天地は0~24,000Hz、左右は3秒です。

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 今回の不明の鳴き声は、横に長いパターンです。同じく天地は0~24,000Hz、左右は3秒です。

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 不規則な音の聞こえ方から、人工音ではなく鳥の鳴き声ではないかと思います。また、これだけの高い人工音を作るのは、ちょっとたいへんでしょう。また、音が重なり会っていることから2羽が鳴き合っている可能性もあります。
 いずれにしても不明ですが、備忘録としてアップしておきます。

 

2022年1月29日 (土)

長く鳴き続けるアオジかクロジの地鳴き-六義園

 今朝は、そろそろシジュウカラがさえずり始めるのではないかと期待して、閉園中の六義園に向けてタイマー録音してみました。
 昨日は、近くでシジュウカラが鳴いてくれましたが、まだ地鳴きでした。本日は、アオジかクロジが近くで地鳴きしてくれました。六義園には、アオジもクロジも記録されています。閉園前はアオジにはよく会いましたが、クロジは希でした。しかし、地鳴きでこの2種類を区別するのは難しいと思っています。ということで、アオジかクロジの地鳴きの話です。
 ところで、地鳴きというと、数声鳴いて鳴きやむのが普通です。今日、録音できた地鳴きは、長い間鳴き続けていました。
 DR-05で録音。ボリュームのアップ、2,500Hz以下の低音を軽減しています。なお、音の中心は8,500~10,000Hzにあります。そのため、高齢者には聞こえづらい音であることをあらかじめご了承ください。

 長く鳴き続けるだけではなく、声に力強さを感じます。また、近いということは、木の上のほうで鳴いています。アオジもクロジも地面にいることが多く、そのため地鳴きも藪のなかから聞こえます。木の上からの地鳴きが聞こえて来ることは、希です。
 鳴きはじめたのは、午前6時35分です。今日の日の出時刻は6時43分、時計を持っていない鳥にしてみれば、日の出時刻に鳴きはじめたと言って良いでしょう。この地鳴きは、1分24秒続いていました。その後、6時41分から4分16秒と、もっとも長く鳴き続けていました。そして、6時51分から1分23秒鳴いていました。いずれも、音の大きさが異なりましたので、鳴く場所を移動していることがわかります。
 他の鳥でも長い間、地鳴きし続けるのを聞いたり録音したことがあります。こうした長く鳴き続ける地鳴きには、どんな意味があるのでしょう。木の上部にとまり、長く鳴いていることと力強さを感じることから、何かをアピールしている印象があります。
 六義園では繁殖はしませんので縄張りの主張とは思えず、自己の存在の誇示、自己主張の意味があるのでは想像しています。

 

2022年1月21日 (金)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その5

鳥屋場の小島銀三郎-2
 銀三郎の鳥屋場でどれだけ、野鳥が採れていたのでしょうか。 『野鳥』第1巻第6号(昭和9年発行)の「鳥の渡り特集」には、八王子市東南部の多摩丘陵での記録とありますので、銀三郎の鳥屋場だと思われます。昭和6年10月20日から11月末まで40日間の捕獲数のうち、ツグミ類が2.599羽、小物1,775羽、計4,374羽と悟堂は報告しています。1シーズン4,000羽を超える小鳥を捕まえていたとは、そこそこの数字ですが、『蟲・鳥と生活する』(1932年)にも同じ数字が載っていますので、間違いないでしょう。
 時代も鳥の数も違う現在との比較はあくまでも参考ですが、山階鳥類研究所が行っている標識調査で織田山鳥類観測一級ステーション(福井県)の放鳥数は1973~1998年で合計77,617羽、年平均3,112羽です。銀三郎は1人で、それ以上の小鳥を捕まえていたことになります。
 また、客も多かったことが書かれており「一期で約300人に及び、多い時には1日120人にも達した」という人気です。それでも、300や400羽の鳥が採れるので、まかなえるとも書かれています。ここで、鳥の味の違いが書かれていると面白いのですが、それはありませんでした。ただ、著名人も多数来訪し、満鉄総裁、ドイツ大使、外務省局長などなどの名前があげられています。前掲した尾崎喜八の文章のように、銀三郎は野鳥の世界のみならず、財界から政界でも有名人であったことになります。
 野暮を承知で、どのくらい儲かったか想像してみます。焼き鳥に合わせて酒も提供されたはずですから、300人が現在の貨幣価値で1人10,000円払ったとして3,000,000円。半額の5,000円としても1,500,000円となります。著名人が多かったとのことですから10,000円に近い可能性があります。たた2ヶ月でこれだけの売り上げがあったとすると、鳥屋場はかなり儲かる商売であったといえるでしょう。
 当時、鳥屋場で野鳥の知識を深めたのは、悟堂にかぎったことではありません。
 戦前戦後の日本野鳥の会を支えてくれた一人に画家の小杉放菴がいます。『野鳥』誌の表紙やカットを描くなど、日本野鳥の会参与という肩書きで、厳しい時代に支えくれた方です。戦前最後の「野鳥」誌の表紙絵は、小杉放菴です。

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 なお、小杉放菴の美術館が栃木県日光市内にあります。日光の自然仲間のE村さんが関係しているため、作品を見せてもらったことがあります。色紙に描かれた大量のスケッチで、日光の鳥屋場に悟堂と同じように泊まり込んで、捕らえられた鳥を描いたと伝えられています。美術館のサイトにアップされた年譜には「1935(昭和10)年10月27日 岸浪百草居と栃木県川治の鳥屋場へ写生に行く。」などがあります。こうして描かれたさまざまなスケッチから、見事な本画が描かれていく経過がわかります。また、正確に鳥や植物を描くためにどこにポイントを置いて見ていたのか、残されたスケッチを見るとわかりました。
 また、日本野鳥の会の探鳥会が鳥屋場というのは、戦前に行われていました。日光の鳥屋場巡りのお土産が、ヤマガラという時代もあったのです。
 戦後、GHQが日本の野鳥を調べたら、カスミ網が野鳥の減少に大きく影響していることがわかり禁止に動きます。それでも、私が日本野鳥の会の職員時代(1980年代)でさえ、カスミ網の使用は禁止だけど所持はOKというザル状態でした。職員時代にカスミ網の反対署名を集める資金集めのためテレホンカードを作るなど、苦労した思い出があります。その結果、ようやく現在では使用も所持も禁止となりました。
 現在、どれだけ鳥屋場によるカスミ網猟が行われているか、実態は不明です。メジロを捕らえるような小規模な密猟はいまだ行われていると思いますが、銀三郎のように鳥屋場を管理運営するのは難しいでしょう。まず、カスミ網を張る山の植生を一年かけて剪定しなくてはなりません。茂りすぎても開けすぎてもだめで、カスミ網をうまく隠せるような状態にしておかなくてはならないのです。日光の鳥屋場として地名の残っている山は、現在では木が茂りすぎて網を張ることができません。こうした山仕事をするのはたいへんです。それより、ケンタッキーでフライドチキン、あるいは鳥貴族で焼き鳥を注文した方が安いしお手軽です。それに何より、法律違反を犯している後ろめたさを持たないで済みます。
 ところで、悟堂が日本野鳥の会会長となり運営するようになると銀三郎の名前は、出てこなくなります。悟堂の野猿峠への来訪は、日本野鳥の会の発足とともになくなったのではないかと思われます。
 たとえば「アニマ」の1979年5月号(No.74)の特集は「バード・ウォッチング -鳥の行動をみる-」です。このなかで、悟堂は「探鳥会とBirdwatching」と題し寄稿しています。一部を引用すると「私は野鳥の会を起こす前も、西洋の論理に従えぬ意識があった。また当時の鳥類分類学者が学術上の必要があったからとはいえ、多くの標本を持つために鳥を平気で撃ち殺す学風はけして愉快なものではなかった」とあります。暗に山階芳麿、黒田長禮、清棲幸保など、貴族学者たちの剥製のコレクションによる研究を批判しています。鳥を殺すことは大反対であり「野の鳥は野に」の日本野鳥の会の理念が強固になった頃です。しかし、野鳥の会を起こす以前は。同じように鳥を殺す鳥屋場に嬉々として通っていたのですから、日本野鳥の会の活動を通じて考え方がかわったと、まずは自己批判して欲しいところです。日本野鳥の会の会長を名乗る以上、聖人君子でなくてはならないと思っていた頃で、きれい事に終始してしまっているのは残念です。結果、銀三郎の名は暗黒史とし消し去ったといってもよいかもしれません。
 今回いろいろ調べてみたら、悟堂がとつぜん鳥に詳しくなったのではなく、そこには鳥人とも言える先生が少なくとも2人いたことがわかりました。この2人の業績は、悟堂を通じて日本野鳥の会の活動に影響を与えた重要人物であると思います。
 一般的には、鳥がいたら”鳥”、あるいは”小鳥”で終わりです。鳥には、それぞれ名前があり名前を知ることは楽しみであり、その知識を持った人たちが黎明期にいたことになります。明治から大正、昭和の初期です。情報の乏しい時代にこうした知識を得ることは、今では考えられない苦労があったと思います。
 現在では当たり前のことですが、野鳥は名前のわかるものであり識別するものであることを知らしめたことになります。そして、悟堂を通じて、その方法と知識、技術を日本野鳥の会に伝えたと言っても良いかもしれません。今ある探鳥会の指導から図鑑の制作まで、そして私たちがバードウォッチングを楽しめるのも、元を正せばこの2人の活動に行き着くことになります。
 高田昴と小島銀三郎の名は、野鳥史に残すべき名前だと思います。(おわり)
[敬称は略させていただきました。]

2022年1月20日 (木)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その4

鳥屋場の小島銀三郎-1
 『野鳥』誌の「25周年記念特集号」(1960)に須走の高田昴と並んで書かれた「小島銀三郎翁の鳥屋場でのただ見るだけの野鳥の習性を見届けたい」と書かれた小島銀三郎について、調べて見ました。
銀三郎については、高田昴以上に情報がありません。小島銀三郎の名前をネット検索すると、同姓同名の方のFacebookくらいしかでてきません。そのため「小島銀三郎 鳥屋場」で、ようやく1件間違いなく悟堂と関連した銀三郎がヒットしました。
 それも日本野鳥の会や悟堂とも関係した尾崎喜八の文章でした。著作権が切れているため、ネット上で読むことができました。それには「連れの引合せで初めて会った千野さんは、もう頭の大分禿げた、童顔に顎鬚をたくわえた、人を見る眼に一種の光りのある、どこか禪僧とか一流の達人とかを想わせる老人であった。知っている人は、あの霞網の名人小島銀三郎翁を思い浮べれば、ほぼその風貌の見当がつくであろう。」という一文です。
 これは、『山の繪本 紀行と隨想』(1935・朋文堂)のなかの「絵のように」の項に載っていました。直接、銀三郎とことではなく千野さんの風貌が似ているということでの登場です。知っている人は知っているはずということで名前をあげています。さっするに、当時の鳥関係者のなかでは有名人であったことがうかがえます。
 これ以外、銀三郎の情報は少ないのですが、悟堂の日本野鳥の会発足2年前に発行された『蟲・鳥と生活する』(1932年)には、「霞網の小島銀三郎翁を語る」の項があり、詳しく書かれています。
 顔のわかる写真も載っていて、銀三郎は長く白い顎髭が蓄えています。喜八が書いているように「人を見る眼に一種の光りのある、どこか禪僧とか一流の達人とかを想わせる老人であった」という表現が適切であることがわかります。私もこうした老人になりたかったと思います。
 悟堂が書いている断片的な情報から「加賀藩の人で慶応3年生まれ」石川県出身で1867年生。1867年は大政奉還が行われた年で、2年後に明治となる時代に生まれています。また、すごい経歴の持ち主で若い頃は右翼活動を行い、頭山満の玄洋社と肩を並べた団体に所属していたと書かれています。当時の政治活動は弁舌で議論するのではなく、武力闘争であったわけで、銀三郎の「身体にちょっとでもふれたらが最後、5、6人は立ちどころに手玉に取られた」という強者であったそうです。愛国の闘志と鳥屋場の主人のイメージがつながらないのですが、昭和の初期には、そのような人もいたことになります。
 銀三郎は「東京府八王子市の郊外、京王電鉄の北野駅の南方にあたる野猿峠」の尾根道で鳥屋場を持っていて、悟堂はとらえられた野鳥を見るため足げに通ったことになります。
 今や八王子市野猿峠周辺は、住宅地が広がるベッドタウンのイメージです。私と野猿峠の縁は、大学入学のとき(1968年)のオリエンテーションが行われた大学セミナーハウスに行ったのが最初です。セミナーハウスは、野猿という地名のイメージとはかけはなれたモダンな建物でした。ここでは、その後も大学のゼミ合宿、全国自然保護連合の総会、日本野鳥の会の全国大会などで何度が訪れています。ただ、いつも室内での会合で、周辺を歩いた記憶はほとんどありません。鳥屋場のあった尾根はもとより、どのような地形であったのか、もっと見ておけば良かったと思います。
 カスミ網猟は、能登半島に入ってくるツグミなどの冬鳥を捕獲するために北陸地方で始まり発展しました。加賀出身の銀三郎は、カスミ網の本場で猟法を習得したことになります。悟堂によると、銀三郎は野猿峠に落ち着くまで、日光から満州にいたるまで、各地でカスミ網猟の技術指導を行っています。
 なじみのある日光では、山久保や所野など知っている地名の山で銀三郎の指導の元、鳥屋場が開設されたことがわかりました。夭逝の鳥類学者・小川三紀の日光の記録に、鳥屋場があったことが書かれています。小川が日光に訪れたのは、明治30(1897)年と明治38(1905)年で、この記録のなかの鳥屋場も銀三郎の指導の元に開設されたものでした。
 悟堂は、荻窪に住んでいたこともあって路線のつながった八王子には行きやすく、野猿峠に通いつめたことになります。秋の渡りのシーズンには鳥屋場に泊まり、銀三郎の話を聞き鳥の知識を深めたことになります。
 ここでは、小鳥たちの地鳴きの違いを種ごとにこまかく書かれています。さえずり以上に地鳴きの識別は難しいものです。確認にこの鳥が鳴いていると記録するためには、近くで聞かないと聞こえません。鳥屋場で捕らえられた生きた鳥を目の前にして、地鳴きを覚えたことになります。(つづく)
[引用以外、敬称は略させていただきました。]

2022年1月19日 (水)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その3

須走の高田昴-2
 悟堂は、昴について多くは語っていません。
 誰の紹介で昴と交流がはじまったのか、須走通いのきっかけはなんだったのかの記述を見つけることができませんでした。当時、鳥関係者が米山館に泊まり、昴に教えを請う須走通いは常識というか通過儀礼であったようです。飛び込みで米山館に泊まって、そのツテで昴と会ったのでしょうか。
 ただ、著作の『蟲・鳥と生活する』(1932年)に昴が登場します。第1回須走探鳥会の3年前の話となります。悟堂自身は昆虫に傾倒し、鳥は放し飼いをしていた頃の話です。
 「富士裾野・鳥と草の記」の項には、昭和6(1931)年5月30日から31日にかけて、須走を訪れたことを書いています。「著名な裾野の鳥の研究家高田昴さんと、そこを逍遙しているのであった」とあり「夕食後には昴さんと、その兄である鳥寄せの名手兵さんとの宿へ来て貰った。昴さんには鳥の巣の話を聴くため、兵さんには鳥の啼声をして貰うためである。」と書いており、多くの関係者と同じように高田兄弟より、鳥について教えてもらったことがわかります。
 また「富士の鳥類」の項には「昴氏はまた鳥の生きた字引である。氏は、この赤い卵は鶯、この青空色の卵は小瑠璃、この純白の卵は仙台虫食という風に、一々即座にいってくれ、同様にして啼声に従ってその名を教えてくれる。(中略)即ち昴氏のほうは知識の倉、兄の兵太郎氏は鳥寄せの名手、まるで富士の森林のフランシスカンような此の二人のお陰で、私たちはわけても種類に豊富な岳麓の鳥にどれほど親しんでいるか知れないのだ」と絶賛しています。
 フランシスカンが、わからないので検索したら、上位にナパバレーのワインのブランドが出てきました。実際は、聖フランシスに関係したキリスト教に関してのようです。
 ただ、『蟲・鳥と生活する』(1932年)は、鳥の名前の誤記があります。まず、グラビアの48図「著者の手にとまっている杜鵑」は、ジュウイチの幼鳥に見えます。悟堂は、コノハズクがお気に入りのようで、4点写真が掲載されています。しかし、53図のコノハズクは、小説家の中村星湖(1884~1974年)の半折といっしょに写っています。この半折には「赤き目をふかくひそめて木の葉ずく 夢をみるらむ深山の夢を」とあり、目が赤いことがわかり、これはオオコノハズクです。
 和名にいくつか気になるところがあります。なぜか、ジュウイチのことを「じゅういちかっこう」と書いています。
 また「富士山鳥類目録」の項には、エゾビタキに繁殖している意味の×マークが付いています。しかし、国内での繁殖の確認はされていませんので、サメビタキの誤認かと思われます。
 これらの誤記は、ざっと見て見つけたもので、精査すればもっとあるかもしれません。いずれにしても、悟堂が日本野鳥の会の会長になる3年前のこと、まだ鳥についての知識が確定していない時代があったことを割り引いて読む必要があると思います。
 その後、調べてみたら「じゅういちかっこう」などの間違いには、悟堂も気が付き『愛鳥自伝 下』(平凡社・1993)で、弁解を書いています。
「ジュウイチのことを十一郭公と書いているのは高田昴さんの言い方をそのまま使ったものだし、オオコノハズクをコノハズクと書いているのはも高田昴さんの言い方そのままである。もっとひどいのはジュウイチの幼鳥をホトトギスにすりかえいるのもお粗末な次第で、農林省畜産局の『鳥獣調査報告書』(昭和2年1月発行)には、オオコノハズクとコノハズクとを別種に分けてある。」
 じゅういちかっこうとオオコノハズクとコノハズクの間違いは、高田昴のせいだということでしょう。ジュウイチの幼鳥をホトトギスと間違えたことは言い訳しづらいのため、鳥獣調査報告書の話が出てきます。そのため、話の流れがおかしくなり文筆家の悟堂としては不自然な文章となっています。それだけ間違ったことに動揺しているように思えます。
 その後の文章では、黎明期のこととでいたしかったなかったと弁解じみたことが書かれています。また『蟲・鳥と生活する』(1932年)のお陰でクモの研究家になった人がいるなど、フォローしています。
 私自身、間違えることがありますので、あまり大きなことは言えません。悟堂を弁護すれば、前述のように図鑑も定かでない時代、口伝で鳥の名前を教わった頃のこと、このような間違いが生じるのは致し方ないことだと思います。
 いずれにしても、兵太郎と昴の高田兄弟に須走で、野鳥の名前を教わったことは間違いありません。とくに、鳴き声から鳥の名前を言い当てる知識は兵太郎から、その他の識別や習性の知識は昴からでした。ただ、高田兄弟の名前は日本野鳥の会の会長になる以前には絶賛して感謝しているのですが、だんだん登場する回数が減っていきます。とくに、戦後に日本野鳥の会の歴史や自身を語るとき高田兄弟の名前は消えていきます。
 消えた理由のひとつに戦後の高田家が野鳥園の運営に関わり、飼い鳥で客寄せをしようとしたことがあるかもしれません。私が知る限り「野鳥」誌に紹介記事はありません。すでに会員であった私は、須走に行くまで野鳥園があることを知らなかったのです。飼い鳥反対の日本野鳥の会の会長として悟堂が支援はできませんし、それを知って高田家自身も日本野鳥の会、そして悟堂とのつきあいが疎遠になっていったのかもしれません。
 さらに憶測ですが、悟堂の文化人好きがあると思います。日本野鳥の会の発足後は、画家や小説家、そして学者との交流を自慢げに書いています。昴のような代用教員、山仕事をしている兵太郎は、文化人ではない市井の人となります。そのような者に教わったということは、日本野鳥の会会長としてちょっとかっこ悪いと思ったのかもしれません。(つづく)
[引用以外、敬称は略させていただきました。]

2022年1月18日 (火)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その2

須走の高田昴-1
 私は、たぶん高田昴の息子の敏雄らしい人に会っています。
 中学生の時(1964年頃)に中西悟堂の『定本野鳥記』(1962)を読んで、野鳥の世界の素晴らしさを知り、この世界に入りました。この本に書かれていた第1回の探鳥会が開かれた須走は聖地のように思えました。高校生の頃(1966年頃)、従姉妹が結婚し旦那が自衛隊の富士学校の教師をしていました。官舎が須走にあり、これ幸いと夏休みに泊まりに行きました。今考えれば、新婚の家庭にお邪魔したことになります。
 私が行った頃は『定本野鳥記』(1962)に出てくる日野屋林は、戦中戦後の動乱期に伐採され明るい疎林になっていました。それでも、クロツグミが目の前にとまってさえずってくれたり、浅間神社の植え込みではキビタキに出会えたり、初心者の私にとっては興奮のバードウォッチングの連続でした。
 また、野鳥園という施設があって、そこで飼われている鳥を見ることができました。従姉妹に施設があると教えられ、歩いて行ける距離にあったと思います。この野鳥園については、よくわからないのですが高田家監修、小田急電鉄の施設と聞いたことがあります。大きなドーム型のケージがあって、中にはいるとクロツグミやアカハラが飛び交っているという施設でした。ただ、目の前にくる鳥の羽は、かなり痛んでいて高校生ながら飼育されている鳥に違和感を覚えたものです。代金は、当時月500円の小遣いの私が払えたのですから、100円以下だったかもしれません。
 今、検索するとNHKのアーカイブスに高田俊雄と須走の野鳥園の写真が出てきます。
 https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=science016

 私が撮った野鳥園の写真です。人生、数本目の写真となります。
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 ここで、ケージのなかで鳥の名前を教えてくれたオジさんがいて、高田俊雄ではないかと思います。また、官舎に帰る途中に「高田鳥類研究所」と看板を掲げた家がありました。この家の縁側にたたずむオジさんがいましたが、内気な高校生としては話しかけることもできず遠目に見るだけでした(注1)。
 いずれにしても、私が高校生の頃(1960年代)には、悟堂に野鳥を教えた高田昴はすでに亡くなり代替わりしていたことになります。
 高田昴について調べて見ました。
 私は、日本野鳥の会60周年探鳥会(2004年6月2,3日)で須走に行ったときに、米山館主人の米山彰(当時72才)にインタビューをしています。その話と日本鳥学会の「鳥」などに書かれている報告、ネットの検索の結果などを参考にして書いています。
 高田昴は「たかだ・こう」と読みます。1872(明治5)年に生まれ、72才で1944(昭和19)年2月下旬に亡くなっています。結婚して、子どもは5人いたようです。長男の俊雄を筆頭に政臣(おみの字?)、重雄、武夫、女児(死亡)です。俊雄と重雄は、鳥の世界に名前を残しています。
 昴は、記念すべき第1回探鳥会の集合写真に写っています。顎髭を蓄え精悍な顔つきであることがわかります。引き締まった体つきも野山で鍛えられた印象があります。
 兄は兵太郎(たかだ・ひょうたろう)で、須走探鳥会のときに鳥の鳴き真似で参加者を驚かせます。兵太郎は、1867(慶応2)年に生まれ、1937(昭和12)年に70才で亡くなっています。ですから、探鳥会から3年後に死亡したことになります。生涯独身だったとのことです。兵太郎も集合写真に写っています。眠そうな顔をしているのが印象的です(注2)。
 昴は、米山館主人によると代用教員をしていたそうです。代用教員というのは、戦前から終戦直後まで教員不足を補うため、教員免許がなくても小中学校で教えることができた教員です。
 川田伸一郎の「アラン・オーストン基礎資料」(2016)によると「Owstonの採集人高田昂は1904年1‒2月母島列島中の母島及姪島にて此種多数を採集あり。此等はOwstnの手を経て各国の博物館並に蒐集家の許に散布せられ居る筈なり」と書かれています。
 さらに「もう一つ昴が関わった記録として,Ingram(1908)がある。コリンウッド・イングラム (Collingwood Ingram)は英国の鳥類研究家で,1902年と1907年に来日した。1907年の訪問で は4月20日に長崎から入国し,5月14日以降オーストンの勧めで富士山麓の須走で約3週間を 過ごした。現地の採集人と通訳がいたというが,この採集人が高田昴であったことが日本野鳥の会 (1934b) に記録されている。通訳はオーストン商会の人であったと思われるが,詳細は不明である。コジュリンEmberiza yessoensisの記述 (Ingram 1908, p. 155)には,イングラムが 須走を去る際に卵と巣を現地の採集人にお願いしていたところ,6月19日に得られたという連絡がオーストンにあり,オーストン自身が出向いて2つの巣を持ち帰った,というものがある。」とあります。
 昴は、どのようないきさつで、オーストンの採集人になり小笠原に行ったかは不明ですが、当時の小笠原へ行くというのは探検に近いツアーであったと想像します。
 俊雄が京都野鳥の会の『三光鳥 第11号』(昭和39年2月15日)に、次のように書いています。
 「富士山麓には沢山の野鳥が棲んで居るのを知り明治30(1897)年頃、横浜在住のアランオーストンと言ふ英国の生物研究に熱心な貿易商が採集に来て集めた標本が今なお英国の博物館に保存され海南島方面まで採集に同行した事もありました。」
 昴の鳥の知識は、オーストンから得たものであり、本場イギリス仕込みの知識であったことがわかります。他にもオーストンの採集人を勤めた人がいますが、昴のようにそれを人に伝える努力をした人物は見当たりません。昴は、須走という最高のフィールドをバックに野鳥の知識を広めることに尽力したといえるでしょう。
 俊雄は続いて
 「日本で鳥類の調査を実施したのは其の後だいぶ年月が経ってからで父が農林省の嘱託で鳥獣の調査を依頼されたのは明治末期の頃と思います。こんな訳で年少の時分から父と共に猟銃を持って山野を連れ歩かされた想出もあります。其れと言ふのも父より命中率が良く自慢の一つでも有りました。
 其の当時から農林省関係の人々や黒田長礼氏、内田清之助氏、川村多実二先生、先代小林桂助氏なども探鳥に見えられ研究されて居りました。
 昭和を迎え清棲幸保氏夫妻、橋本英一氏、山階芳麿氏夫妻、下村兼史氏、塚本閤治氏、中西悟堂先生、放送及び映画関係、画家、歌人、俳人等、名士の訪づれが増すにつれ野鳥の生棲地で益々有名になりました。」
 と記述しています。川村多実二と橋本英一は京都、小林桂助は兵庫在住のはずです。東京のみならず、関西方面の野鳥関係者が須走を訪ねたことになります。
 また、松山の『野鳥と共に80年』(1997)には、須走学校と称し昴から野鳥を学んだことが詳しく書かれています。そして、須走に山階鳥類研究所の分室を作る計画があったほど、研究者も入れ込んでいたことがわかります。この他、石澤慈鳥などの名前があり、いずれも列記された方々は、戦前戦後の鳥の世界を支えた人たちであって、いかに須走と昴の存在が大きなものであったかわかると思います。
 いわば、農商務省の担当者から貴族の研究者まで須走もうでを行い、日野屋林の野鳥と昴の知識を吸収しました。昴は、オーストンから得た知識を行政からプロの研究者に伝えていたことになります。こうして見ると、昴は日本の鳥類学、バードウォッチングの礎を築いた人物といえます。 その教えを中西悟堂も受けたことになります。ということで、次回は本題にもどります。(つづく)
[引用以外、敬称は略させていただきました。]

注1:日本ワイルドライフアート協会の巻島克之によると「1955(昭和30年)から4~5年だったろうか、富士山麓須走で高田重雄さんに鳥の案内をしていただいた期間である。」と会報に書いています。また、日本野鳥の会京都支部報には、行事報告として「1960(昭和35)年 富士山麓に野鳥を訪ねて…行事報告 6月23日~26日 参加者18名(他に須走案内者 高田重雄氏)」とあり、三男の重雄も須走にいてガイドをしていたことがわかります。私が会ったオジさんは重雄の可能性もあります。
注2:悟堂の『鳥蟲歳時記』(高山書院・1941)では「昭和12年」の章に「富士の兵さん」「兵さん逝く」のタイトルがあります。いずれも、兵さんの思い出を書いています。

2022年1月17日 (月)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その1

 日本野鳥の会が昭和9(1934)年に発足して、須走探鳥会を行います。当時39才だった中西悟堂は、野鳥の名前を教え解説をし野鳥に詳しいオジさんとして登場します。
 それまでは野鳥を放し飼いにしている変わったオジさんから、これは面白いから会を作ろうまで悟堂を巡って周りが動き出したことになります。飼育されていた鳥は、おそらく数10種にすぎません。ですが、探鳥会を実施した須走には、もっとたくさんの野鳥がいるはずですし目の前で飼っている鳥の名前を言い当てるのと、遠くで鳴いている鳥の名前がわかるのではバードウォッチングの技量、知識はまるで違います。
 中西悟堂は、いったいどこで誰に野鳥を教わったのか、気になって調べました。
 私は、中学生時代に数年独学で鳥を見ていました。いつまでたっても、鳥の名前がわからないで苦労いたしました。たとえば、ツグミがわかりませんでした。しかし、日本野鳥の会東京支部(当時)の探鳥会、それも明治神宮という身近なところでの探鳥会に参加するようになって格段と野鳥がわかるようになりました。そのため、教わった幹事のK泉さん、I頭さん、K田さんなど名前を忘れることはありません。また、新浜探鳥会はマニアックでより厳しめの指導を受けました。その時の幹事のK野さん、A海さん、S水さんなどの名前を思い出します。大学の同好会では、先輩のT村さんから体育会系のようなバードウォッチングの指導を受けました。かよう、野鳥を教わった先生、諸先輩のことは忘れることはできないのです。
 松山資郎の『野鳥と共に80年』(1997)には、日本野鳥の会の創立の頃の話として「そのころ中西悟堂さんについて私が知っていたのは『蟲、鳥と生活する』(昭和7年7月)の著者であった。(中略)文学者だということだけしか知らなかった。」とあります。日本鳥学会、農商務省の鳥獣で調査を行い鳥類研究の王道にいた松山にしても、悟堂は鳥仲間としての存在は希薄だったことがわかります。それが突然、日本野鳥の会として活動を始めるわけですから、多少の戸惑いを感じています。いわば師匠の内田清之助にたのまれて不承不承、手伝ったという感じです。ですから悟堂が当時の王道の方たちと交流があってバードウォッチングを教えてもらった、学んだということはなさそうです。
 なお、私が独学で野鳥を学ぼうした昭和30年代は、図鑑が何冊が出版されていました。また、鳥を解説した書籍も神保町に行けばたくさん並んでいて、そこそこの知識を得ることができました。しかし、悟堂が鳥を学んだ頃は、野外で鳥を見るためのアイテムは貧しい時代です。ただ、大図鑑時代で内田図鑑(1914)、黒田図鑑(1934)、山階図鑑(1934)が揃っていました。以前、拙ブログに書いたように日本の大陸侵攻に伴って朝鮮バブル、満州バブルの時代で、好景気のなか大図鑑が出版されたことになります。
 また、ハンディな図鑑は、日本で初めてとも言える下村兼史の『原色鳥類図譜』(1932)が日本野鳥の会創立の2年前に出版されていますが、未見です。アップしたのは、6年後に改題して発行された『原色野外鳥類図譜』(1938)の下村兼史によるイラストです。当時のイラストのレベルであれば、おもな鳥の野外識別は可能であったと思われます。
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 不明なのは、双眼鏡の普及状況と価格です。軍用品ということで入手不可だった可能性があります。あるいは、カメラなどの光学機器の価格からかなり高価であったと想像できます。また、戦前の双眼鏡を見るとポロタイプで倍率は6倍、中央繰り出しではなく左右別々にピントを合わせるもの(現在の視度調整が左右に付いていると思ってください)であり、すばやい操作を要求されるバードウォッチングには一苦労したものと思われます。
 ところで、悟堂は自伝を何度も書いているので野鳥をどこで誰に教わったか、すぐに見つかると思いました。たとえば、『定本野鳥記 5巻』(1964)のサブタイトルは「人と鳥」であって、11人が登場します。当然、載っているものと思いましたが、関連する記述はありません。
 このような困ったときに開くのが『野鳥』誌の「25周年記念特集号」(1960)です。分厚い特集号のグラビアには「恩顧の人々ⅠからⅤ」や「思い出のアルバム」というコーナーがあって、81枚の写真が収録されています。ここにも残念ながら、野鳥を教わった人というようなタイトル、謝辞のある写真を見つけることができませんでした。
 ただ、同じ特集号のなかに悟堂の書いた「日本野鳥の会25年史 第1回」に日本野鳥の会の創立の目的を「富士須走で年々高田昴氏の教えを受けたり、小島銀三郎翁の鳥屋場でのただ見るだけの野鳥の習性を見届けたい」とあり、悟堂は高田昴と小島銀三郎から鳥を教わったようです。これがヒントになり、今回の考証となりました。(つづく)
[敬称は、略させていただきました。]

 

2022年1月 9日 (日)

『朝の小鳥』スタジオ収録-2月は鳥が教えてくれる天気予報

 本日は、文化放送の『朝の小鳥』のスタジオ収録でした。先月、私の都合で日曜日の収録となってしまいましたが、いろいろ都合が良いことがわかり今月も日曜日となりました。
 すっかり『朝の小鳥』の顔となったアナウンサーの鈴木純子さんは、気象予報士の資格を持っています。気象予報士になるためには、合格率わずか4%の試験を突破しなくてはなりせん。鈴木さんに敬意を表して、鳥と天気をテーマに構成してみました。
 ネタ本は、川口孫治郎の『自然歴』(1933)です。私が持っているのは、日新書院版です。その後、八坂書房(1979)から復刻版が出ていて、こちらのほうが巻末にある索引が便利です。ちなみに。私の蔵書はバラバラになってしまっていて袋に入れて保存しています。
 ネタになる話を探すために一とおり読みました。さらにバラバラになってしまいましたが、意外と科学的に説明ができることわざが少ないことがわかりました。
 たとえば、オオヨシキリが巣を高いところに作ったら大雨というのがあります。オオヨシキリの巣の高さを調べて、その後、洪水が起きるかどうか調べないと正しいかどうかわかりません。この手の話は調べてみたいけれどなかなかね。といったところでしょう。
 いずれにしても、説明がつくネタにしました。どうぞ、お楽しみいただければ幸いです。

 

 2022年2月 放送予定
     6日 ヒバリ
     13日 トビ
    20日 イソヒヨドリ
    27日 アマツバメ

2022年1月 4日 (火)

日向ぼっこ-芝川第一調節池

 本日は、芝川第一調節池に行ってきました。
 オミクロン株が流行る前の間隙、正月の抗がん剤の休薬期間をぬっての久しぶりの遠出です。
 芝川第一調節池は、空が広いの良いですね。正月の澄んだ空気のため、青空がいちだんときれいでした。正面には富士山もかろうじて見えて、お正月らしい風景です。それに、なによりも風があるのに暖かいのがありがたかったです。
Img_0086
 鳥の方は、まずジョウビタキの雄が出迎えてくれました。小鳥類は、カワラヒワ、アオジ、ヒヨドリ、ツグミ、ムクドリ、モズなど。水鳥類は、カモ類の群れのほか、ダイサギ、コサギ、アオサギが多いです。遠いハクチョウ類は、オオハクチョウのようでした。おそらく東京にもっとも近いハクチョウの渡来地ではないでしょうか。名物の猛禽類は、オオタカとノスリ。チュウヒは出会えず。そのためでしょうか、午前中にはいたカメラマンの群れが12時を過ぎるといなくなりました。
 お日様をたっぷり浴びることができた芝川第一調節池でした。

2022年1月 2日 (日)

初野鳥録音-六義園

 明けましておめでとうございます。
 六義園は、本日より開園でした。今年初めてのバードウォッチング、鳥始めとなりました。
 日本海側にお住みの方には申しわけございませんが、各地で雪がふったせいか、六義園の鳥の姿が多くなりました。とくに地面で食べ物を探すシロハラの姿と声には頻繁に出会いました。メジロやウグイスなど笹藪のなかで食べ物を探す鳥たちも同時に多くなった感じで、つられて平地に降りてきたのでしょうか。
 初野鳥録音は、メジロ、シロハラ、ヒヨドリなどです。それぞれの鳥が、警戒と思われる鳴き声を出していました。私とカミさんしかいなし、私たちに警戒しているとも思えません。私たちには見えない”何か”がいたのでしょうか。
 アップルウォッチSEで録音。ボリュームの増幅、1,500Hz以下のノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。



 アップルウォッチのマイクの位置を確認したら、ジョグダイヤルの下にある小さな穴がマイクでした。ですから、音には手の甲、あるいは指を向ければ良いことがわかりました。
 初鳥見を楽しみことができましたので、今年も一年間バードウォッチングを楽しめそうです。
 どうぞ、皆さまにおかれましても良い年でありますようお祈りいたしております。

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