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2022年1月17日 (月)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その1

 日本野鳥の会が昭和9(1934)年に発足して、須走探鳥会を行います。当時39才だった中西悟堂は、野鳥の名前を教え解説をし野鳥に詳しいオジさんとして登場します。
 それまでは野鳥を放し飼いにしている変わったオジさんから、これは面白いから会を作ろうまで悟堂を巡って周りが動き出したことになります。飼育されていた鳥は、おそらく数10種にすぎません。ですが、探鳥会を実施した須走には、もっとたくさんの野鳥がいるはずですし目の前で飼っている鳥の名前を言い当てるのと、遠くで鳴いている鳥の名前がわかるのではバードウォッチングの技量、知識はまるで違います。
 中西悟堂は、いったいどこで誰に野鳥を教わったのか、気になって調べました。
 私は、中学生時代に数年独学で鳥を見ていました。いつまでたっても、鳥の名前がわからないで苦労いたしました。たとえば、ツグミがわかりませんでした。しかし、日本野鳥の会東京支部(当時)の探鳥会、それも明治神宮という身近なところでの探鳥会に参加するようになって格段と野鳥がわかるようになりました。そのため、教わった幹事のK泉さん、I頭さん、K田さんなど名前を忘れることはありません。また、新浜探鳥会はマニアックでより厳しめの指導を受けました。その時の幹事のK野さん、A海さん、S水さんなどの名前を思い出します。大学の同好会では、先輩のT村さんから体育会系のようなバードウォッチングの指導を受けました。かよう、野鳥を教わった先生、諸先輩のことは忘れることはできないのです。
 松山資郎の『野鳥と共に80年』(1997)には、日本野鳥の会の創立の頃の話として「そのころ中西悟堂さんについて私が知っていたのは『蟲、鳥と生活する』(昭和7年7月)の著者であった。(中略)文学者だということだけしか知らなかった。」とあります。日本鳥学会、農商務省の鳥獣で調査を行い鳥類研究の王道にいた松山にしても、悟堂は鳥仲間としての存在は希薄だったことがわかります。それが突然、日本野鳥の会として活動を始めるわけですから、多少の戸惑いを感じています。いわば師匠の内田清之助にたのまれて不承不承、手伝ったという感じです。ですから悟堂が当時の王道の方たちと交流があってバードウォッチングを教えてもらった、学んだということはなさそうです。
 なお、私が独学で野鳥を学ぼうした昭和30年代は、図鑑が何冊が出版されていました。また、鳥を解説した書籍も神保町に行けばたくさん並んでいて、そこそこの知識を得ることができました。しかし、悟堂が鳥を学んだ頃は、野外で鳥を見るためのアイテムは貧しい時代です。ただ、大図鑑時代で内田図鑑(1914)、黒田図鑑(1934)、山階図鑑(1934)が揃っていました。以前、拙ブログに書いたように日本の大陸侵攻に伴って朝鮮バブル、満州バブルの時代で、好景気のなか大図鑑が出版されたことになります。
 また、ハンディな図鑑は、日本で初めてとも言える下村兼史の『原色鳥類図譜』(1932)が日本野鳥の会創立の2年前に出版されていますが、未見です。アップしたのは、6年後に改題して発行された『原色野外鳥類図譜』(1938)の下村兼史によるイラストです。当時のイラストのレベルであれば、おもな鳥の野外識別は可能であったと思われます。
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 不明なのは、双眼鏡の普及状況と価格です。軍用品ということで入手不可だった可能性があります。あるいは、カメラなどの光学機器の価格からかなり高価であったと想像できます。また、戦前の双眼鏡を見るとポロタイプで倍率は6倍、中央繰り出しではなく左右別々にピントを合わせるもの(現在の視度調整が左右に付いていると思ってください)であり、すばやい操作を要求されるバードウォッチングには一苦労したものと思われます。
 ところで、悟堂は自伝を何度も書いているので野鳥をどこで誰に教わったか、すぐに見つかると思いました。たとえば、『定本野鳥記 5巻』(1964)のサブタイトルは「人と鳥」であって、11人が登場します。当然、載っているものと思いましたが、関連する記述はありません。
 このような困ったときに開くのが『野鳥』誌の「25周年記念特集号」(1960)です。分厚い特集号のグラビアには「恩顧の人々ⅠからⅤ」や「思い出のアルバム」というコーナーがあって、81枚の写真が収録されています。ここにも残念ながら、野鳥を教わった人というようなタイトル、謝辞のある写真を見つけることができませんでした。
 ただ、同じ特集号のなかに悟堂の書いた「日本野鳥の会25年史 第1回」に日本野鳥の会の創立の目的を「富士須走で年々高田昴氏の教えを受けたり、小島銀三郎翁の鳥屋場でのただ見るだけの野鳥の習性を見届けたい」とあり、悟堂は高田昴と小島銀三郎から鳥を教わったようです。これがヒントになり、今回の考証となりました。(つづく)
[敬称は、略させていただきました。]

 

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