誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その3
須走の高田昴-2
悟堂は、昴について多くは語っていません。
誰の紹介で昴と交流がはじまったのか、須走通いのきっかけはなんだったのかの記述を見つけることができませんでした。当時、鳥関係者が米山館に泊まり、昴に教えを請う須走通いは常識というか通過儀礼であったようです。飛び込みで米山館に泊まって、そのツテで昴と会ったのでしょうか。
ただ、著作の『蟲・鳥と生活する』(1932年)に昴が登場します。第1回須走探鳥会の3年前の話となります。悟堂自身は昆虫に傾倒し、鳥は放し飼いをしていた頃の話です。
「富士裾野・鳥と草の記」の項には、昭和6(1931)年5月30日から31日にかけて、須走を訪れたことを書いています。「著名な裾野の鳥の研究家高田昴さんと、そこを逍遙しているのであった」とあり「夕食後には昴さんと、その兄である鳥寄せの名手兵さんとの宿へ来て貰った。昴さんには鳥の巣の話を聴くため、兵さんには鳥の啼声をして貰うためである。」と書いており、多くの関係者と同じように高田兄弟より、鳥について教えてもらったことがわかります。
また「富士の鳥類」の項には「昴氏はまた鳥の生きた字引である。氏は、この赤い卵は鶯、この青空色の卵は小瑠璃、この純白の卵は仙台虫食という風に、一々即座にいってくれ、同様にして啼声に従ってその名を教えてくれる。(中略)即ち昴氏のほうは知識の倉、兄の兵太郎氏は鳥寄せの名手、まるで富士の森林のフランシスカンような此の二人のお陰で、私たちはわけても種類に豊富な岳麓の鳥にどれほど親しんでいるか知れないのだ」と絶賛しています。
フランシスカンが、わからないので検索したら、上位にナパバレーのワインのブランドが出てきました。実際は、聖フランシスに関係したキリスト教に関してのようです。
ただ、『蟲・鳥と生活する』(1932年)は、鳥の名前の誤記があります。まず、グラビアの48図「著者の手にとまっている杜鵑」は、ジュウイチの幼鳥に見えます。悟堂は、コノハズクがお気に入りのようで、4点写真が掲載されています。しかし、53図のコノハズクは、小説家の中村星湖(1884~1974年)の半折といっしょに写っています。この半折には「赤き目をふかくひそめて木の葉ずく 夢をみるらむ深山の夢を」とあり、目が赤いことがわかり、これはオオコノハズクです。
和名にいくつか気になるところがあります。なぜか、ジュウイチのことを「じゅういちかっこう」と書いています。
また「富士山鳥類目録」の項には、エゾビタキに繁殖している意味の×マークが付いています。しかし、国内での繁殖の確認はされていませんので、サメビタキの誤認かと思われます。
これらの誤記は、ざっと見て見つけたもので、精査すればもっとあるかもしれません。いずれにしても、悟堂が日本野鳥の会の会長になる3年前のこと、まだ鳥についての知識が確定していない時代があったことを割り引いて読む必要があると思います。
その後、調べてみたら「じゅういちかっこう」などの間違いには、悟堂も気が付き『愛鳥自伝 下』(平凡社・1993)で、弁解を書いています。
「ジュウイチのことを十一郭公と書いているのは高田昴さんの言い方をそのまま使ったものだし、オオコノハズクをコノハズクと書いているのはも高田昴さんの言い方そのままである。もっとひどいのはジュウイチの幼鳥をホトトギスにすりかえいるのもお粗末な次第で、農林省畜産局の『鳥獣調査報告書』(昭和2年1月発行)には、オオコノハズクとコノハズクとを別種に分けてある。」
じゅういちかっこうとオオコノハズクとコノハズクの間違いは、高田昴のせいだということでしょう。ジュウイチの幼鳥をホトトギスと間違えたことは言い訳しづらいのため、鳥獣調査報告書の話が出てきます。そのため、話の流れがおかしくなり文筆家の悟堂としては不自然な文章となっています。それだけ間違ったことに動揺しているように思えます。
その後の文章では、黎明期のこととでいたしかったなかったと弁解じみたことが書かれています。また『蟲・鳥と生活する』(1932年)のお陰でクモの研究家になった人がいるなど、フォローしています。
私自身、間違えることがありますので、あまり大きなことは言えません。悟堂を弁護すれば、前述のように図鑑も定かでない時代、口伝で鳥の名前を教わった頃のこと、このような間違いが生じるのは致し方ないことだと思います。
いずれにしても、兵太郎と昴の高田兄弟に須走で、野鳥の名前を教わったことは間違いありません。とくに、鳴き声から鳥の名前を言い当てる知識は兵太郎から、その他の識別や習性の知識は昴からでした。ただ、高田兄弟の名前は日本野鳥の会の会長になる以前には絶賛して感謝しているのですが、だんだん登場する回数が減っていきます。とくに、戦後に日本野鳥の会の歴史や自身を語るとき高田兄弟の名前は消えていきます。
消えた理由のひとつに戦後の高田家が野鳥園の運営に関わり、飼い鳥で客寄せをしようとしたことがあるかもしれません。私が知る限り「野鳥」誌に紹介記事はありません。すでに会員であった私は、須走に行くまで野鳥園があることを知らなかったのです。飼い鳥反対の日本野鳥の会の会長として悟堂が支援はできませんし、それを知って高田家自身も日本野鳥の会、そして悟堂とのつきあいが疎遠になっていったのかもしれません。
さらに憶測ですが、悟堂の文化人好きがあると思います。日本野鳥の会の発足後は、画家や小説家、そして学者との交流を自慢げに書いています。昴のような代用教員、山仕事をしている兵太郎は、文化人ではない市井の人となります。そのような者に教わったということは、日本野鳥の会会長としてちょっとかっこ悪いと思ったのかもしれません。(つづく)
[引用以外、敬称は略させていただきました。]
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