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2022年1月18日 (火)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その2

須走の高田昴-1
 私は、たぶん高田昴の息子の敏雄らしい人に会っています。
 中学生の時(1964年頃)に中西悟堂の『定本野鳥記』(1962)を読んで、野鳥の世界の素晴らしさを知り、この世界に入りました。この本に書かれていた第1回の探鳥会が開かれた須走は聖地のように思えました。高校生の頃(1966年頃)、従姉妹が結婚し旦那が自衛隊の富士学校の教師をしていました。官舎が須走にあり、これ幸いと夏休みに泊まりに行きました。今考えれば、新婚の家庭にお邪魔したことになります。
 私が行った頃は『定本野鳥記』(1962)に出てくる日野屋林は、戦中戦後の動乱期に伐採され明るい疎林になっていました。それでも、クロツグミが目の前にとまってさえずってくれたり、浅間神社の植え込みではキビタキに出会えたり、初心者の私にとっては興奮のバードウォッチングの連続でした。
 また、野鳥園という施設があって、そこで飼われている鳥を見ることができました。従姉妹に施設があると教えられ、歩いて行ける距離にあったと思います。この野鳥園については、よくわからないのですが高田家監修、小田急電鉄の施設と聞いたことがあります。大きなドーム型のケージがあって、中にはいるとクロツグミやアカハラが飛び交っているという施設でした。ただ、目の前にくる鳥の羽は、かなり痛んでいて高校生ながら飼育されている鳥に違和感を覚えたものです。代金は、当時月500円の小遣いの私が払えたのですから、100円以下だったかもしれません。
 今、検索するとNHKのアーカイブスに高田俊雄と須走の野鳥園の写真が出てきます。
 https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=science016

 私が撮った野鳥園の写真です。人生、数本目の写真となります。
Yatyouen1

 ここで、ケージのなかで鳥の名前を教えてくれたオジさんがいて、高田俊雄ではないかと思います。また、官舎に帰る途中に「高田鳥類研究所」と看板を掲げた家がありました。この家の縁側にたたずむオジさんがいましたが、内気な高校生としては話しかけることもできず遠目に見るだけでした(注1)。
 いずれにしても、私が高校生の頃(1960年代)には、悟堂に野鳥を教えた高田昴はすでに亡くなり代替わりしていたことになります。
 高田昴について調べて見ました。
 私は、日本野鳥の会60周年探鳥会(2004年6月2,3日)で須走に行ったときに、米山館主人の米山彰(当時72才)にインタビューをしています。その話と日本鳥学会の「鳥」などに書かれている報告、ネットの検索の結果などを参考にして書いています。
 高田昴は「たかだ・こう」と読みます。1872(明治5)年に生まれ、72才で1944(昭和19)年2月下旬に亡くなっています。結婚して、子どもは5人いたようです。長男の俊雄を筆頭に政臣(おみの字?)、重雄、武夫、女児(死亡)です。俊雄と重雄は、鳥の世界に名前を残しています。
 昴は、記念すべき第1回探鳥会の集合写真に写っています。顎髭を蓄え精悍な顔つきであることがわかります。引き締まった体つきも野山で鍛えられた印象があります。
 兄は兵太郎(たかだ・ひょうたろう)で、須走探鳥会のときに鳥の鳴き真似で参加者を驚かせます。兵太郎は、1867(慶応2)年に生まれ、1937(昭和12)年に70才で亡くなっています。ですから、探鳥会から3年後に死亡したことになります。生涯独身だったとのことです。兵太郎も集合写真に写っています。眠そうな顔をしているのが印象的です(注2)。
 昴は、米山館主人によると代用教員をしていたそうです。代用教員というのは、戦前から終戦直後まで教員不足を補うため、教員免許がなくても小中学校で教えることができた教員です。
 川田伸一郎の「アラン・オーストン基礎資料」(2016)によると「Owstonの採集人高田昂は1904年1‒2月母島列島中の母島及姪島にて此種多数を採集あり。此等はOwstnの手を経て各国の博物館並に蒐集家の許に散布せられ居る筈なり」と書かれています。
 さらに「もう一つ昴が関わった記録として,Ingram(1908)がある。コリンウッド・イングラム (Collingwood Ingram)は英国の鳥類研究家で,1902年と1907年に来日した。1907年の訪問で は4月20日に長崎から入国し,5月14日以降オーストンの勧めで富士山麓の須走で約3週間を 過ごした。現地の採集人と通訳がいたというが,この採集人が高田昴であったことが日本野鳥の会 (1934b) に記録されている。通訳はオーストン商会の人であったと思われるが,詳細は不明である。コジュリンEmberiza yessoensisの記述 (Ingram 1908, p. 155)には,イングラムが 須走を去る際に卵と巣を現地の採集人にお願いしていたところ,6月19日に得られたという連絡がオーストンにあり,オーストン自身が出向いて2つの巣を持ち帰った,というものがある。」とあります。
 昴は、どのようないきさつで、オーストンの採集人になり小笠原に行ったかは不明ですが、当時の小笠原へ行くというのは探検に近いツアーであったと想像します。
 俊雄が京都野鳥の会の『三光鳥 第11号』(昭和39年2月15日)に、次のように書いています。
 「富士山麓には沢山の野鳥が棲んで居るのを知り明治30(1897)年頃、横浜在住のアランオーストンと言ふ英国の生物研究に熱心な貿易商が採集に来て集めた標本が今なお英国の博物館に保存され海南島方面まで採集に同行した事もありました。」
 昴の鳥の知識は、オーストンから得たものであり、本場イギリス仕込みの知識であったことがわかります。他にもオーストンの採集人を勤めた人がいますが、昴のようにそれを人に伝える努力をした人物は見当たりません。昴は、須走という最高のフィールドをバックに野鳥の知識を広めることに尽力したといえるでしょう。
 俊雄は続いて
 「日本で鳥類の調査を実施したのは其の後だいぶ年月が経ってからで父が農林省の嘱託で鳥獣の調査を依頼されたのは明治末期の頃と思います。こんな訳で年少の時分から父と共に猟銃を持って山野を連れ歩かされた想出もあります。其れと言ふのも父より命中率が良く自慢の一つでも有りました。
 其の当時から農林省関係の人々や黒田長礼氏、内田清之助氏、川村多実二先生、先代小林桂助氏なども探鳥に見えられ研究されて居りました。
 昭和を迎え清棲幸保氏夫妻、橋本英一氏、山階芳麿氏夫妻、下村兼史氏、塚本閤治氏、中西悟堂先生、放送及び映画関係、画家、歌人、俳人等、名士の訪づれが増すにつれ野鳥の生棲地で益々有名になりました。」
 と記述しています。川村多実二と橋本英一は京都、小林桂助は兵庫在住のはずです。東京のみならず、関西方面の野鳥関係者が須走を訪ねたことになります。
 また、松山の『野鳥と共に80年』(1997)には、須走学校と称し昴から野鳥を学んだことが詳しく書かれています。そして、須走に山階鳥類研究所の分室を作る計画があったほど、研究者も入れ込んでいたことがわかります。この他、石澤慈鳥などの名前があり、いずれも列記された方々は、戦前戦後の鳥の世界を支えた人たちであって、いかに須走と昴の存在が大きなものであったかわかると思います。
 いわば、農商務省の担当者から貴族の研究者まで須走もうでを行い、日野屋林の野鳥と昴の知識を吸収しました。昴は、オーストンから得た知識を行政からプロの研究者に伝えていたことになります。こうして見ると、昴は日本の鳥類学、バードウォッチングの礎を築いた人物といえます。 その教えを中西悟堂も受けたことになります。ということで、次回は本題にもどります。(つづく)
[引用以外、敬称は略させていただきました。]

注1:日本ワイルドライフアート協会の巻島克之によると「1955(昭和30年)から4~5年だったろうか、富士山麓須走で高田重雄さんに鳥の案内をしていただいた期間である。」と会報に書いています。また、日本野鳥の会京都支部報には、行事報告として「1960(昭和35)年 富士山麓に野鳥を訪ねて…行事報告 6月23日~26日 参加者18名(他に須走案内者 高田重雄氏)」とあり、三男の重雄も須走にいてガイドをしていたことがわかります。私が会ったオジさんは重雄の可能性もあります。
注2:悟堂の『鳥蟲歳時記』(高山書院・1941)では「昭和12年」の章に「富士の兵さん」「兵さん逝く」のタイトルがあります。いずれも、兵さんの思い出を書いています。

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コメント

こんにちは
祖父の思い出を探しながらこちらのブログを拝読させて頂きました。
NHKの写真にて取り寄せしているのは髙田重雄です。
間違えにショックで連絡させて頂きました。
野鳥園の園長も重雄です。

この時代祖父がネット内で生きているのには感動です。
ありがとうございます。

ともちん様

 初めまして。とても貴重な報告、ありがとうございます。また、拙ブログがお目にとまし恐縮です。
 NHKの写真説明が間違っているとは、おどろきです。当時のNHKは、イケイケムードで碌な確認をしていなかった可能性があります。この手の番組は宣伝してやっているという感覚で取材していましたね。間違いもさもありなんです。
 自然番組の取材のあとは草木も生えないと批判されていた時代です。
ところで、私に鳥を教えてくれたのも、重雄さんであった可能性が高いと思いました。重ねてお礼申し上げます。
 高田昴さんはじめご一家は、野鳥史のなかで大きな貢献をしたことは、間違いないと思っています。それを伝承して行ければと思いの拙文です。
 今後ともいろいろ調べて行けたらと思っています。
 まずは、お礼まで・・・

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