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2022年1月21日 (金)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その5

鳥屋場の小島銀三郎-2
 銀三郎の鳥屋場でどれだけ、野鳥が採れていたのでしょうか。 『野鳥』第1巻第6号(昭和9年発行)の「鳥の渡り特集」には、八王子市東南部の多摩丘陵での記録とありますので、銀三郎の鳥屋場だと思われます。昭和6年10月20日から11月末まで40日間の捕獲数のうち、ツグミ類が2.599羽、小物1,775羽、計4,374羽と悟堂は報告しています。1シーズン4,000羽を超える小鳥を捕まえていたとは、そこそこの数字ですが、『蟲・鳥と生活する』(1932年)にも同じ数字が載っていますので、間違いないでしょう。
 時代も鳥の数も違う現在との比較はあくまでも参考ですが、山階鳥類研究所が行っている標識調査で織田山鳥類観測一級ステーション(福井県)の放鳥数は1973~1998年で合計77,617羽、年平均3,112羽です。銀三郎は1人で、それ以上の小鳥を捕まえていたことになります。
 また、客も多かったことが書かれており「一期で約300人に及び、多い時には1日120人にも達した」という人気です。それでも、300や400羽の鳥が採れるので、まかなえるとも書かれています。ここで、鳥の味の違いが書かれていると面白いのですが、それはありませんでした。ただ、著名人も多数来訪し、満鉄総裁、ドイツ大使、外務省局長などなどの名前があげられています。前掲した尾崎喜八の文章のように、銀三郎は野鳥の世界のみならず、財界から政界でも有名人であったことになります。
 野暮を承知で、どのくらい儲かったか想像してみます。焼き鳥に合わせて酒も提供されたはずですから、300人が現在の貨幣価値で1人10,000円払ったとして3,000,000円。半額の5,000円としても1,500,000円となります。著名人が多かったとのことですから10,000円に近い可能性があります。たた2ヶ月でこれだけの売り上げがあったとすると、鳥屋場はかなり儲かる商売であったといえるでしょう。
 当時、鳥屋場で野鳥の知識を深めたのは、悟堂にかぎったことではありません。
 戦前戦後の日本野鳥の会を支えてくれた一人に画家の小杉放菴がいます。『野鳥』誌の表紙やカットを描くなど、日本野鳥の会参与という肩書きで、厳しい時代に支えくれた方です。戦前最後の「野鳥」誌の表紙絵は、小杉放菴です。

Nn93
 なお、小杉放菴の美術館が栃木県日光市内にあります。日光の自然仲間のE村さんが関係しているため、作品を見せてもらったことがあります。色紙に描かれた大量のスケッチで、日光の鳥屋場に悟堂と同じように泊まり込んで、捕らえられた鳥を描いたと伝えられています。美術館のサイトにアップされた年譜には「1935(昭和10)年10月27日 岸浪百草居と栃木県川治の鳥屋場へ写生に行く。」などがあります。こうして描かれたさまざまなスケッチから、見事な本画が描かれていく経過がわかります。また、正確に鳥や植物を描くためにどこにポイントを置いて見ていたのか、残されたスケッチを見るとわかりました。
 また、日本野鳥の会の探鳥会が鳥屋場というのは、戦前に行われていました。日光の鳥屋場巡りのお土産が、ヤマガラという時代もあったのです。
 戦後、GHQが日本の野鳥を調べたら、カスミ網が野鳥の減少に大きく影響していることがわかり禁止に動きます。それでも、私が日本野鳥の会の職員時代(1980年代)でさえ、カスミ網の使用は禁止だけど所持はOKというザル状態でした。職員時代にカスミ網の反対署名を集める資金集めのためテレホンカードを作るなど、苦労した思い出があります。その結果、ようやく現在では使用も所持も禁止となりました。
 現在、どれだけ鳥屋場によるカスミ網猟が行われているか、実態は不明です。メジロを捕らえるような小規模な密猟はいまだ行われていると思いますが、銀三郎のように鳥屋場を管理運営するのは難しいでしょう。まず、カスミ網を張る山の植生を一年かけて剪定しなくてはなりません。茂りすぎても開けすぎてもだめで、カスミ網をうまく隠せるような状態にしておかなくてはならないのです。日光の鳥屋場として地名の残っている山は、現在では木が茂りすぎて網を張ることができません。こうした山仕事をするのはたいへんです。それより、ケンタッキーでフライドチキン、あるいは鳥貴族で焼き鳥を注文した方が安いしお手軽です。それに何より、法律違反を犯している後ろめたさを持たないで済みます。
 ところで、悟堂が日本野鳥の会会長となり運営するようになると銀三郎の名前は、出てこなくなります。悟堂の野猿峠への来訪は、日本野鳥の会の発足とともになくなったのではないかと思われます。
 たとえば「アニマ」の1979年5月号(No.74)の特集は「バード・ウォッチング -鳥の行動をみる-」です。このなかで、悟堂は「探鳥会とBirdwatching」と題し寄稿しています。一部を引用すると「私は野鳥の会を起こす前も、西洋の論理に従えぬ意識があった。また当時の鳥類分類学者が学術上の必要があったからとはいえ、多くの標本を持つために鳥を平気で撃ち殺す学風はけして愉快なものではなかった」とあります。暗に山階芳麿、黒田長禮、清棲幸保など、貴族学者たちの剥製のコレクションによる研究を批判しています。鳥を殺すことは大反対であり「野の鳥は野に」の日本野鳥の会の理念が強固になった頃です。しかし、野鳥の会を起こす以前は。同じように鳥を殺す鳥屋場に嬉々として通っていたのですから、日本野鳥の会の活動を通じて考え方がかわったと、まずは自己批判して欲しいところです。日本野鳥の会の会長を名乗る以上、聖人君子でなくてはならないと思っていた頃で、きれい事に終始してしまっているのは残念です。結果、銀三郎の名は暗黒史とし消し去ったといってもよいかもしれません。
 今回いろいろ調べてみたら、悟堂がとつぜん鳥に詳しくなったのではなく、そこには鳥人とも言える先生が少なくとも2人いたことがわかりました。この2人の業績は、悟堂を通じて日本野鳥の会の活動に影響を与えた重要人物であると思います。
 一般的には、鳥がいたら”鳥”、あるいは”小鳥”で終わりです。鳥には、それぞれ名前があり名前を知ることは楽しみであり、その知識を持った人たちが黎明期にいたことになります。明治から大正、昭和の初期です。情報の乏しい時代にこうした知識を得ることは、今では考えられない苦労があったと思います。
 現在では当たり前のことですが、野鳥は名前のわかるものであり識別するものであることを知らしめたことになります。そして、悟堂を通じて、その方法と知識、技術を日本野鳥の会に伝えたと言っても良いかもしれません。今ある探鳥会の指導から図鑑の制作まで、そして私たちがバードウォッチングを楽しめるのも、元を正せばこの2人の活動に行き着くことになります。
 高田昴と小島銀三郎の名は、野鳥史に残すべき名前だと思います。(おわり)
[敬称は略させていただきました。]

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