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2022年2月

2022年2月24日 (木)

秋山孝さん-訃報

 「さすがに美術系の大学生はおしゃれだなあ」というのが、秋山孝さんに初めて会ったときの印象です。私は当時(1979年頃)、日本鳥類保護連盟の職員でした。バードカービングを普及させるためにどうしたら良いか思案しているときに紹介されたのが、秋山さんでした。
 当時は、彫りを桒山賀行さん、塗りを秋山さんが分担して行い、日本で最初のバードカービングを制作して入門書を制作いたしました。この作品は、展示会があるとよく使われましたが、日本鳥類保護連盟が剥製を飾って良いのかというクレームが付くほどのできでした。その後、バードカービングが普及し現在あるのも、すべて秋山さんが作ったこのモデルからスタートしたことになります。
 残念なことに昨夜、日本バードカービング協会の水上清一さんから、秋山孝さんの訃報が伝えられました。秋山さんの出身地であり、彼の秋山孝ポスター美術館長岡のある地元の新聞記事の訃報記事です。
  https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/27935
 今思えば、連盟で私がバードカービングの仕事ができたのは、ひとえに秋山さんの存在が大きかったと思います。とにかく、バードカービングがどんなものかわからず新しい事業をすることに後ろ向きな専務理事や事務局長がしきっていた連盟でした。ところがバードカービングに関わり、作品が完成、入門書の発行、展示会や教室の実施、制作キットの販売とどんどん展開していったのですから、文句を言えない雰囲気を作ることができました。これらの多くが秋山さんの援助とお仕事です。おかげで、私はバードカービングだけでなく他の仕事である干潟の保護などについても自信を持って取り組むことができるようになりました。
 そして、バードカービングは内山春雄さんや水上清一さんなどのプロが成り立つ世界となりました。そして、コロナ禍のなかコンクールの実施は困難になっていますが、東京都美術館で盛大な展示会ができるまでになりました。
 若い頃、秋山さんは「俺はメジャーになる」と言っていました。私は、なんで人間が巻き尺になるのかと思ったものです。メジャーとマイナー、そんな言葉も知らないで仕事していました。彼は言ったとおり、雑誌『じゃらん』の表紙をイラストで飾り、出身地の長岡市には秋山孝ポスター美術館長岡が建てられ、多摩美術大学の教授になりました。彼の言ったとおり、私の知人のなかでもっともメジャーになったことになります。
 ごく一部の人に受け入れられる趣味の世界、マイナーな業界で生活してきた私にとって、秋山さんは地球という広い世界、一般社会で仕事をした憧れの存在でした。これからも、秋山さんから刺激を受けて、少しでもメジャーになろうと思っていただけに残念でなりません。
 心の底からご冥福をお祈りするとともに、深く感謝いたします。
 20年前のバードカービングコンクール会場にての写真です。
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2022年2月23日 (水)

竹野家立の『野鳥の生活』は悟堂の蔵書にあった!?

 私の人生を変えた中西悟堂の人となりに触れたくて、著書をはじめ悟堂について書かれたことを読んだりネット検索しては楽しんでいます。調べれば調べるほど、悟堂はほんと鳥が好きな人だったんだなあと思います。そして、情熱家であり頑固ジジイでだったと実感します。
 こうして悟堂の著作を見て、今回の発見のご紹介です。
 私は、野鳥という言葉を野鳥誌と日本野鳥の会に使用したのは『定本野鳥記』に書かれているように「『野鳥の・・・』云々という題」という本のタイトルをヒント説だと思っていました。そして、この『野鳥の・・・』は、前年に発行された竹野家立の『野鳥の生活』(大畑書店・1933)だと確信しています。
 ところが、このところ悟堂の造語説が定説となっていますので、気になって調べたのが前記事です。そして、この記事によって造語説は、くつがえせたと思います。そして今回は物的証拠を発見しましたので、ご紹介です。
 野鳥の原点ともバイブルと言える初版『野鳥と共に』(巣林書房・1935)は、内容が豊富で感動を与えてくれます。それだけに、つっこみどころもあって読んでいて飽きません。この本は、「放し飼い編」と「山野編」にわかれています。放し飼い編、最後の項に「栗鼠を育てる」があります。「そうだそうだ、リチコと名付けたのだ」と中学生時代に読んだ内容を思い出しながら再読しました。
 ふと、本が並んだ上にリスのいる写真が目にとまりました。四六版1ページに載っているため14cm×10.5cmの大きめの扱いです。うれいを帯びたリスの顔が可愛い写真です。並んでいる本は8冊、このうち「トルストイ愛の書簡」「中世欧州文学史」「○○渓谷」などのタイトルが読めます。光線の具合で残りのタイトルは不明瞭でよく読めません。ただ、右から5冊目のタイトルは「生活」という字がかろうじて読めます。ひょっとすると野鳥の命名のヒントになった竹野家立の『野鳥の生活』ではないかと胸が躍りました。
 さっそく、蔵書の『野鳥の生活』を取り出し背文字を比較してみました。
 その前に、リスと本が写った明瞭な写真が他にないか探してみました。『野鳥と共に-普及版』日新書院・1940)があり、ほぼ同じ位置に同じサイズ(14cm×10.5cm)で掲載されていました。写真印刷の程度は戦争間近のためか、初版よりよくありませんでした。
 『定本野鳥記 第1巻』のグラビアにもありましたが、こちらは扱いは小さく5.5cm×4.0cm、名刺サイズより小さいです。ところが、写真製版の技術のため、小さな写真のほうがモワレがあるのものの画像のコントラストを上げることが可能なことがわかりました。タイトルは5文字、”野鳥”の字もなんとなく読めます。
 同じアングルで蔵書を撮ってみました。2枚を並べてアップします。左、リスの写っている写真は一部分をトリミングしての引用です。写真全体の明るさ、彩度の調整はしていますが、タイトル文字部分を強調するような加工はしていません。右が拙蔵書で、当時の本を並べています。いずれの写真も見づらい場合、クリックして大きくしてご覧いただければと思います。
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 戦後に悟堂が、ヒントになったという『野の鳥・・・』、下村兼史の『野の鳥の生活』であれば、タイトルのすぐ下に著者名があるため、映り込みます。私の蔵書の右から2冊目です。この『・・・生活』は、下村の本とは思えません。
 蔵書の写真と比較してみると、タイトルロゴは同じ。タイトルの字の間も同じ。天地から野にいたる長さも同じに見えます。ひとつ不思議だったのは、タイトルは布に金箔が押してあるのです。とても、きれいで派手。そのため、カラー写真で撮るとよく目立つタイトルでした。ところが元の写真と合わせるために、モノクロやセピアに加工すると、タイトルが目立たなくなってしました。掲載したのは、ギリギリタイトルが読めるところまでの加工です。
 ですので、モノクロの写真では読みづらくてよいことがわかり、リスの前足の下にある本は『野鳥の生活』の可能性がかぎりなく高いと思いました。
 ついで、この写真がいつ撮られたものかの検証です。悟堂は5W1Hが曖昧のため、全部を読まないとわかりません。時系列を整理してみます。
・リスは、奥多摩の日原川あたりの山地で捕獲された。
・巣ごと届けられたのは、7月初旬である。
・巣には3匹の子リスが入っていた。生後1ヶ月と推定。歯がまだ生えていなかった。そのため、牛乳で育てる。
・7月20日頃には、歯も生えてきて、活動も活発になる。
・8月8日に1匹死んでしまう。
・9月になると、日本クルミを自分で割るようになる。
・9月下旬、1匹が脱走。5日で帰る。
・この他、リスの成長ぶりが続きます。
・文末に(昭和8年11月下旬稿)と書かれています。1933年です。
 ということは、リスを育てたのは昭和8年の夏から秋。本棚の撮影はリスが来た7月以降となりますが、リスがそこそこ大きくなっているので9月頃ではないかと推測できます。いずれにしても、悟堂が野鳥という言葉を発想した1934年の前年になります。また『野鳥の生活』の発行は昭和8(1933)年7月15日と奥付にあり、8、9月頃の撮影ならば間に合います。
 なお、野鳥という言葉を発想したときは、ぐるっと椅子をまわして後ろにあった書棚に、ちょうど目と水平の高さに鳥の本があったことになっています。この写真を見る限り、鳥の本は『野鳥の生活』のみです。思案したのは半年後なのでその間、本の位置が変わったのでしょう。
 この写真のとおりならば、『野鳥の生活』は野鳥という言葉を発想する前の年に書棚に並んでいたことになります。そして、リスとともに『野鳥の生活』のタイトルは目にしていたはずで、野鳥という言葉は悟堂の身近なところにあったことになります。本書の内容は鳥好きにとってはとても興味深いものですから、悟堂が一読していないわけはないと思います。そうなると、2ヶ月間苦労したという伝説も怪しくなってきます。
 悟堂は、膨大な著作を残しています。また、かなりの割合がリメイクされています。それだけに矛盾もあれば、長い歴史のなかで悟堂自身の変化を探索することができます。
[敬称は、略させていただきました。]

2022年2月16日 (水)

Birder誌連投稿-ご案内

 Birder誌の今年2月号、3月号と続けて投稿いたしましたので、ご案内です。
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 2月号は究極の売れネタ、エナガ特集です。3月号は、身近な公園などで見ることができるシジュウカラ、メジロ、コゲラ特集となります。
 私は、2月号でエナガのさえずりについて書きました。エナガはさえずりをするのか?またするのならば、どのような鳴き声なのかがテーマです。こうしてエナガのさえずりについて書いていますと、このところ懸案であるさえずりとはなにか、どのように定義をしたらよいのかの課題にまで広がり、まとめるのに苦労しました。
 3月号は、コゲラのドラミングを中心に解説しました。小さな鳥が木を叩く音なのですが、意外と遠くまで届くのは驚きます。それだけに、聞く機会も多いと思います。かさねて身近な公園で聞くことが、アカゲラ、アオゲラ、ついでオオアカゲラのドラミングで識別できるかという課題です。
 いずれにも、お読みいただきお楽しみください。
 いつも編集部からは2ページ、1500〜2000字でお願いしますと課題をいただきます。1500字でさまったことはなく、ときに2000字を超えてしまいます。毎回、編集部では調整に苦労されていることと思い恐縮に思います。
 今回思ったのは、エナガのさえずりについてのみ書いても2000字でもたりませんでした。地鳴きについて、書いたらもっとたりません。コゲラもドラミングだけで2000字です。この他のコゲラはいくつかの鳴き声も持っていますので、語り尽くせなかったもどかしさがあります。
 それを鳥類図鑑では、わずか2、3行で書かれています。鳴き声が冷遇されているとしか思えません。その結果、初心者が鳴き声が難しいという理由がわかります。
 こうした長文の解説を書く機会を与えてくれたBirder誌には感謝いたします。

2022年2月10日 (木)

野鳥という言葉は中西悟堂が考えたのか-その3

 まとめる前に「野鳥」という言葉と、日本野鳥の会の歴史について私見を述べておきたいと思います。
 野鳥という言葉は、科学的な専門用語でも法律用語でもありませんので、定義されていません。そのため時代とともに、あるいは場面によって意味が違って使われることがあります。たとえば『蟲・鳥と生活する』(アルス・1932)で悟堂が思わず使ってしまった野鳥は、カナリアなどの洋鳥に対して日本の飼い鳥という意味だったと思います。言い換えれば、飼い鳥の愛好家が使う和鳥に近い意味での使用です。昭和の初期、野鳥はまだ籠のなかに入っていたのです。
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 それが、野生の鳥の意味が強くなり、自然のなかを飛び回る鳥の意味になってきます。これは、ひとえに悟堂をリーダーとした日本野鳥の会の会員の活動によるものだと思い、中でも悟堂の功績は大きなものがあると思っています。とくに戦中、戦後の動乱期にも活動を続けた情熱とその努力の結果、今の日本野鳥の会があるわけです。個人的なことを言わせていただければ、今の私があると思っています。
 そして戦中戦後、日本野鳥の会の会員は、1,000人程度で推移します。その中には、各地に名物とも言える野鳥の専門家がいて、支部として探鳥会を開催したり、鳥の話題を地元新聞に書いたりして野鳥の魅力と大切さの広報に寄与します。そのなかには、悟堂の弟子を標榜する人もいました。悟堂の影響を受けた人が少なからずいたことでしょう。
 私が、日本野鳥の会に入会した1965年には、野鳥は自然の生き物であり、野鳥が食べる昆虫や木の実、巣を作る環境を含めて自然を守らなくてはならない、守るべきだという認識がすでありました。1970年代に入って干潟の埋め立てや森林の伐採などが各地で起きると、地元の日本野鳥の会会員が中心となって”○○を守る会”などの名称の自然保護団体ができました。こうした活動が起こったのも、野鳥という言葉に自然という壮大な概念が含まれるからだと思います。
 また、1970年に日本野鳥の会は悟堂の同人的な任意団体から財団法人として社会に責任ある団体となり事務所を構え、職員を雇います。自然保護運動家に給料を払った最初の組織かもしれません。こうした活動ができたのも悟堂が野鳥という言葉を、会名、雑誌名に使い、活動を続けた効果であったことは否めません。
 しかし、なぜ悟堂が野鳥という言葉を発想した経緯が変化していたのでしょう。それには、悟堂をめぐる問題が関係しているとしたら・・・。
 戦後、間もない頃、悟堂を中心にゴタゴタがあったことはあまり知られていません。若い人たちが研究部を作り活動をはじめたことが、面白くなったことが発端だと思われます。さらに、お膝元の東京に支部がなかったため、東京支部結成も動きもありました。こうした変革に悟堂は難色をしめしました。また、活動が活発になるに従い会員に一般人である有象無象が入ってくることを懸念したようです。会員を増やして、より活動を拡げたい若い会員と会の品位を重んじるために現状維持で良いとした悟堂との意見の相違があったことになります。
 第一次悟堂騒動となります。当時の関係者が多くを語ってくれませんでしたので、詳しい経緯はよくわかりません。また、当時の会員は全国2,000人程度、東京支部500人規模のなかの数10人でのこと、いわばコップのなかの戦争であったことになります。
 ついで1970年財団法人になり事務所を構えたとき、悟堂と事務局員と新たな確執が生じます。第二次悟堂騒動です。
 これについては『野鳥開眼―真実の鞭野鳥開眼』(永田書房・1993)に、悟堂側の言い分が書かれています。今回、一読しました。悟堂と市田体制の事務局との戦いを悟堂側から書かれています。
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 こうした騒動のなかで、野鳥という言葉を造語したというエピソードが変化していることに気が付きました。
 戦前は、問題がなかったために野鳥そのもののタイトル『野鳥の生活』(大畑書店・1933)がヒントです。
 戦後間もない頃は、『野の鳥の生活』(金星堂・1931)から、ちょっと直して造語したことになります。
 1970年代になって、独創となります。この頃、事務局との対立が表面化し、悟堂にとって権威が必要になったからと見るのは、うがちすぎでしょうか。
 正直、虚偽の伝説作りをしたとは考えたくないのですが『野鳥開眼―真実の鞭野鳥開眼』に書かれた事務局への心情を読むと、あったのかもしれないと思ってしまいます。雑誌と会の名前に野鳥という言葉を使ったことは、日本野鳥の会会長の正当性を象徴する強力な伝説となります。会員はもとより、弟子や事務局員にはないカリスマ性を高めることができます。さらに、その野鳥を造語したことになれば、信じる人の支持がより強固なものになるでしょう。
 悟堂は、1981年実質的に日本野鳥の会から退き名誉会長になります。そして、1984年(昭和59年)89歳にて、お亡くなりになります。しかし、悟堂亡き後も野鳥の造語伝説は生きています。
 悟堂の行った日本野鳥の会運動は、多いに評価します。私も影響を受けて、素晴らしい人生にすることができた1人ですので感謝に堪えません。ただ、悟堂の活動やパフォーマンスのなかには、怪しいものや増幅されたものがあります。それを承知で付き合っていた人もいれば、信じていた人もいます。あるいは、利用した人もいたかもしれません。
 悟堂を客観的に見て評価することで、野鳥という言葉の持つ力についても理解できると思います。(おわり)
[敬称は、略させていただきました。]

 

注:悟堂の著作は、およそ70点を超えています。いくつかは、リメイクされ書き直されています。そのすべてをチェックしたわけではありませんので、これ以外の記述がある可能性もあります。ここで紹介した以外のエピソードがあった場合、記事を加筆、訂正するつもりです。

2022年2月 9日 (水)

野鳥という言葉は中西悟堂が考えたのか-その2

 今回、見つけたのはなんと悟堂本人が書いた『蟲・鳥と生活する』(アルス・1932)の本文です。
 344ページのZの項で、小島銀三郎のカスミ網猟の話から「野鳥をそのままペットにしたいと思う人が人があるなら(中略)、そういう人達は試みに霞網をやってみるとよい」の一文です。当時のことですから、内容はともかく野鳥という言葉が使われています。
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 『蟲・鳥と生活する』は、悟堂が苦労をして野鳥という名前を造語したとされた2年前の発行ですから、執筆自体は3年前かもしれません。いずれにしても、野鳥が違和感なく突然使われています。
 ここで使われた野鳥という言葉は、カナリヤなどの洋鳥に対して日本の鳥のオオルリやウグイスを示す意味で使われています。代々飼われ飼育しやすい洋鳥に対して、野性味のある野鳥の飼育は難しいということでの使用です。
 普通、本を発行する場合、執筆、推敲、編集者のチェック、チェックの直し、初校、再校と少なくとも5回は、自分の原稿に目を通すことになります。悟堂は文章にこだわりがあったはずですから、推敲は何度もしていると思います。また、当時は活版、鉛でできた活字を組むため棒ゲラと言ってレイアウトされていない状態でのチェックもあったはずです。そのため、校正の回数は今以上に多かったと思います。この野鳥が出てくる一節は、何度も読んでいるはずです。悟堂の頭のなかに野鳥という言葉が、3年前にすでにあったことになります。
 それが、柳田になぜ2ヶ月間も苦労をして考えた自分の「独創」と答えのでしょう。ただ、この野鳥という言葉を思いついたエピソードは微妙に変化しています。
 たとえば、『定本野鳥記 第5巻』(永田書房・1964)の「竹友藻風氏と『鶺鴒』」の項で、発足当時をふりかえっています。それによると「(前略)2ヶ月を経過してもまだきまらず、この夜も同じ考えを繰り返していたのである。(中略)うしろには書棚があって、ちょうど目と水平の棚が鳥の書物であったが、そこにふと翻読書(ママ)の背文字に『野鳥の・・・』云々という題のあるのを見ると、私の目はぴたりとそのに張り付いた。『これだ!』と私の気持ちに閃くものがあった」「今まで、なぜこの言葉に気がつかなかったのだろうと私は思った。(中略)こうして『野鳥』ということばに決まった」とあります。ここでは悟堂は「野鳥」ということばを自分で作ったとはいっていません。 
 私は『定本野鳥記』を読んでいたので、長い間このエピソードを信じていました。ですから、造語したという説が流布していることは不思議に思っていました。
 ちなみに、当時出版された本のなかの翻訳本で『野鳥の・・・』のタイトルの本を見つけることはできませんでした。前記事で紹介した竹野家立の『野鳥の生活』の可能性が高いと思います[注]。
 この一文は、1964年の『定本野鳥記 第5巻』に収録されていますが、文末に「昭和19(1944)年1月」とあり、初出は戦前となります。
 戦後の記述を探すと、『野鳥』誌の「25周年記念特集号」(1960)「日本野鳥の会25年史 第1回」にありました。これには「2ヶ月間も考え抜いたある日、ふとテーブルに向かって腰かけていた回転椅子をぐるりと廻して、背後の書棚を見ると『野の鳥の何々』いいった本の背表紙が目について、『やっこれだ』と思った。そして、『野の鳥』の『の』をはぶいてきめたのが『野鳥』(中略)その頃、私がいろいろな日本の本などから捜し廻った範囲の限りでは『野鳥』という熟語はなかったし、世間の慣用例もきかなかった。」と書かれています。
 ちなみに、昭和9(1934)年当時まで『野の鳥の何々』と言うタイトルで出版されていた本は、下村兼史の『野の鳥の生活』(金星堂・1931)しか見つけられませんでした。
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 その後、「野の鳥」は仁部富之助のタイトルに多用されますが、1936年以降となります。ですので、ここでは下村の本のタイトルがヒントになったと思われます。
 なぜか、2ヶ月間悩んだこと、背後の書棚のタイトルを見たことは同じですが「野鳥・・・」から「野の鳥・・・」に変わっています。何か意図があるのでしょうか。
 つづいて、前記事で紹介した『愛鳥自伝』(平凡社・1993)に書かれているように悟堂は柳田の問いに自分の「独創」であると答えています。『愛鳥自伝』の発行は1990年代ですが、雑誌『アニマ』に1973~1977年にわたっての連載をまとめたものです。このエピソードは最後のほうですので、書かれたのは1977年頃ということになります。
 戦前は『野鳥の生活』、戦後は『野の鳥の生活』、戦後は独創と変遷していることがわかりました。ストレートな借用から、改変しての使用、そして造語したに変わったことになります。(つづく)
[敬称は、略させていただきました。]

注:悟堂が『野鳥の・・・』のタイトルの本を見つけたこと、当時このタイトルの本は竹野家立の『野鳥の生活』しかなかったことは、木村成生さんもブログで指摘しています。

2022年2月 8日 (火)

野鳥という言葉は中西悟堂が考えたのか-その1

 今回、「誰が中西悟堂に野鳥を教えてたか1~5」を書くために調べていたら、ひとつ気になることがありました。
 それは、悟堂が「野鳥」という言葉を造語したということがかなり広く流布され、事実となっていることです。たとえば、ウィキペディア(Wikipedia)の「中西悟堂」の項には「『野の鳥は野に』を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。」また「野鳥」の項では「"Wild Bird"に対応する語として、中西悟堂が『野鳥』の言葉を造語した。」となっています。
 加えて、中西悟堂の伝記である『野の鳥は野に 評伝・中西悟堂』(小林照幸・2007)には「『野鳥』という悟堂発案の言葉」となっています。執筆にあたっては何度もうかがって取材したとされる長女の小谷ハルノの名前があがっていますので、遺族としても認めていることになるのでしょう。
 中西悟堂協会のウェブサイトでも「業績」の項に『「野鳥」や「探鳥」は中西悟堂の造語であり、悟堂が日本に広めた言葉です。』と書かれています。協会として公式的な見解とみてよいでしょう。

 https://nakanishigodo.wixsite.com/home/about

 造語というのは「新たに語(単語)を造ることや、既存の語を組み合わせて新たな意味の語を造ること」とあります。厳密にいえば、造語されたという言葉が使われる以前には、なかった言葉といえるでしょう。
 結論としては、野鳥という言葉は悟堂の造語ではありませんし、悟堂以前に使われている言葉です。それも、悟堂の身近にあった言葉だったといったら、信じてもらえるでしょうか。
 もちろん、野鳥が悟堂の造語でないことに気が付いた方がすでにいます。古書店楽古堂店主の木村成生さんです。彼のブログに詳しく書かれています。
 タイトルは「『野鳥』ということばをめぐって―柳田国男と野鳥―」です。下記URLをまずご覧ください。

 https://blog.goo.ne.jp/takanosu1736/e/07576dac6109513e7a825b3c46608100
 
 木村さんによると、悟堂の師匠ともいえる柳田国男の著書には「野鳥」が何度も登場しているとのことです。
 まず、名著『遠野物語』の序文に「細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鷄かと思ひしが溝の草に隠れて見えざれば乃ち野鳥なることを知れり。」があります。『遠野物語』の発行は、明治43年(1910年)であり、悟堂が野鳥を造語したという1934年から24年前となります。
 同じ柳田の『明治大正史世相篇』の第4章に「つまり人間の技能の加はつた特別のものを愛したので、此点は寧ろ野鳥を疎外した大建築物などの芸術と似て居る」として、鳥を飼うことと野外の鳥に興味や理解を持つこととはつながらないという。つぎの「8 野獣交渉」にも「野鳥」の文字が現れます。『明治大正史世相篇』は、1930~1931年に発行されており、3年前となります。
 さらに柳田の『野草雑記・野鳥雑記』(甲鳥書店・1941)に収録されている「村の鳥」には「椋鳥とか雲雀とかいふ地面を恋しがる鳥は、もう段々退去したが、松のある為に枝移りをして、意外な野鳥までがめいめいの庭へ入つて来る」とあります。「村の鳥」は、昭和9(1934)年1月が初出で、悟堂が野鳥を考えた数ヶ月前に公表されていたことになります。
 柳田と悟堂の関係は、師弟関係にあったのですが、悟堂は師匠の名著の『遠野物語』はもちろん「村の鳥」を読んでいなかったのでしょうか。
 さらに、木村さんは「悟堂は『愛鳥自伝』によると鳥の雑誌を出すにあたりその誌名を2ヶ月苦しんで考えた末に「野鳥」と決めて、柳田邸を訪ねて披露する。それに対して柳田は「よい名前をつけられたねえ。どこから引いたの?」と聞き返し、悟堂は自分の「独創」であるとこたえると、柳田は「よかったよ。これでいよいよ発足だね」とこの名を高く買ったという。」と言われたと書いています。自分が書いたのを忘れた柳田も柳田ですが、この会話から2人の関係がよくわかります。また、悟堂は「自分の『独創』であるとこたえる」が、多くの造語したの根拠になっているものと思います。
 悟堂を弁護すれば、本1冊のなかの一つの単語ですから見落としたとも言えます。
 しかし、次に紹介するのは本のタイトルです。それも鳥仲間の本の題に使われていたのですから、弁解は難しいと思います。
 それは、竹野家立著の『野鳥の生活』(大畑書店・1933)の存在です。
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 発行は、日本野鳥の会創立の前年となります。著者の竹野家立は『野鳥』誌の創刊から3号まで連載された「野鳥の会座談会」における12人の出席者のひとりです。『野鳥』1巻2号の「執筆諸家の横顔」によると、新宿御苑内動物園で鳥類研究をし、野鳥巣引きを20年、成功したもの30余種、この座談会当時は東京朝日新聞社員という肩書きです。
 木村さんの話に追加をすれば、野鳥という言葉は『野鳥の生活』の2ページの序に2回、本文にも散見しています。竹野は野鳥を飼育し、いかに長く飼い繁殖させるか研究しています。飼育に生かそうと野外での観察もしています。その記録とも言える『野鳥の生活』は、難解な文章ですが読み応えのある内容です。さらに、竹野と悟堂との関係を示すものとして、竹野の日本野鳥の会発足2年後に出版した『野鳥随想』(橡書房・1936)があります。この本の写真に悟堂が撮影したコノハズクの幼鳥の写真が3点、ウグイスとトラツグミの巣の写真が各1点収録されています。写真の貸し借りがあった関係であったわけですから、前著を寄贈した可能性もあります。執筆には1、2年はかかると思いますので、日本野鳥の会の発足当時に書かれたものと考えられ、悟堂との交流があったことは間違いないことになります。
 木村さんは、この他『日本国語大辞典』(小学館・1972~1976)に引用されている室町時代の『日葡辞書』(1603~1604成立)、間清利著『御鷹場』(埼玉新聞社・1981)に引用されている元禄2年(1689)の徳川綱吉による「生類憐れみの令」のなかに野鳥があるのを見つけています。
 これでも、木村さんの調査の一部にすぎません。古書店主だけに、お調べになるポイントがするどい上によい勉強になりました。
今回、改めてネット検索してみたら、同じように悟堂以前に使われた「野鳥」という言葉を見つけた方がいました。なるほど、このような事例まで探したら、もっとありそうです。

 http://seichouudoku.blogspot.com/2015/02/blog-post_18.html

 論文もあります。日本野鳥の会の会員で立教大学名誉教授、知人でもある川崎晶子さんの論文です。

 https://icc.rikkyo.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2015/12/bulletin_2014_03.pdf

 小鳥、野鳥、探鳥、愛鳥の4つの言葉が、時代によって使われた頻度と意味の変化についての考証した内容です。朝日新聞における初出は、1900 年(明治 33 年)の記事で『「年々各地より東京市内に売り込み来る野鳥類」として、農商務省の調査結果を報じている。』とあります。これ以降も、1900年代3件、1910年代1件、1920年代2件、1930年代は18件、野鳥という言葉が朝日新聞に載っているとのこと。1930年代は、日本野鳥の会が発足した年代で、件数が増えているのは話題になったことがうかがえます。加えて、国語辞書の初出は昭和3(1928)年の『改修言泉』(大倉書店・1928 )に野鳥の項目があるとのことです。
 私も調べてみました。日本の古代から江戸末期までの文献から引用した例証を分野別に編纂した日本史研究の基礎資料とされている『古事類苑』(神宮司庁・1896~1914)です。「動物の部」のみですが、すべて目を通したつもりです。
 『本朝食鑑 五 水禽』の「鴫」の項に「野鳥也」がありました。『本朝食鑑』は、元禄10年(1697年)発行で、江戸時代となります。膨大な『古事類苑』のなかから、1例見つけましたが、これ以外にもあるかもしれません。
 いずれにしても野鳥という言葉は、一般的ではなかったとは言え、江戸時代以前の日本語としては存在してはいたことは間違いありません。(つづく)
[敬称は一部略させていただきました。]

 

2022年2月 6日 (日)

『朝の小鳥』スタジオ収録-3月は日光の渓流の鳥

 本日は、文化放送の『朝の小鳥』のスタジオ収録でした。
 3月、野鳥の鳴き声がもっとも素晴らしいのは渓流沿いです。
 渓流のそばは流れの音がにぎやかですが近くで鳥の声が録れれば、かなりノイズは軽減できます。
 最初の頃は「ゴーッ」という大きなノイズのなかで、かすかに小鳥の鳴き声が聞こえるような録音しか録れませんでした。渓流の音のなかに聞こえる大好きな鳥の鳴き声を頭が増幅して聞いたいたのです。しかし、録音機は正直に環境の音もすべて録音してくれていたことになります。耳で聞こえる音と録音している音が違うことを知ったのは、渓流での録音です。
 また、メモリに録音するICレコーダーの登場によって、鳥を驚かさないで録音できるようになったこともあります。木に寄りかかり録音機をミソサザイに向けていたら、どんどん近づいて来てくれたことがあります。私自身が動かないでいると、同じようなシーンは何度も経験できました。以前ならば、マイクやヘッドホンのコードがブラブラして、警戒させていたことになります。
 そんな苦労と楽しみのある渓流の鳥たちの鳴き声をお楽しみいただければと思います。

 2022年3月 放送予定
     6日 ミソサザイ
     13日 キバシリ
    20日 コガラ
    27日 キクイタダキ

2022年2月 5日 (土)

トラツグミのつぶやき-六義園

 昨日のタイマー録音に、遠いトラツグミの鳴き声らしい音が入っていました。
 タイマーのスイッチが入った午前5時過ぎのことです。遠くに、わずか一声が聞こえました。
 そのため、昨夜は一晩録音することにしました。おそらく巡回して鳴くだろうから近くで鳴くこともあるかもしれないと思っての長時間録音。昨日の午後10時30分から今日の午前7時30分までの9時間です。DR-05のバッテリーの持ちから、まだ余裕はありました。
 さて、長い録音ですから、声紋表示させ音のあるところだけを聞いてのチェックです。ときどき、遠くでトラツグミらしい鳴き声が入っていました。それも、1、2声です。
 DR-05で録音。ボリュームの増幅、1,500Hz以下の低音の軽減、ノイズリダクションをかけています。

 時刻は、午前3時頃です。2声目と3声目の間は、5分23秒の間があります。あとの間隔は、ほぼそのままです。
 まず、トラツグミの鳴き声で間違いないと思いますが、いかがでしょう。
 トラツグミが本格的にさえずり始めるのは、3月の記録が多いですね。そのため、この季節の鳴き声の意味が不明です。さえずりの練習、練習歌としてサブソングなのでしょうか。それとも雌、あるいは幼鳥の鳴き声、さらに他の意味があるのでしょうか。
 トラツグミの一声鳴き、あるいはつぶやきが存在することは間違いないと思いますが、その意味と効果は課題です。

2022年2月 4日 (金)

シジュウカラ初さえずり-六義園

 日光の録音仲間からは、コガラやキバシリがさえずりはじめたと報告を受けています。
 それならば東京も2月に入りましたので、いろいろな鳥が鳴きはじめるのではないかと思い六義園に向けてタイマー録音を試みました。
 本日は、遠いもののシジュウカラのさえずりが録音されていました。今年はじめてのさえずりです。
 過去の記録を見ると早いと1月5日(1987年)、遅いと2月13日(1985年)、だいたい1月初旬にはさえずり始めています。今年は、今までタイマー録音、散歩も含めてシジュウカラのさえずりを聞くことがなく、今年は遅い傾向にあると感じています。
 DR-05で録音。かなりボリュームを増幅しています。3,000Hz以下の低音をカット、ノイズリダクションをかけています。

 遠くて音が小さいため、かなり増幅して加工しています。音質が劣化していることをあらかじめご了承いただければと思います。
 時間は、午前6時33分。今日の東京の日の出は6時38分ですから、ほぼ日の出と同時に鳴きはじめていたことになります。
 ヒヨドリの鳴き声がかぶって聞きづらいものの、もう1羽がさらに遠くで鳴いているのがわかると思います。今日から、六義園のシジュウカラは繁殖の戦闘態勢に入ったと言えるでしょう。

2022年2月 2日 (水)

日光山久保の鳥屋場

  今回、悟堂のことを調べていると、付随していろいろ興味深い話に出会いました。
 その一つが、日光の鳥屋場です。
 『鳥蟲歳時記』(高山書院・1941)には、鳥屋場巡りをした話が収録されています。日本野鳥の会の会長になって2年目です。実質、収録されている原稿は、それ以前に書かれたものも多く、まだ野の鳥は野になどのコンセプトが固まっていない頃です。そのため、霞網猟を絶賛し、鳥を飼うことについてはなんのてらいもなく書かれています。
 この本には、日光の鳥屋場について
「日光の方では今市の鳥屋場へ行った。地名は日光町大字山窪。今市町の蔦屋に泊まって、明くる朝5時というに自動車を駆つて一里の道を揺られ、柏木から小径を歩いて登った。このあたり山腹の楓、櫨(ハゼ)、ヌルデの紅葉が松と交錯し、行川ふちは竜胆に綴られて、まさに錦綾の秋だったが、鳥屋場に着いてから同行の津田青楓氏の描いた水絵も亦、錦綾の絢爛さがあった。」
 と書いています。
 悟堂の話には5W1Hが明確でないものが多く、これも年号や日付がわかりません。また、誰の案内でどのようないきさつで日光に行ったかも不明です。ただ前後から推測するに、昭和数年の秋であることと、日光の山窪の鳥屋場に行ったことは間違いないでしょう。
 山窪は、現在は山久保と書きます。日光と今市の間、山に入ったところにあります。今市から1里、ほぼ4kmは合っています。
 初めて、日光の自然仲間のA部さんに山久保に連れて行ってもらったときは初夏のことでした。遠くでホトトギスが鳴きハチクマが鳴きながら飛び、近くの農家からニワトリが鳴き声が聞こえるという山里の風景と音が広がっていました。日本の原風景のような里山が、山久保です。写真は、初夏の青空が広がる山久保です。

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 その後も、録音仲間のTさんとは何度も通い、キビタキやヒガラ、サシバの鳴き声を録音するなど野鳥録音を楽しむことができた場所です。
 日光というと戦場ヶ原や霧降高原など、標高の高い環境に目がいきがちです。しかし、こうした隠れ里のような里山が日光にもあるし、野鳥も楽しめます。
 ところで,『鳥蟲歳時記』に書かれているように、山久保の鳥屋場が描かれた挿絵が収録されていました。また、解説がいっさいなのですが、表紙の絵も鳥屋場の風景を描いたもので、同じタッチですので、同じく津田青楓の手によるもので間違いないと思います。
 2枚の絵から山久保の鳥屋場のようすがわかります。
 挿絵の鳥屋場。4人の人、囮を入れた鳥籠らしいものが見えます。また、捕らえられた鳥が並んでいます。右の奥に描かれた山の稜線は、男体山に見えます。

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 『鳥蟲歳時記』の表紙です。表から裏にかけて、カスミ網が3重に張られているようすが描かれています。左タイトルが重なっている山の稜線は、男体山に似ています。

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 描いた津田青楓(1880~1978)について悟堂は語っていないので、補足しておきます。明治生まれ、戦後まで活躍した洋画家です。夏目漱石と仲がよかったようです。プロレタリア画家として弾圧を受けています。鳥屋場行きは、その傷をいやすためだったのでしょうか。青楓が、野鳥好きだったかどうかは不明ですが、悟堂と鳥屋場に同行していることから興味はあったようです。また、少なくとも1970年代の野鳥誌に原稿を寄せていて、悟堂と日本野鳥の会との交流は戦後も続いていました。
 気になったのは、この鳥屋場が山久保のどこにあったのかです。山久保は、けっこう広く、かつては5村あったと言われています。私は、挿絵や表紙絵のように日光連山が見えるところには行ったことがありませんでした。鳥屋場の多くは、山の上のほうにあるので、山登りをしなかったため、そうした風景を見そこなっていました。
 今や日光在住となったTさんにこの話をしたら、文献を調べてくれ「北側の尾根に鳥屋場があったようだ」との地図も送ってくれました。かつて文献に載っていた日光の鳥屋場、季節にめぐってみると渡り鳥との思わぬ出会いがあるかもしれません。
[敬称は略させていただきました。]

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