日光山久保の鳥屋場
今回、悟堂のことを調べていると、付随していろいろ興味深い話に出会いました。
その一つが、日光の鳥屋場です。
『鳥蟲歳時記』(高山書院・1941)には、鳥屋場巡りをした話が収録されています。日本野鳥の会の会長になって2年目です。実質、収録されている原稿は、それ以前に書かれたものも多く、まだ野の鳥は野になどのコンセプトが固まっていない頃です。そのため、霞網猟を絶賛し、鳥を飼うことについてはなんのてらいもなく書かれています。
この本には、日光の鳥屋場について
「日光の方では今市の鳥屋場へ行った。地名は日光町大字山窪。今市町の蔦屋に泊まって、明くる朝5時というに自動車を駆つて一里の道を揺られ、柏木から小径を歩いて登った。このあたり山腹の楓、櫨(ハゼ)、ヌルデの紅葉が松と交錯し、行川ふちは竜胆に綴られて、まさに錦綾の秋だったが、鳥屋場に着いてから同行の津田青楓氏の描いた水絵も亦、錦綾の絢爛さがあった。」
と書いています。
悟堂の話には5W1Hが明確でないものが多く、これも年号や日付がわかりません。また、誰の案内でどのようないきさつで日光に行ったかも不明です。ただ前後から推測するに、昭和数年の秋であることと、日光の山窪の鳥屋場に行ったことは間違いないでしょう。
山窪は、現在は山久保と書きます。日光と今市の間、山に入ったところにあります。今市から1里、ほぼ4kmは合っています。
初めて、日光の自然仲間のA部さんに山久保に連れて行ってもらったときは初夏のことでした。遠くでホトトギスが鳴きハチクマが鳴きながら飛び、近くの農家からニワトリが鳴き声が聞こえるという山里の風景と音が広がっていました。日本の原風景のような里山が、山久保です。写真は、初夏の青空が広がる山久保です。
その後も、録音仲間のTさんとは何度も通い、キビタキやヒガラ、サシバの鳴き声を録音するなど野鳥録音を楽しむことができた場所です。
日光というと戦場ヶ原や霧降高原など、標高の高い環境に目がいきがちです。しかし、こうした隠れ里のような里山が日光にもあるし、野鳥も楽しめます。
ところで,『鳥蟲歳時記』に書かれているように、山久保の鳥屋場が描かれた挿絵が収録されていました。また、解説がいっさいなのですが、表紙の絵も鳥屋場の風景を描いたもので、同じタッチですので、同じく津田青楓の手によるもので間違いないと思います。
2枚の絵から山久保の鳥屋場のようすがわかります。
挿絵の鳥屋場。4人の人、囮を入れた鳥籠らしいものが見えます。また、捕らえられた鳥が並んでいます。右の奥に描かれた山の稜線は、男体山に見えます。
『鳥蟲歳時記』の表紙です。表から裏にかけて、カスミ網が3重に張られているようすが描かれています。左タイトルが重なっている山の稜線は、男体山に似ています。
描いた津田青楓(1880~1978)について悟堂は語っていないので、補足しておきます。明治生まれ、戦後まで活躍した洋画家です。夏目漱石と仲がよかったようです。プロレタリア画家として弾圧を受けています。鳥屋場行きは、その傷をいやすためだったのでしょうか。青楓が、野鳥好きだったかどうかは不明ですが、悟堂と鳥屋場に同行していることから興味はあったようです。また、少なくとも1970年代の野鳥誌に原稿を寄せていて、悟堂と日本野鳥の会との交流は戦後も続いていました。
気になったのは、この鳥屋場が山久保のどこにあったのかです。山久保は、けっこう広く、かつては5村あったと言われています。私は、挿絵や表紙絵のように日光連山が見えるところには行ったことがありませんでした。鳥屋場の多くは、山の上のほうにあるので、山登りをしなかったため、そうした風景を見そこなっていました。
今や日光在住となったTさんにこの話をしたら、文献を調べてくれ「北側の尾根に鳥屋場があったようだ」との地図も送ってくれました。かつて文献に載っていた日光の鳥屋場、季節にめぐってみると渡り鳥との思わぬ出会いがあるかもしれません。
[敬称は略させていただきました。]
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