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2022年2月10日 (木)

野鳥という言葉は中西悟堂が考えたのか-その3

 まとめる前に「野鳥」という言葉と、日本野鳥の会の歴史について私見を述べておきたいと思います。
 野鳥という言葉は、科学的な専門用語でも法律用語でもありませんので、定義されていません。そのため時代とともに、あるいは場面によって意味が違って使われることがあります。たとえば『蟲・鳥と生活する』(アルス・1932)で悟堂が思わず使ってしまった野鳥は、カナリアなどの洋鳥に対して日本の飼い鳥という意味だったと思います。言い換えれば、飼い鳥の愛好家が使う和鳥に近い意味での使用です。昭和の初期、野鳥はまだ籠のなかに入っていたのです。
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 それが、野生の鳥の意味が強くなり、自然のなかを飛び回る鳥の意味になってきます。これは、ひとえに悟堂をリーダーとした日本野鳥の会の会員の活動によるものだと思い、中でも悟堂の功績は大きなものがあると思っています。とくに戦中、戦後の動乱期にも活動を続けた情熱とその努力の結果、今の日本野鳥の会があるわけです。個人的なことを言わせていただければ、今の私があると思っています。
 そして戦中戦後、日本野鳥の会の会員は、1,000人程度で推移します。その中には、各地に名物とも言える野鳥の専門家がいて、支部として探鳥会を開催したり、鳥の話題を地元新聞に書いたりして野鳥の魅力と大切さの広報に寄与します。そのなかには、悟堂の弟子を標榜する人もいました。悟堂の影響を受けた人が少なからずいたことでしょう。
 私が、日本野鳥の会に入会した1965年には、野鳥は自然の生き物であり、野鳥が食べる昆虫や木の実、巣を作る環境を含めて自然を守らなくてはならない、守るべきだという認識がすでありました。1970年代に入って干潟の埋め立てや森林の伐採などが各地で起きると、地元の日本野鳥の会会員が中心となって”○○を守る会”などの名称の自然保護団体ができました。こうした活動が起こったのも、野鳥という言葉に自然という壮大な概念が含まれるからだと思います。
 また、1970年に日本野鳥の会は悟堂の同人的な任意団体から財団法人として社会に責任ある団体となり事務所を構え、職員を雇います。自然保護運動家に給料を払った最初の組織かもしれません。こうした活動ができたのも悟堂が野鳥という言葉を、会名、雑誌名に使い、活動を続けた効果であったことは否めません。
 しかし、なぜ悟堂が野鳥という言葉を発想した経緯が変化していたのでしょう。それには、悟堂をめぐる問題が関係しているとしたら・・・。
 戦後、間もない頃、悟堂を中心にゴタゴタがあったことはあまり知られていません。若い人たちが研究部を作り活動をはじめたことが、面白くなったことが発端だと思われます。さらに、お膝元の東京に支部がなかったため、東京支部結成も動きもありました。こうした変革に悟堂は難色をしめしました。また、活動が活発になるに従い会員に一般人である有象無象が入ってくることを懸念したようです。会員を増やして、より活動を拡げたい若い会員と会の品位を重んじるために現状維持で良いとした悟堂との意見の相違があったことになります。
 第一次悟堂騒動となります。当時の関係者が多くを語ってくれませんでしたので、詳しい経緯はよくわかりません。また、当時の会員は全国2,000人程度、東京支部500人規模のなかの数10人でのこと、いわばコップのなかの戦争であったことになります。
 ついで1970年財団法人になり事務所を構えたとき、悟堂と事務局員と新たな確執が生じます。第二次悟堂騒動です。
 これについては『野鳥開眼―真実の鞭野鳥開眼』(永田書房・1993)に、悟堂側の言い分が書かれています。今回、一読しました。悟堂と市田体制の事務局との戦いを悟堂側から書かれています。
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 こうした騒動のなかで、野鳥という言葉を造語したというエピソードが変化していることに気が付きました。
 戦前は、問題がなかったために野鳥そのもののタイトル『野鳥の生活』(大畑書店・1933)がヒントです。
 戦後間もない頃は、『野の鳥の生活』(金星堂・1931)から、ちょっと直して造語したことになります。
 1970年代になって、独創となります。この頃、事務局との対立が表面化し、悟堂にとって権威が必要になったからと見るのは、うがちすぎでしょうか。
 正直、虚偽の伝説作りをしたとは考えたくないのですが『野鳥開眼―真実の鞭野鳥開眼』に書かれた事務局への心情を読むと、あったのかもしれないと思ってしまいます。雑誌と会の名前に野鳥という言葉を使ったことは、日本野鳥の会会長の正当性を象徴する強力な伝説となります。会員はもとより、弟子や事務局員にはないカリスマ性を高めることができます。さらに、その野鳥を造語したことになれば、信じる人の支持がより強固なものになるでしょう。
 悟堂は、1981年実質的に日本野鳥の会から退き名誉会長になります。そして、1984年(昭和59年)89歳にて、お亡くなりになります。しかし、悟堂亡き後も野鳥の造語伝説は生きています。
 悟堂の行った日本野鳥の会運動は、多いに評価します。私も影響を受けて、素晴らしい人生にすることができた1人ですので感謝に堪えません。ただ、悟堂の活動やパフォーマンスのなかには、怪しいものや増幅されたものがあります。それを承知で付き合っていた人もいれば、信じていた人もいます。あるいは、利用した人もいたかもしれません。
 悟堂を客観的に見て評価することで、野鳥という言葉の持つ力についても理解できると思います。(おわり)
[敬称は、略させていただきました。]

 

注:悟堂の著作は、およそ70点を超えています。いくつかは、リメイクされ書き直されています。そのすべてをチェックしたわけではありませんので、これ以外の記述がある可能性もあります。ここで紹介した以外のエピソードがあった場合、記事を加筆、訂正するつもりです。

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