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2022年3月 4日 (金)

日本野鳥の会、初めての探鳥会の写真の謎

1934(昭和9)年6月2、3日、日本野鳥の会の創立とともに静岡県須走で探鳥会が行われました。日本野鳥の会としては、初めての探鳥会です[注1]。バードウォッチングの歴史のなかで、最大のエポックかもしれません。
 この探鳥会の集合写真は、大きなインパクトがあります。鳥業界の先達の内田清之助、清棲幸保をはじめ、文壇画壇の有名人がキラ星のごとく並んでいるからです。北原白秋、柳田国男、金田一京助などの名前を知らない人はいないでしょう。もし、この写真が無かったらイメージが伝わらず”初めての探鳥会”の意味が半減したかもしれません。
 それだけ価値の大きな写真ですが、誰がこの集合写真を撮ったのかよくわからないです。
写真は、ネット上にアップされているのを散見しますが、著作権をクリアしているとは思えないものもあります。下記のサイトの写真は、悟堂の長女・小谷ハルノさんの許諾を得ているとのこと。ご覧いただければと思います。
https://hosigarasu.org/about-haikei_history.html
 この写真で不思議なのは、この一枚しか出てこないのです。
 もし、プロのカメラマン、当時ならば写真館の主人が撮ったとしたら複数枚撮影するはずです。そうしたら、違う写真があっても良いはずなのですがありません。私は、2004年6月2,3日に行われた日本野鳥の会70周年記念事業に参加しました。その結果を『日本野鳥の会70周年記念事業 記念碑・記念探鳥会』(日本野鳥の会・2004)の報告書をまとめるお手伝いもしました。この記念事業では、第1回の探鳥会の再現も一つのイベントでした。そのため、このときも他の写真を探してもらいましたが、ありませんでした。
 あと、集合写真を撮り慣れた写真館の主人であれば、重なり合って顔が隠れてしまっている杉村楚人冠を横の空間に移動させていたかもしれません。印象としては、素人ぽい写真だと思いました。
 集合写真が、最初に本に載ったのは『野鳥と共に』(1935・巣林書房)でしょう。これには「第62図 富士山麓探鳥の一行」のタイトルがついています。そして、( )内に「著者撮影」と書かれています。ということは悟堂が撮ったことになります。しかし、本人が写っている不思議があります。
 ということで、本文を読むと「記念撮影をしたいからと、両班に集まって頂く。私がフィルタア(ママ)をかけたり、セルフタイマア(ママ)を取り付けたりしている間に、荒木画伯は16ミリで、一足お先に撮影される。(中略)奥村さんだけは撮影どころではなく、せっせと躑躅園を油絵にして居た」とあります。ということは、取り付けられたセルフタイマーの装置で撮影されたことになります。当時、すでにセルフタイマーがあったことに驚きです。現在でもあるシャッターに取り付けるタイプのものでしょうか。
 これで、素人ぽい写真と悟堂本人が写っている理由がわかりました。
 ところで、悟堂は膨大な記述を残しています。前記事でネタした野鳥という言葉の発想の経緯が変わってしまっているように矛盾や異なった記述に出会い戸惑います。今回の集合写真の撮影者についても同様です。
 雑誌『アニマ』の1979年5月号(No.74)「特集 バード・ウォッチング-鳥の行動をみる-」に、悟堂は「探鳥会とBirdwatching」と題し長文の原稿を寄せています。この投稿にはくだんの集合写真が掲載されています。キャプションには、参加者の名前の最後に「撮影者は平塚らいてう氏の夫君奥村博史氏」と書かれているのです。キャプションの文章は、アニマの編集部が書いたものではなく文体と内容から悟堂自身のものだと思います。
 ちなみに、奥村博史については「若いツバメ」の由来で一度記事にしています。
http://syrinxmm.cocolog-nifty.com/syrinx/2020/09/post-88027d.html
 この記事では、参加をしていながら集合写真に写っていない不思議を書いていますが、彼が撮影したのであれば理解できます。あるいは、本文にあるように油絵を描くのに夢中になって列に並ばなかったのでしょうか。
 なぜ「著者撮影」から、突然「撮影者は平塚らいてう氏の夫君奥村博史氏」になったのでしょう。
 ひとつ考えられるのは、集合写真とはいえ著作権があるためではないでしょうか。写真の著作権は、あくまでも撮影者にあります。アニマへの投稿当時は、1970年に新著作権法となり著作者の死後38年から50年(現在は死後70年)に延びるなど、著作権という考え方が浸透していった時代です。
 ところが、悟堂さんは著作権について認識が極めて希薄な方でした。
 日本で最初の鳥のレコード『野鳥の声1-3』(1954-1955・ビクターレコード)は、星野嘉助さんのオオハクチョウをのぞいてすべて蒲谷鶴彦さんの音源ですが、名前は出てきません。そのため、星野さんに相談したところ、そのまま悟堂さんに伝わり蒲谷さんは絶縁されます。さらに、蒲谷さんの音源は、それ以降の”日本野鳥の会・収録”として、レコード、フォノシートなどに使用されます。私は、少なくとも7点の使用を確認しています。いずれも蒲谷さんにギャラは支払われていませんし、録音者としての名前も記載されていません。悟堂さんにしてみれば、弟子のものは自由に使って良いくらいの感覚だったと思われます。
 アニマの平凡社はコンプライアンスのしっかりした会社でしたので、著作権についても厳密に対応していた印象があります。そのため、本人が写っているのに著者撮影の疑問から、撮影当時の状況を悟堂から聞き出し、キャプションの変更になった可能性があります。
 今や確認のしようがありませんが、有名な集合写真をめぐっても、悟堂さんは謎を作ってくれたことになります。

注1:この「初めての探鳥会」は、正しくは”日本野鳥の会として”ということになります。それまでも、同じようなイベントは須走はもとより各地で行われて、鳥類視察旅行などの名称が使われています。集団で鳥を見ることを探鳥会と名付けたのは、このイベントが初めてと言うことになります。なお『野鳥と共に』(1935・巣林書房)では、「富士鳥巣見学会」というサブ・タイトルで報告されていて、まだ探鳥会という名称を使うのをためらっている印象があります。

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