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2022年12月12日 (月)

「野の鳥は野に」は、誰が考えたのか-その3

 ここまで書いたのが、今年の夏のことだったと思います。
 その間、当時在職していた職員などに、経緯に記憶がないか機会のあるごとにたずねましたが、確証をえることができませんでした。
 しかし、「野鳥」誌の編集をしていた園部浩一郎さんも「野の鳥は野に」の出典には以前から気になり、調べていたことがわかりました。
 彼からは「野鳥」誌で柴田敏隆さんが使っていた。さらに悟堂の葬式のおりに読まれた弔辞のなかにあったという、当時深く日本野鳥の会に関わっていた園部さんならではの情報をいただきました。
 園部さんは、さらにこの件については気にしていただき、引き続き調べてくれて「野鳥」粗の1954年9・10月号(No.167)の巻頭言に「野の鳥は野に」のフレーズがあるのを見つけました。当時の「野鳥」誌は、隔月発行、発行部数が少ない上に薄いため破棄されたものが多かったと思います。私もこの当時のバックナンバーを持っていますが、欠号が多いです。それをていねいに目を通して見つけたのは、園部さんの執念です。
 ところで、この巻頭言は悟堂が書いたものではありません。古賀正さんが書いています。当時の「野鳥」誌では巻頭言のある号とない号がありますが、ほかの巻頭言は悟堂、山階芳麿、内田清之助が書いており、これら3巨頭と並んでいたことになります。
 この巻頭言では、創立20年、戦後10年で会員も1000人になった。野鳥を楽しむだけの会ではなくもっと活動すべきだという趣旨です。引用すると「人人(ママ)の集まりであるからそれぞれ主義があり、めいめいの考え方も違ってくるであろうが、本会をつらぬく基本のものは、あくまでも『野の鳥は野に』あるべきことにつきると思う」と「野の鳥は野に」が出てきます。文章を読む限り、普通の言葉と同じように使われていて、悟堂の言葉とか、日本野鳥の会のスローガンなどといった紹介ではありません。ただ、『』で囲み強調しています。古賀さんとしては、この言葉に思い入れがあったことがうかがえます。
 どうも、この時期に多少のゴタつきがあったようです。会員を増やしもっと広めようとする若い人たちと会員が増えて有象無象が入ってくるのを面白くない思う人たちです。後者が悟堂派となります。なお、この号では悟堂は名誉会長になっています。このような、背景のなか古賀さんの巻頭言を改めて読むと「野の鳥は野に」の主張のもと、ひとつになろうとも受けとれます。
 古賀さんは、当時の日本野鳥の会の中央委員という肩書きです。立派な肩書きですが、事務局員がいない組織でしたので、「野鳥」誌の編集から印刷、発送までやっていたと推測します。この号の奥付には発行人としても名前が挙がっています。
 会員も1000人程度。戦後の荒廃のなか、趣味の組織の運営を行うのは、たいへんな苦労があったことと思います。こうした方がいてこそ、今の日本野鳥の会という組織が存続できたのであって、感謝にたえません。しかし、古賀さんのお名前は、あまり残っていません。
 この号に書かれている古賀さんの本職の肩書きは、水道機工株式会社取締役となっており、この会社は現在もあります。サイトを見ると大きな会社であることがわかります。また、「古賀正 日本野鳥の会」で検索すると、日本野鳥の会東京のシンポジウム報告が出てきました。そのなかに「清水徹男さん(元日本野鳥の会東京支部副支部長)よると、『・・・野鳥の会会員の東京市水道局職員古賀正氏が昭和10~12年、高尾山薬王院の水道工事のために高尾山をたびたび訪れたところ、この地に野鳥が多いことに気付き、これを中西悟堂先生に紹介した。中西先生もかねてから高尾山は優れた野鳥の繁殖地とは気付いていたが、古賀氏に指摘されるまではさほど重視されていなかった」と書かれていました、
 古賀さんによって高尾山が野鳥の楽園であることを発見されたことが、書かれていました。また、この発見が、今の高尾山がバードウォッチングの栄華につながったことになります。また、日本野鳥の会創立当時から悟堂とは、交流があったことがわかります。さらに。古賀さんは戦前から水道事業に関わっていことがわかり、野鳥以外では水道畑を歩んできた方のようです。
 私は、残念ながら古賀さんとは会っていません。おそらく「野鳥」誌を印刷していた三洋印刷工芸の社長さんから聞いた話だったと思いますが、社長の仲人は古賀さんだったそうです。また、日光に別荘があり、たずねたことがあるとのことでした。私の日光通いが始まった頃ですので、その関係で日光、古賀さんの別荘、仲人という話の流れだったのではと思います。
 私と同年代で、子ども時代も日光にいた知人にたずねましたが、近所に古賀姓の別荘があった記憶はなく、今のところどこにあったか確認がとれていません。
 しかし、園部さんのお陰で1954年まで遡ることができました。おそらく、これが初出の可能性が高いです。悟堂によって『野の鳥は野に』が、世の中に出てきたのではない可能性が高くなりました。
 これまで悟堂の筆のなかに「野の鳥は野に」のフレーズを見つけることはできませんでした。古賀さんの初出以降も悟堂によって使われることはなく、悟堂自身このフレーズを気にいっていたかどうか気になります。少なくとも日本野鳥の会中央委員の古賀さんが書かれているので、たとえば「日本野鳥の会が『野の鳥を野に』の考え方を元に・・・」とか「日本野鳥の会によって提唱された」は、間違いではないことになります。
 しかし、日本野鳥の会の理念の 「1934年の発足当初から、創設者中西悟堂が唱えた『野の鳥は野に』という」や中西悟堂協会の「中西悟堂が『野の鳥は野に』を理念に昭和9年(1934年)に『日本野鳥の会』を創設し・・・」のように、創立当時、あるいは戦前から提唱、それも悟堂により発案されたような表現は、いかがなものかと思います。結果、悟堂の虚像を作ることになり、悟堂を客観的に評価することが難しくならないか懸念いたします。
 改めて、園部浩一郎さんにはお礼申しあげます。(おわり)

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