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2023年1月10日 (火)

黒田長久さんのことーその4

 私は。日本野鳥の会に1987~1993年、在職しました。
 最初の頃の会長は山下静一さんで、私が知っている限り、事務所には1回しか来ていません。また、以下に述べる日本野鳥の会の会合に来たことはないと思います。
 長久さんは、1990年に日本野鳥の会の会長に就任しています。
 日本野鳥の会は、財団法人になる以前は全国大会が最高議決機関でした、全国から会員が集まり、会計報告と予算を承認してもらうもので、実施的には中西悟堂さんを囲む会でもありました。
 財団化以降は、定款により理事を選ぶ評議員会があり、選ばれた理事による理事会が最高議決機関となります。これでは全国の支部が集まる機会がないということで、支部長会議と称して集まったこともありました。しかし、定款にない会合であり議決権もなく、もめたとのこと。私が職員になる以前の話です。私の時代は、これをおぎなうために拡大評議員会と称し全国の支部の幹部があつまり、1泊のスケジュールで会議が催されました。職員ふくめて、100人ほどの集会となりました。現在では、日本野鳥の会全国総会と言っています。
 当時は、渋谷区青山に事務所がありましたから拡大評議員会は、こどもの城の宿泊施設を利用して、会合からパーティまで行っていました。
 長久さんの会長お披露目も、この会場で行われました。私は、就任の時をおぼえています。今まで、元会長の山下さんはこのような会合にたことはありませんでしたので、会長が来ると言うことで緊張していたと思います。
 私は裏方で、会長の世話役でもありました。長久さんとしては、顔を知っているのは市田さんや塚本さんと言った役員がいましたが、ものを頼める顔見知りは私くらいだったでしょう。
 長久さんに会長挨拶の開始時間を確認したところ「黒板か白板を用意してください」とのこと。会長挨拶の時間は、会合のスケジュールのなかで5分しかありません。できたら、3分ですませてくれるとありがたいというぐらいタイトなスケジュールでした。
 「会長が白板を用意しろと言っているぞ」と進行を担当している総務に伝えると、目が点。とにかく白板を用意して、会議のスタート。なんと、長久さんは白板を使って20分を超える話をしました。私が覚えている内容は、愛についてです。学者ですから、てっきり生態学の重要性のような話かと思ったら、自然や鳥への愛を語ったには驚きました。その後の著作(注)でも、愛について語っていますので不思議でもありませんが、当時はびっくりしました。おかげで、パーティの開始は30分ほど遅れ、担当者をひやひやさせました。
 今思えば、日本野鳥の会の会長に就任し全国の支部長クラスの人たちを前に、これだけは伝えたいと張り切っての講演になったのだと思います、
 写真は、このあとのパーティだと思います。私とのツーショットです。
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 パーティの席上で、長久さんのふるまいを見ていると、話かけて来た方には、ていねいに対応していました。それも、うれしそうに話をされているようすで、話しをするのは好きという印象です。けして、先代の長禮さんのように寡黙なことはありませんでした。こうした様子を見ていると、最初にお会いしたときの第一印象は、やはり私のほうに非があったのかと思ってしまいます。
 また、日本野鳥の会の女性職員にもていねいでした。ジェントルマンがレディに対する対応です。女性の仕事はお茶くみ、コピー取りが当たり前の時代です。当時、野鳥の保護キャンペーンを行い先進的な企業として評価の高かったS社の担当者でさえ「女性社員は25才で結婚して辞めてくれないと困る」と明言していましたし、女性職員を説明にいかせたら激怒して市田専務があやまりにいってやっと納めたから注意するようにというのが、私への申し送り事項でした。S社ばかりではなく、多くの企業が同じ体質でした。そうした時代に女性にていねいに接する長久さんは、新鮮に見えたのです。
 残念ながら私は、次の年に退職いたしますので日本野鳥の会での長久さんとの出会いは他に記憶がありません。その後、10年間あまり日本野鳥の会は混乱の時代となり、その渦中。会長を務めます。
 私は、猛烈に忙しくなったのと日本野鳥の会の混乱に巻き込まれるを避けていました。忙しくなったのは1995年に発行された蒲谷鶴彦さんの『野鳥大鑑』の制作に関わったからです。そのため、蒲谷さんのところに週1回くらい通っていたこともあります。
 当時、蒲谷さんは日本野鳥の会の評議員でしたので、断片的に混乱を伝えてくれました。覚えているのは、「黒田さんが、『和を以て貴し』と言っておさめようとしようとしたけれど、そんなことでは収まるような状態ではない」と言っていたのを覚えています。
 長久さんとしては、愛や和という言葉にこだわっていた時代でしたが、蒲谷さんのいうとおりおさまりませんでした。
 この頃のエピソードをひとつ。かすかな記憶です。誰のお葬式か覚えていません。お寺がとても由緒ある古刹で,龍の天井絵が迫力のあり、それが自慢のようでした、本堂での儀式ですから、靴を脱いであがります。長久さんの先に上がるわけにいかず、あとに私が続いていきました、その時、長久さんの靴下の踵に大きめの穴があいているに気が付きました。
 奥様を亡くし、身の回りの世話をする人がいないのだなあと思ったものです。また、穴のあいた靴下とはいえ、身の回りのことはご自身でおやりになっているだとも思いました。
 誰のどこでの葬式かもおぼえていませんが、長久さんの靴下の穴だけは覚えているエピソードです。(つづく)
 
注:「随想 人の心と社会-愛は人生の太陽」(財団法人黒田奨学会・1994)

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