黒田長久さんのことーその1
山階芳麿さんや中西悟堂さんについては、自伝はもとより伝記が複数出版されています。しかし、黒田長久さんは鳥類学、なかでも鳥類生態学については、開祖といっても良いと思います。しかし、記録が少ないのが残念です。
私は、長久さん(注:1)とは学生時代(1971年頃)に初お目見え、連盟時代(1972~1984)は山階鳥類研究所で同じ建物で仕事をし、日本野鳥の会時代(1987~1993)には会長としてお世話になりました。最後は、長久さんの米寿パーティ(2004年)に招待されたときだったと思います。
本来ならば多くの人にインタビューをして、より深く長久さんの人となりについて調べたいところです。ですので、伝記というのはおこがましい限りで長久さんの半生の一部、私が接した範囲であることをあらかじめお断りしておきます。
学生時代、長久さんと初めてお会いした第一印象は、良いものではありませんでした。
当時、私は東邦大学理学部生物学科の学生でした。ちょうど日本野鳥の会が財団法人となり、事務局員を置いて活動を始めたときでした。私は、大学のある千葉県在住の会員とともに埋め立て反対運動に参加。その関係で事務所に出入りするようになり、ボランティアで野鳥誌や署名運動の用紙の発送などを手伝っていました。
そのなかで当時、事務局員だった市田則孝さんより「カワセミを調べてみないか」という課題をもらいました。最初は、カワセミの巣の前にブラインドでも張って生態を調べるのかと思いました。これは野外で野鳥に接することができると思ったら、都内の会員にカワセミをいつまで見たかアンケートを出して、減少のようすを調べるというものでした。野鳥誌や支部報にお願いの記事を書き、集まったアンケートを集計するというもの。当時、もっとも苦手なデスクワークばかりです。
今では、鳥が減ったというデータはいろいろありますが、当時は具体的なものがなく、カワセミを追えば減った様子がわかるのではないかというのが、市田さんの発想の凄いところでした。
なんとかカワセミの退行曲線を表現できて、野鳥誌に発表しました(注2)。この記事の反響は大きくて、朝日新聞の記事になったりテレビに初めて出たりすることができました。
こうして常連のボランティアとして日本野鳥の会に出入りしていたとき「日本鳥類保護連盟で会報の発送のアルバイトを探している。1日1,000円」という情報をもらいました。当時、学生バイト1日1,500円が相場ですから、それより安い、でもタダの日本野鳥の会より良いということで手を上げました。
当時、連盟は高野伸二さんがしきっている印象で、バイトの世話も彼の仕事でした。その高野さんから「黒田長久さんに君のまとめたカワセミの話をしてみたらどうか」と言われました。当時、大学3年生で、そろそろ卒論をどうするかいう時期でしたので、良いアドバイスをもらえればと思い、たぶん二つ返事でOKしたと思います。
ということで、高野さんが手配をしてくれて山階鳥類研究所(注:3)の講堂の片隅で、はじめて長久さんにお会いしたことになります。当時私は天狗になっていた頃ですが、ナマの鳥の博士に会うのは初めてのこと、かなり緊張していたと思います。
長久さんは56才くらい。今思えば、もっと高齢に見えました。ただ年寄りというより風格を感じさせる老人、すくっとした姿勢、端正な顔立ちはさすが貴族だなあと思ったものです、
私は2,30分ほど説明したでしょうか。ひととおり説明し終わると、そのタイミングで長久さんが、
「そういうことがあるかもしれませんね」
と一言。細かいことは覚えていませんが、この一言は、そのままです。そして、この一言以外のコメントはなしでした。今思えば私の説明がまずかったのか。当時の私の風体は、長髪でエドウィンのGパンにTシャツ、あるいはしわくちゃのシャツを着て、冬ならばわさび色のヤッケかな。フーテン族やヒッピーといわれたファッションでしたから嫌われたのかもしれません。
私としては「これからもがんばって、鳥の研究に精をだしてください」くらいのことは、言って欲しかったところです。ですので、若者に対してずいぶん冷たい人だと思ったものです。これが、第一印象で正直、良いものではありませんでした。
しかしその後、たとえば私が干潟の本を出した後は「その後、干潟の研究はいかがですか?」、カラスに取り組めば「カラスは、その後どうなりましたか?」、六義園の報告書を出すと「六義園の鳥は、いかがですか?」と、私が取り組んでいる課題をご存知で、かならず新しい情報をたずねられました。
いちばん驚いたのは、日光に通い始めたら「日光でヤマゲラの記録があるのを知っていますか?。山階に標本が残っているはずです」と、教えてくれたことです。たしか日本野鳥の会の拡大評議員会のあとのパーティだったと思います。
私が日光に関わりがあることを知っているのはまだしも、当時はまだ山階の標本のデータベースはなかったはずです。その標本の存在を知っていて覚えている長久さんは、さすがだと思ったものです。
第一印象とその後の印象が違う人はいますが、これほど-違った人は長久さん以外、思い当たりません。(つづく)
写真は2001年、笹川昭雄さんの『日本の野鳥 羽根図鑑』の出版記念パーティ会場で撮らせてもらいました。
注1:ほんらいならば、黒田先生か長久先生と書くのが私との関係では、正しいと思います。ただ、文章が硬くなりそうなので、気安く”長久さん”と書かせていただきました。
注2:松田道生 1971 減少する東京のカワセミ 野鳥36(6)
注3:当時の山階鳥類研究所は、東京都渋谷区南平台にありました。日本鳥類保護連盟は研究所の1室を借りていました。
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以前、永年会員の記事に投稿させて頂いた元匿名希望その2です。
私が初めて青山フラワービルの本部に行ったのが1984年。
85年〜88年ぐらいは、自転車で行ける距離でもあったので、ちょくちょくお伺いしておりましたので、ひょっとしたらお目にかかったのかもしれません。元銀行員の故Fさん、大井野鳥公園の故Sさん・Uさんにはお世話になりました。
何分当時小中生だったので、本部でお手伝いしたのは封入のお手伝い程度。野鳥誌の封筒は一部分が開いた封筒ではなく、再度開けられる糊付け封筒でした。バードショップは鳥好きになりはじめた小中生にとって、ものすごく楽しい空間でした。おこずかいの中から、なんとか買えるものを1つ1つ買っていました。
当時見えない世界のお話をお伺いできて興味深く拝読させて頂きありがとうございました。
投稿: 佐々木 | 2023年1月16日 (月) 21時28分
佐々木様
青山フラワービルは、私も懐かしいです。おそらく人生でいちばん忙しくいちばん働いた時代はないでしょうか。それだけに、いろいろ問題もありましたが、いずれまた。
また、懐かしい方々をご存知で。ただ、”故”付く人が多くなってくるのは残念です。
いずれにしても日本野鳥の会の活動が、佐々木さんの人生にプラスになったようなので、それだけは救い)です。
投稿: まつ | 2023年1月17日 (火) 18時11分