黒田長久さんのことーその3
日本鳥類保護連盟職員時代の多くは。山階鳥類研究所に事務所がありました、長久さんと同じ職場ですが、お会いしたことは数えるくらいしかありません。
印象深いのは、職員だった13年間で、仕事上のつきあいで葬式にいったのは4回、その1回は高野伸二さんのお母さんで、あとの3回はすべて黒田家だったことです。
長久さんのお父さんの長禮さん、奥さん、そして息子さんです。奥さんの葬式のときだったと思います。息子さんは手を引かれ、いかにも具合悪そうに見えたのは驚きました。心臓が悪かったそうです。長久さんが福岡空港に降り立つと元家臣たちが出迎えると、地元の支部関係者が言っていました。これと黒田家の財力を考えれば、人も金もあったはずですが、介護はご自身で行うことにこだわったことになります。長久さんはこの間。研究所にこられることはほとんどありませんでした。
この間、長久さんは『鳥類生態学』を執筆し、赤坂のご自宅から観察できるハシブトガラスの生態を記録し、多数の論文を発表しています。私は『なぜカラスは東京が好きか』(2006)の執筆のおり、あらゆる資料を探しました。しかし、都会のハシブトガラスの繁殖状況を記録した報告は長久さんの論文しかなく、大いに参考にさせてもらいました。当時、東京のカラスが問題になっていながら誰も調べていたなかったことになります。長久さんの先見の明は、さすがだと思ったものです。
連盟時代、長久さんにお会いした数少ないエピソードです。
私の仕事のひとつに機関誌の「私たちの自然」の編集がありました。いつも発行が遅れがち、原稿が送られてくる郵便が頼りです。そのため、研究所にくる郵便物の仕分けが、いつも間にか私の仕事になっていました。研究所と連盟を合わせるとかなりの量の郵便物が毎日届き、時間がかかります。仕分けは、研究所1階の事務所のカウンターで行い、その間、会計のオジさんたちと雑談したりします。
そんな時、突然事務所のドアが開き、長久さんが顔を出し「横浜国立大学から教授の話がありましたが、断りました」と言って、去って行きました。まだ、午前中ですから「おはよう」とか「実は、こんな話がありましたが・・・」などの前振りもなく唐突です。それも、書いたとおりの言葉でおおむね合っていると思います。あまりにも、奇妙なことなのでよく覚えています。
私にとって、横浜国立大学は当時、自然保護の科学的理論を唱えていた宮脇昭教授のいる大学です。そこを蹴ったのですから、なんともったいないことをされたのかと思いました。
「おはようございます」も言えず、あっと言う間に行ってしまったのですから、会計のオジさんたちもぽかんという状態です。いったい今のなんだったのか、皆で顔を見回せていたと思います。
私がはじめて会ったとき「そういうことがあるかもしれませんね」と一言、こういうのが長久さん流だったのかと思い出しました。(つづく)
長久さんが描かれたカンムリツクシガモの番のイラスト。父の長禮さんの香典返しにいただいたものです。
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