考証

2023年2月 1日 (水)

オオダイサギの鳴き声-芝川第一調節池

 今日は、3月上旬の暖かさ、昼頃から強風という天気予報を信じ、埼玉県川口市にある芝川第一調節池に行って来ました。
 薄めのフリースにダウンコートの装備では、暑いくらいの陽気、強風は帰路についた午後1時30分頃から吹き始めました。おかげで、いろいろ成果のあった芝川でした。
 暖かい天気のせいか、池からはマガモのディスプレイの声がさかんに聞こえてきます。オカヨシガモの姿も見えます。ジョウビタキが飛び交い、名物の猛禽類はオオタカとノスリが飛びました。
 録音機を岸辺に10数分、置いては移動するという録音の方法をとりました。土手の上から録音機の前にいる鳥たちを観察して、後でその声が入っていないか、楽しみな録り方です。

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 鳴いてくれたのはダイサギです。ダイサギのみならず、サギ類はコロニー以外鳴くことは少なく貴重な録音となりました。
 この季節から冬鳥で亜種のオオダイサギと判断しました。先日、六義園ではチュウダイサギが飛来していますので、季節からだけでは判断の難しいところですが。確かに大きいです。
 タスカムDR-05Xで録音、ボリュームの増幅、1,000Hz以下の低音の軽減、ノイズリダクションをかけています。

 2羽が、追いかけ合うケンカの時の声です。
 チュウダイサギとの鳴き声の違いがあるのでしょうか。
 『鳴き声ガイド日本の野鳥』には、三番瀬で9月に録音したチュウダイサギと思われ鳴き声が収録されています。この時も、複数羽がケンカをしていました、餌場を巡っての闘争の時の声だと判断いたしました。

 いかがでしょうか。録音状態が異なるので比較が難しいところです。オオダイサギのほうが、声が長く深みのある濁りがあるように聞こえますが、いかがでしょうか。
 小鳥類では亜種が異なれば、鳴き声に違いがあるものが多くいます。はたしてサギ類では、どうなるのか。わずか2例のサンプルから決定的なことは言えませんが、違いがわかると面白いと思います。 

2023年1月11日 (水)

黒田長久さんのことーその5

 長久さんは多才な方でした。
 鳥の研究者のなかで、高野伸二さんは歌がお上手でした。中村登流さんのエナガのイラストは味があります。ただ楽器が弾ける人は知りません。しかし、長久さんは文章はうまいし、わかりやすいです。また、小林重三に学んだという絵も素晴らしいです。加えて、楽器も弾けます。
 絵については、「その3」にアップした香典返しのカンムリツクシガモの絵を見てもらえるとわかると思います。私は、パノラマ風景のなかに鳥がいる絵が好きです。たとえば、沼の風景のなかにカモたちが、それぞれの好みの環境にいる解説図です、
 連盟時代、私の担当以前に「私たちの自然」の表紙裏の絵を薮内正幸さんにお願いしたことがあります。私がラフを描いて、こちらの意図を伝えるのですが、どうしても近くに大きく鳥を描いて構図にしまりを付けようとしてしまいます。当然、こちらのほうが見栄えは良いのです。それだけ並列に鳥や環境を並べた構図が難しいかおわかりいただけると思います。長久さんは、それを描ききってしまします。なにより、自然のなかでの体験と。それを見る観察眼があって、はじめて表現できることにほかなりません。
 山階鳥類研究所のある我孫子市で秋に行われるジャパンバードフェステバルの会場で販売されるお弁当の包み紙に長久さんの絵が使われています。最初は、お弁当ごときものに先生の絵を使うなってなんと恐れ多いことかと思いましたが、お弁当が美味しいのでゆるしました。毎年、すぐに売り切れてしまいます。

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 音楽については、ご本人がチェロを演奏すると書いています。それを知っていれば、録音させてもらうところでした。
 音痴の私にとって楽器を演奏できるというのは、あこがれですし、人まで歌うなんて考えられません。長久さんは、米寿のパーティでは歌声を披露されました。とても88才とは思えない張りのある声で、皆をうならせたものです。
 米寿のパーティについて、少し述べておきます。
  2004‎年‎11‎月‎21‎日に、長久さんの88才を祝う会が、神田錦町の学士会館で行われました。蒲谷さんはもちろん招待されていましたが、私まで招待され蒲谷さんのお供のつもりで参加しました。
 蒲谷さんはじめ、中坪禮治さん。市田則孝さん、塚本洋三さんといった先輩諸氏、山階鳥類研究所の職員の皆さん、同年代は樋口広芳さん、長谷川博さん、川内博さん、黒田治男さんにお会いできて楽しい会でした。
 もっぱら長久さんが進行も務め、今までの人生の輝きのすべてここで。披露するという感じでした。
 楽器が弾けて歌えるだけではありません。作曲もされます。2007年に蒲谷さんがお亡くなりになり、「天国の蒲谷鶴彦さんと野鳥の声を聞く会」と称しお別れ会を開催いたしました。
 案内状を出したり当日のシナリオを書いたり、お世話になった蒲谷さんへの最後の恩返しができました。もちろん長久さんも招待したのですが、すでに90才を超え体調もあり参加できないとのご返事をいただきました。そのかわりに追悼歌を作曲したので、当日流して欲しいとの希望でした。ということで、手書きの楽譜と歌詞が送られて来ました。
 音楽にうとい私には楽譜が読めません。悲しい曲なのか明るい曲なのか、わかりません。これをどう演奏すればよいか、途方にくれました。そういえば、日光の鳥仲間の阿部さんちにはグランドピアノがある、彼女にたのめばなんとかなるのではということで、お願いいたしました。なお、当日は日光の鳥仲間総出で、受付などを手伝ってくれました。
 著作権は長久さん、演奏の著作周辺権は阿部さんにありますので、引用ということで一部をご紹介いたします、

 軽快な曲だと思いました。歌詞からも蒲谷さんが追いかけた野鳥のさえずり、自然のなかを駆け巡る蒲谷さんのイメージを歌にしたのだと思います。
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 もし、長久さんがご存命ならば。私には「最近、野鳥録音で発見がありましたか?」とおたずねになると思います。私ごときが何をやっているのか知っているくらいですから、多くの研究者の方々の活動もチェックしていたはずです。言われるたびに、私は天の上の方から仏様のように見守られている感じがしました。多くの方も同じでしょう。そうした心の広い研究者は、長久さんくらいしか思い当たりません。
 結局、長久さんの断片的なことしか、書けませんでした。若い人にわかるように、当時の様子も合わせて解説しました。かえって知っている人は冗長になってしまったかもしれません。
 しかし、長久さんの人となりが少しでも伝わればと思います。青春時代はどう考え、どうすごされたのか。戦時中、戦後の動乱期はどうされていたのか。調べたいところです。
 長久さんが、戦後昭和時代の鳥類学を支え、日本の鳥類生態学を確立された功績は大きなものがあります。これからも研究者の指針になると確認します。それだけに、少しでも長久さんのことを知ってもらえれば幸いです。(おわり)

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 写真は、米寿のパーティであいさつをする長久さん。こうして写真を見ると、10年20年前と変わりません。

2023年1月10日 (火)

黒田長久さんのことーその4

 私は。日本野鳥の会に1987~1993年、在職しました。
 最初の頃の会長は山下静一さんで、私が知っている限り、事務所には1回しか来ていません。また、以下に述べる日本野鳥の会の会合に来たことはないと思います。
 長久さんは、1990年に日本野鳥の会の会長に就任しています。
 日本野鳥の会は、財団法人になる以前は全国大会が最高議決機関でした、全国から会員が集まり、会計報告と予算を承認してもらうもので、実施的には中西悟堂さんを囲む会でもありました。
 財団化以降は、定款により理事を選ぶ評議員会があり、選ばれた理事による理事会が最高議決機関となります。これでは全国の支部が集まる機会がないということで、支部長会議と称して集まったこともありました。しかし、定款にない会合であり議決権もなく、もめたとのこと。私が職員になる以前の話です。私の時代は、これをおぎなうために拡大評議員会と称し全国の支部の幹部があつまり、1泊のスケジュールで会議が催されました。職員ふくめて、100人ほどの集会となりました。現在では、日本野鳥の会全国総会と言っています。
 当時は、渋谷区青山に事務所がありましたから拡大評議員会は、こどもの城の宿泊施設を利用して、会合からパーティまで行っていました。
 長久さんの会長お披露目も、この会場で行われました。私は、就任の時をおぼえています。今まで、元会長の山下さんはこのような会合にたことはありませんでしたので、会長が来ると言うことで緊張していたと思います。
 私は裏方で、会長の世話役でもありました。長久さんとしては、顔を知っているのは市田さんや塚本さんと言った役員がいましたが、ものを頼める顔見知りは私くらいだったでしょう。
 長久さんに会長挨拶の開始時間を確認したところ「黒板か白板を用意してください」とのこと。会長挨拶の時間は、会合のスケジュールのなかで5分しかありません。できたら、3分ですませてくれるとありがたいというぐらいタイトなスケジュールでした。
 「会長が白板を用意しろと言っているぞ」と進行を担当している総務に伝えると、目が点。とにかく白板を用意して、会議のスタート。なんと、長久さんは白板を使って20分を超える話をしました。私が覚えている内容は、愛についてです。学者ですから、てっきり生態学の重要性のような話かと思ったら、自然や鳥への愛を語ったには驚きました。その後の著作(注)でも、愛について語っていますので不思議でもありませんが、当時はびっくりしました。おかげで、パーティの開始は30分ほど遅れ、担当者をひやひやさせました。
 今思えば、日本野鳥の会の会長に就任し全国の支部長クラスの人たちを前に、これだけは伝えたいと張り切っての講演になったのだと思います、
 写真は、このあとのパーティだと思います。私とのツーショットです。
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 パーティの席上で、長久さんのふるまいを見ていると、話かけて来た方には、ていねいに対応していました。それも、うれしそうに話をされているようすで、話しをするのは好きという印象です。けして、先代の長禮さんのように寡黙なことはありませんでした。こうした様子を見ていると、最初にお会いしたときの第一印象は、やはり私のほうに非があったのかと思ってしまいます。
 また、日本野鳥の会の女性職員にもていねいでした。ジェントルマンがレディに対する対応です。女性の仕事はお茶くみ、コピー取りが当たり前の時代です。当時、野鳥の保護キャンペーンを行い先進的な企業として評価の高かったS社の担当者でさえ「女性社員は25才で結婚して辞めてくれないと困る」と明言していましたし、女性職員を説明にいかせたら激怒して市田専務があやまりにいってやっと納めたから注意するようにというのが、私への申し送り事項でした。S社ばかりではなく、多くの企業が同じ体質でした。そうした時代に女性にていねいに接する長久さんは、新鮮に見えたのです。
 残念ながら私は、次の年に退職いたしますので日本野鳥の会での長久さんとの出会いは他に記憶がありません。その後、10年間あまり日本野鳥の会は混乱の時代となり、その渦中。会長を務めます。
 私は、猛烈に忙しくなったのと日本野鳥の会の混乱に巻き込まれるを避けていました。忙しくなったのは1995年に発行された蒲谷鶴彦さんの『野鳥大鑑』の制作に関わったからです。そのため、蒲谷さんのところに週1回くらい通っていたこともあります。
 当時、蒲谷さんは日本野鳥の会の評議員でしたので、断片的に混乱を伝えてくれました。覚えているのは、「黒田さんが、『和を以て貴し』と言っておさめようとしようとしたけれど、そんなことでは収まるような状態ではない」と言っていたのを覚えています。
 長久さんとしては、愛や和という言葉にこだわっていた時代でしたが、蒲谷さんのいうとおりおさまりませんでした。
 この頃のエピソードをひとつ。かすかな記憶です。誰のお葬式か覚えていません。お寺がとても由緒ある古刹で,龍の天井絵が迫力のあり、それが自慢のようでした、本堂での儀式ですから、靴を脱いであがります。長久さんの先に上がるわけにいかず、あとに私が続いていきました、その時、長久さんの靴下の踵に大きめの穴があいているに気が付きました。
 奥様を亡くし、身の回りの世話をする人がいないのだなあと思ったものです。また、穴のあいた靴下とはいえ、身の回りのことはご自身でおやりになっているだとも思いました。
 誰のどこでの葬式かもおぼえていませんが、長久さんの靴下の穴だけは覚えているエピソードです。(つづく)
 
注:「随想 人の心と社会-愛は人生の太陽」(財団法人黒田奨学会・1994)

2023年1月 9日 (月)

黒田長久さんのことーその3

 日本鳥類保護連盟職員時代の多くは。山階鳥類研究所に事務所がありました、長久さんと同じ職場ですが、お会いしたことは数えるくらいしかありません。
 印象深いのは、職員だった13年間で、仕事上のつきあいで葬式にいったのは4回、その1回は高野伸二さんのお母さんで、あとの3回はすべて黒田家だったことです。
 長久さんのお父さんの長禮さん、奥さん、そして息子さんです。奥さんの葬式のときだったと思います。息子さんは手を引かれ、いかにも具合悪そうに見えたのは驚きました。心臓が悪かったそうです。長久さんが福岡空港に降り立つと元家臣たちが出迎えると、地元の支部関係者が言っていました。これと黒田家の財力を考えれば、人も金もあったはずですが、介護はご自身で行うことにこだわったことになります。長久さんはこの間。研究所にこられることはほとんどありませんでした。
 この間、長久さんは『鳥類生態学』を執筆し、赤坂のご自宅から観察できるハシブトガラスの生態を記録し、多数の論文を発表しています。私は『なぜカラスは東京が好きか』(2006)の執筆のおり、あらゆる資料を探しました。しかし、都会のハシブトガラスの繁殖状況を記録した報告は長久さんの論文しかなく、大いに参考にさせてもらいました。当時、東京のカラスが問題になっていながら誰も調べていたなかったことになります。長久さんの先見の明は、さすがだと思ったものです。
 連盟時代、長久さんにお会いした数少ないエピソードです。
 私の仕事のひとつに機関誌の「私たちの自然」の編集がありました。いつも発行が遅れがち、原稿が送られてくる郵便が頼りです。そのため、研究所にくる郵便物の仕分けが、いつも間にか私の仕事になっていました。研究所と連盟を合わせるとかなりの量の郵便物が毎日届き、時間がかかります。仕分けは、研究所1階の事務所のカウンターで行い、その間、会計のオジさんたちと雑談したりします。
 そんな時、突然事務所のドアが開き、長久さんが顔を出し「横浜国立大学から教授の話がありましたが、断りました」と言って、去って行きました。まだ、午前中ですから「おはよう」とか「実は、こんな話がありましたが・・・」などの前振りもなく唐突です。それも、書いたとおりの言葉でおおむね合っていると思います。あまりにも、奇妙なことなのでよく覚えています。
 私にとって、横浜国立大学は当時、自然保護の科学的理論を唱えていた宮脇昭教授のいる大学です。そこを蹴ったのですから、なんともったいないことをされたのかと思いました。
 「おはようございます」も言えず、あっと言う間に行ってしまったのですから、会計のオジさんたちもぽかんという状態です。いったい今のなんだったのか、皆で顔を見回せていたと思います。
 私がはじめて会ったとき「そういうことがあるかもしれませんね」と一言、こういうのが長久さん流だったのかと思い出しました。(つづく)P1120357
  長久さんが描かれたカンムリツクシガモの番のイラスト。父の長禮さんの香典返しにいただいたものです。

2023年1月 7日 (土)

黒田長久さんのことーその2

 ここで黒田長久さんの略歴をネット情報などからまとめておきます。
 1916年11月23日に生まれ、 2009年2月26日に93才で亡くなっています。死因は、急性腎不全とあります。長久さんについては、どこが悪いという話を聞いたことはありませんでしたので、急なことだったと思います。
 九州の福岡藩黒田家19代当主になります。関ヶ原の戦いで、徳川側の武将として活躍した黒田長政が先祖。「酒は飲め飲め飲むならば」の黒田武士の黒田です。長久さんも、この歌を歌うことがあり、まさに正調「黒田武士」です
 江戸時代、黒田家の屋敷は江戸の水源のひとつである溜池を埋め立てた地域にありました。現在の地名で言えば、赤坂、溜池、虎ノ門付近にかけてあった広大な敷地の屋敷でした。今ある議員会館も議員宿舎も黒田家の土地だったと聞いています。敷地のなかには鴨場もありました。この他、羽田にも鴨場を所有していました。大森貝塚を発見した「モースの日記(注:1)に黒田家の鴨場に行ったエピソードが書かれていますが、どちらの鴨場でしょうか」と、長久さんに聞いたことがあります。「羽田でしょう」とお答えだったと記録しています。
 父の長禮さんは、日本最初の鳥類研究者の一人で、論文数の多さでは、日本一かもしれません。私は一度、山階さんのパーティでお会いしたことがあります。すでに老境の域に達した感があり枯れ木のような感じで椅子に座っておりました。とても、話かける勇気はありませんでした。
 ちなみに長禮さんの曾お爺さんの黒田斉清(くろだ なりきよ)も博物学に傾倒し、当時来日したシーボルトと会見しています。博物学や生物学に造詣の深い家系で育ったことになります。
 長久さんの学歴は、学習院高等科を経て東京帝国大学理学部動物学科で鎌田武雄教授に学んだとあります。最初の職歴は、外務省で戦況が悪化し徴兵され5年間を近衛師団(天皇を守る役割を持った軍部)で陸軍中尉となります。ここでも、鳥との縁を切ること無く、伝書鳩を扱う鳩班長を務めていました。戦後は、1946年11月、GHQ水産局野生生物課長として日本に赴任した鳥類学者オリバー・ルーサー・オースティン・ジュニアと出会い、1947年から2年半、オースティンのもとで通訳や翻訳を手伝ったようで、いわば日本人秘書の役割をはたしていたようです。
 オースチンとは、日本の鳥類のようすを報告書にまとめています。たいへん入手しづらい資料ですが「GHQが調査をしたら、アホウドリやタンチョウが絶滅していた」という根拠となった報告書となります(注:2)。
 オースチンが昭和23,4年頃に撮影した「赤坂黒田邸から国会議事堂を望む」は、当時平屋のお屋敷の前に並んだ長久さんと奥さん、そして庭の向こうに国会議事堂が写っています。今ではビルに囲まれた黒田家がいかに国会議事堂に近いところにあったのかよくわかる写真です。また、オースチンと長久さんは、プライベートな写真を撮る、録らせる関係であったことになります。
 奥さんは、海軍中将・醍醐忠重侯爵の娘、和子さんです。
 著書は、多数あります。そのなかで大著であるとともに、日本の鳥学の発達に欠くことのできないタイトルとして、次の2冊が挙げられると思います。
 『動物系統分類学10(上)脊椎動物(Ⅲ)鳥』 (1962) 中山書店
 『鳥類生態学』 (1982) 出版科学総合研究所
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 この2冊は、鳥を研究する者にとっては。大きな指針となる内容です。なによりも分類も生態もこの本に書かれていることからスタートできるのですから、基礎の基礎をたどれることになります。
 私は、30代のときに父を亡くし同じ肝炎にかかっていることがわかり検査入院しました。そのとき、皆が働いているのに自分はベッドで寝ている悔しさから、本を読みまくりました。この2冊もそのとき、マーカーを引きながら読みました。これらの本を読んで思ったのは「今までこんなことも知らないで、よく連盟職員が務まったなあ」という反省です。先生と言われたり専門家ヅラしていたことを恥じました。
 ですから、探鳥会でこの本に書かれていることを披露するとリーダーに「へえ」と言う顔もされると困るのです。そのぐらいは、知っていて欲しいことなのです。あるいは、その質問は、この2冊を読めと言いたくなります。さらに、友人知人の書棚にこの2冊が並んでいないのは、不勉強だと思ってしまいます。(つづく)

 

 写真は、いつどこでか不明。私の髪型から日本野鳥の会退職後であることは間違いありません。中央に蒲谷さんが写っている貴重なスリーショットです。

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注1:エドワード・シルヴェスター・モース 1989 日本その日その日1~3   東洋文庫(原著は。1917年にボストンのHoughton Mifflin Harcourt社が出版)

注2:Austin,O.L.、 黒田長久 (1953) The Birds of Japan,Their Status and Distribution Bulletin of Museum of Comparetive Zoology at Harvard Collge Vol.109,No.4 ハーバード大学出版局

 

2023年1月 6日 (金)

黒田長久さんのことーその1

 山階芳麿さんや中西悟堂さんについては、自伝はもとより伝記が複数出版されています。しかし、黒田長久さんは鳥類学、なかでも鳥類生態学については、開祖といっても良いと思います。しかし、記録が少ないのが残念です。
 私は、長久さん(注:1)とは学生時代(1971年頃)に初お目見え、連盟時代(1972~1984)は山階鳥類研究所で同じ建物で仕事をし、日本野鳥の会時代(1987~1993)には会長としてお世話になりました。最後は、長久さんの米寿パーティ(2004年)に招待されたときだったと思います。
 本来ならば多くの人にインタビューをして、より深く長久さんの人となりについて調べたいところです。ですので、伝記というのはおこがましい限りで長久さんの半生の一部、私が接した範囲であることをあらかじめお断りしておきます。
 学生時代、長久さんと初めてお会いした第一印象は、良いものではありませんでした。
 当時、私は東邦大学理学部生物学科の学生でした。ちょうど日本野鳥の会が財団法人となり、事務局員を置いて活動を始めたときでした。私は、大学のある千葉県在住の会員とともに埋め立て反対運動に参加。その関係で事務所に出入りするようになり、ボランティアで野鳥誌や署名運動の用紙の発送などを手伝っていました。
 そのなかで当時、事務局員だった市田則孝さんより「カワセミを調べてみないか」という課題をもらいました。最初は、カワセミの巣の前にブラインドでも張って生態を調べるのかと思いました。これは野外で野鳥に接することができると思ったら、都内の会員にカワセミをいつまで見たかアンケートを出して、減少のようすを調べるというものでした。野鳥誌や支部報にお願いの記事を書き、集まったアンケートを集計するというもの。当時、もっとも苦手なデスクワークばかりです。
 今では、鳥が減ったというデータはいろいろありますが、当時は具体的なものがなく、カワセミを追えば減った様子がわかるのではないかというのが、市田さんの発想の凄いところでした。
 なんとかカワセミの退行曲線を表現できて、野鳥誌に発表しました(注2)。この記事の反響は大きくて、朝日新聞の記事になったりテレビに初めて出たりすることができました。
 こうして常連のボランティアとして日本野鳥の会に出入りしていたとき「日本鳥類保護連盟で会報の発送のアルバイトを探している。1日1,000円」という情報をもらいました。当時、学生バイト1日1,500円が相場ですから、それより安い、でもタダの日本野鳥の会より良いということで手を上げました。
 当時、連盟は高野伸二さんがしきっている印象で、バイトの世話も彼の仕事でした。その高野さんから「黒田長久さんに君のまとめたカワセミの話をしてみたらどうか」と言われました。当時、大学3年生で、そろそろ卒論をどうするかいう時期でしたので、良いアドバイスをもらえればと思い、たぶん二つ返事でOKしたと思います。
 ということで、高野さんが手配をしてくれて山階鳥類研究所(注:3)の講堂の片隅で、はじめて長久さんにお会いしたことになります。当時私は天狗になっていた頃ですが、ナマの鳥の博士に会うのは初めてのこと、かなり緊張していたと思います。
 長久さんは56才くらい。今思えば、もっと高齢に見えました。ただ年寄りというより風格を感じさせる老人、すくっとした姿勢、端正な顔立ちはさすが貴族だなあと思ったものです、
 私は2,30分ほど説明したでしょうか。ひととおり説明し終わると、そのタイミングで長久さんが、
「そういうことがあるかもしれませんね」
 と一言。細かいことは覚えていませんが、この一言は、そのままです。そして、この一言以外のコメントはなしでした。今思えば私の説明がまずかったのか。当時の私の風体は、長髪でエドウィンのGパンにTシャツ、あるいはしわくちゃのシャツを着て、冬ならばわさび色のヤッケかな。フーテン族やヒッピーといわれたファッションでしたから嫌われたのかもしれません。
 私としては「これからもがんばって、鳥の研究に精をだしてください」くらいのことは、言って欲しかったところです。ですので、若者に対してずいぶん冷たい人だと思ったものです。これが、第一印象で正直、良いものではありませんでした。
 しかしその後、たとえば私が干潟の本を出した後は「その後、干潟の研究はいかがですか?」、カラスに取り組めば「カラスは、その後どうなりましたか?」、六義園の報告書を出すと「六義園の鳥は、いかがですか?」と、私が取り組んでいる課題をご存知で、かならず新しい情報をたずねられました。
 いちばん驚いたのは、日光に通い始めたら「日光でヤマゲラの記録があるのを知っていますか?。山階に標本が残っているはずです」と、教えてくれたことです。たしか日本野鳥の会の拡大評議員会のあとのパーティだったと思います。
 私が日光に関わりがあることを知っているのはまだしも、当時はまだ山階の標本のデータベースはなかったはずです。その標本の存在を知っていて覚えている長久さんは、さすがだと思ったものです。
 第一印象とその後の印象が違う人はいますが、これほど-違った人は長久さん以外、思い当たりません。(つづく)

 

 写真は2001年、笹川昭雄さんの『日本の野鳥 羽根図鑑』の出版記念パーティ会場で撮らせてもらいました。
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注1:ほんらいならば、黒田先生か長久先生と書くのが私との関係では、正しいと思います。ただ、文章が硬くなりそうなので、気安く”長久さん”と書かせていただきました。
注2:松田道生 1971 減少する東京のカワセミ 野鳥36(6)
注3:当時の山階鳥類研究所は、東京都渋谷区南平台にありました。日本鳥類保護連盟は研究所の1室を借りていました。

 

 

 

2023年1月 2日 (月)

オオタカ、冬の巣立ち雛の謎

 今日から六義園が開園していますので、新年のあいさつをかねてオオタカを探しに行きました。
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 静かな正月の六義園という感じで、ヒヨドリの声も少なめです。しかし、藤波橋の近くでは、ドバトの羽毛が散乱していてオオタカの食痕の可能性があります。思い出すと、去年の暮れには本郷通り沿いの歩道でもドバトの羽毛が散乱しており、オオタカがさかんに狩りをしているようです。
 鳥仲間のK久保さんから、オオタカの幼鳥が見えたとの連絡がありました。私は、いちばん離れたところにいましたが、まわりではハシブトガラスがモビングコールで鳴いています。こちらに飛んで来たのかもしれません。あるいは、K久保さんのほうは幼鳥で、こちらは親鳥かもしれません。ご本尊にはお目にかかれませんでしたが、オオタカの気配の濃い正月の六義園でした。 
 それにしても、大晦日のオオタカの巣立ち雛らしい声は謎です。
 かりにオオタカの巣立ち雛だとすると、さらに謎が深まります。
 録音できた鳴き声は、雛が親鳥に対して行う食べ物を乞う合図の声です。ハシブトガラスならば「ウンガー」という甘えた声ですし、フクロウならば「キリリー」と聞こえる声です。長い間、同じような場所で鳴き続けていたこと、2羽いたことを考えても、その可能性は高いと思います。
 では、今雛連れのオオタカがいるかという課題です。
 雛が親離れをする期間は、小鳥ではばらつきはあまり無いと思いますが、身体の大きな鳥ほどばらつく傾向があると思っています。たとえば、ハシブトガラスでは数日でいなくなるものがいるかと思えば、2ヶ月間もいっしょに行動して食べ物をねだる鳴き声を出し続ける幼鳥もいます。オオタカもおそらく1ヶ月前後が普通のところだと思います。
 ということは、巣から出て1ヶ月前後の巣立ち雛ということになります。目黒の自然教育園の記録(遠藤拓洋・2020)では、

2019年
4月18日 巣に付く
  20日 抱卵期の確認
5月25日 雛の確認
6月26日 雛の巣外活動
8月1日  最終記録

 繁殖シーズンは、ハシブトガラスやツミの標準的な季節と一致します。多くの鳥がこの期間に子育てをします。スケジュールも身体の大きさの似たハシブトガラスに近いものがあります。
 卵を抱く期間は30日以上、巣からでるのも30日、なわばりから姿を消すのも30日以上。ざっと、巣を作って3ヶ月と10日でいなくなっています。
 そうすると、今幼鳥を親鳥が連れているとして逆算すると9月下旬に巣作りをして、11月下旬に巣立った雛たちということになります。遅めに見積もっての計算で、もし巣立ったばかりであればもう1ヶ月遅くなり10月下旬に卵を産んだことになります。
 一部の例外を除いて、鳥の多くは夏至を過ぎると、繁殖の兆候を見ることが無くなります。ハシブトガラスを見る限り、夏至以降の繁殖は極めて希です。ようするに太陽の角度や日の長さによって刺激を受けてホルモンが分泌され、繁殖衝動が起きるわけで、夏至以降はそれが逆になります。まして9月中旬はすでに彼岸となり、日がどんどん短くなるわけですから、とても繁殖するとは思えないです。
 ただ、クマタカは冬に繁殖します。こうした傾向がオオタカにもあるのか。新年早々興味はつきません。
 あと、どこから来たかも気になります。
 紹介した自然教育園は、もとより都内の大型の緑地では、オオタカの繁殖例が報告されています。六義園の近くでは、毎時神宮や板橋区浮間が思い当たります。オオタカの繁殖は秘匿されているので、これ以外にもあるかもしれません。いずれにしても、

参考文献
遠藤拓洋 2020 自然教育園におけるオオタカの繁殖記録(2019 年 自然教育園報告 第 52 号:25 - 36 国立科学博物館附属自然教育園

2022年12月12日 (月)

「野の鳥は野に」は、誰が考えたのか-その3

 ここまで書いたのが、今年の夏のことだったと思います。
 その間、当時在職していた職員などに、経緯に記憶がないか機会のあるごとにたずねましたが、確証をえることができませんでした。
 しかし、「野鳥」誌の編集をしていた園部浩一郎さんも「野の鳥は野に」の出典には以前から気になり、調べていたことがわかりました。
 彼からは「野鳥」誌で柴田敏隆さんが使っていた。さらに悟堂の葬式のおりに読まれた弔辞のなかにあったという、当時深く日本野鳥の会に関わっていた園部さんならではの情報をいただきました。
 園部さんは、さらにこの件については気にしていただき、引き続き調べてくれて「野鳥」粗の1954年9・10月号(No.167)の巻頭言に「野の鳥は野に」のフレーズがあるのを見つけました。当時の「野鳥」誌は、隔月発行、発行部数が少ない上に薄いため破棄されたものが多かったと思います。私もこの当時のバックナンバーを持っていますが、欠号が多いです。それをていねいに目を通して見つけたのは、園部さんの執念です。
 ところで、この巻頭言は悟堂が書いたものではありません。古賀正さんが書いています。当時の「野鳥」誌では巻頭言のある号とない号がありますが、ほかの巻頭言は悟堂、山階芳麿、内田清之助が書いており、これら3巨頭と並んでいたことになります。
 この巻頭言では、創立20年、戦後10年で会員も1000人になった。野鳥を楽しむだけの会ではなくもっと活動すべきだという趣旨です。引用すると「人人(ママ)の集まりであるからそれぞれ主義があり、めいめいの考え方も違ってくるであろうが、本会をつらぬく基本のものは、あくまでも『野の鳥は野に』あるべきことにつきると思う」と「野の鳥は野に」が出てきます。文章を読む限り、普通の言葉と同じように使われていて、悟堂の言葉とか、日本野鳥の会のスローガンなどといった紹介ではありません。ただ、『』で囲み強調しています。古賀さんとしては、この言葉に思い入れがあったことがうかがえます。
 どうも、この時期に多少のゴタつきがあったようです。会員を増やしもっと広めようとする若い人たちと会員が増えて有象無象が入ってくるのを面白くない思う人たちです。後者が悟堂派となります。なお、この号では悟堂は名誉会長になっています。このような、背景のなか古賀さんの巻頭言を改めて読むと「野の鳥は野に」の主張のもと、ひとつになろうとも受けとれます。
 古賀さんは、当時の日本野鳥の会の中央委員という肩書きです。立派な肩書きですが、事務局員がいない組織でしたので、「野鳥」誌の編集から印刷、発送までやっていたと推測します。この号の奥付には発行人としても名前が挙がっています。
 会員も1000人程度。戦後の荒廃のなか、趣味の組織の運営を行うのは、たいへんな苦労があったことと思います。こうした方がいてこそ、今の日本野鳥の会という組織が存続できたのであって、感謝にたえません。しかし、古賀さんのお名前は、あまり残っていません。
 この号に書かれている古賀さんの本職の肩書きは、水道機工株式会社取締役となっており、この会社は現在もあります。サイトを見ると大きな会社であることがわかります。また、「古賀正 日本野鳥の会」で検索すると、日本野鳥の会東京のシンポジウム報告が出てきました。そのなかに「清水徹男さん(元日本野鳥の会東京支部副支部長)よると、『・・・野鳥の会会員の東京市水道局職員古賀正氏が昭和10~12年、高尾山薬王院の水道工事のために高尾山をたびたび訪れたところ、この地に野鳥が多いことに気付き、これを中西悟堂先生に紹介した。中西先生もかねてから高尾山は優れた野鳥の繁殖地とは気付いていたが、古賀氏に指摘されるまではさほど重視されていなかった」と書かれていました、
 古賀さんによって高尾山が野鳥の楽園であることを発見されたことが、書かれていました。また、この発見が、今の高尾山がバードウォッチングの栄華につながったことになります。また、日本野鳥の会創立当時から悟堂とは、交流があったことがわかります。さらに。古賀さんは戦前から水道事業に関わっていことがわかり、野鳥以外では水道畑を歩んできた方のようです。
 私は、残念ながら古賀さんとは会っていません。おそらく「野鳥」誌を印刷していた三洋印刷工芸の社長さんから聞いた話だったと思いますが、社長の仲人は古賀さんだったそうです。また、日光に別荘があり、たずねたことがあるとのことでした。私の日光通いが始まった頃ですので、その関係で日光、古賀さんの別荘、仲人という話の流れだったのではと思います。
 私と同年代で、子ども時代も日光にいた知人にたずねましたが、近所に古賀姓の別荘があった記憶はなく、今のところどこにあったか確認がとれていません。
 しかし、園部さんのお陰で1954年まで遡ることができました。おそらく、これが初出の可能性が高いです。悟堂によって『野の鳥は野に』が、世の中に出てきたのではない可能性が高くなりました。
 これまで悟堂の筆のなかに「野の鳥は野に」のフレーズを見つけることはできませんでした。古賀さんの初出以降も悟堂によって使われることはなく、悟堂自身このフレーズを気にいっていたかどうか気になります。少なくとも日本野鳥の会中央委員の古賀さんが書かれているので、たとえば「日本野鳥の会が『野の鳥を野に』の考え方を元に・・・」とか「日本野鳥の会によって提唱された」は、間違いではないことになります。
 しかし、日本野鳥の会の理念の 「1934年の発足当初から、創設者中西悟堂が唱えた『野の鳥は野に』という」や中西悟堂協会の「中西悟堂が『野の鳥は野に』を理念に昭和9年(1934年)に『日本野鳥の会』を創設し・・・」のように、創立当時、あるいは戦前から提唱、それも悟堂により発案されたような表現は、いかがなものかと思います。結果、悟堂の虚像を作ることになり、悟堂を客観的に評価することが難しくならないか懸念いたします。
 改めて、園部浩一郎さんにはお礼申しあげます。(おわり)

2022年12月11日 (日)

「野の鳥は野に」は、誰が考えたのか-その2

 つぎにヒットしたのは、”富山のたかはしさん”さんのブログ「鳥男日記」です。2017年3月23日の記事で「新釈:中西悟堂伝」というタイトルがついています。次のURLで、一読をお願いいたします。
 http://seichouudoku.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
「野鳥」という言葉を調べた木村成生さん同様、たかはしさんも「野の鳥は野に」の問題点に気が付き調べています。私が自分で発見したと喜び勇んで調べ始めると、すでに調べられている方がいることは驚きです。手探りで調べなくてはと思っていたものが、おかげで次の段階に行けます。お二人には、感謝の言葉しかありません。
 たかはしさんは、野鳥はもとより歴史などにも造詣が深く、記事はネタの宝庫です。もっと、ブログを更新していただければと思います。
 たかはしさんの記事の主旨は、著作や行動を見るかぎり悟堂は野鳥を飼うのが好きだった。それが、日本野鳥の会の会長になって飼えなくなり「しぶしぶ引き受けた会の活動のせいで大好きな鳥が飼えなくなった中西悟堂。好むと好まざるとに関わらず、周囲が求める「中西悟堂」像を演じ続けることになった中西悟堂。」と的を射た指摘をしています。
 このたかはしさんの記事に私の知るエピソードを加えておきます。
 「野鳥」誌の編集という立場から晩年の悟堂と密なつきあいをしていた柴田敏隆さんは「悟堂さんが野鳥を飼いたいと言って困った。『先生、もうそういう時代ではありません』と言って思いとどまらせるのに苦労した」というを話してくれたことがあります。野鳥を飼いたい気持ちは、晩年もあったことになります。
 たかはしさんは「野の鳥は野に」ついて引用しますと、
 「ちなみにこの号(3巻2号・(昭和11年)までの野鳥誌に、有名な『野の鳥は野に』というフレーズは一切登場しません。『野辺の族は野辺に』との表記が一度あるだけです。よく聞かれる『野の鳥は野にをスローガンに中西悟堂が設立した…』という紹介は明らかに後年の脚色なのです。」
 と結論付けています。
 はたして、本当にそうなのでしょうか。私も野鳥誌の創刊号、『野鳥と共に』など著書、さらに著書の巻末にある日本野鳥の会の広告をチェックしましたが、少なくとも戦前のもののなかには、「野の鳥を野に」の言葉を見つけることができませんでした。
 日本野鳥の会創立後、最初に出版された鳥の本となる内田清之助の『野鳥礼賛』(1935年・巣林書房)の巻末には、日本野鳥の会の会員募集の広告が載っています。おそらく最初の日本野鳥の会の広告となります。本のタイトルに野鳥を使っていることも含めて、内田の日本野鳥の会への力の入れようがわかります。しかし「野の鳥は野に」の言葉はありません。
 戦後にまいります。
 困ったときの野鳥誌200号記念号です。300ページ近くある内容なのですから、ありそうです。
 まず、悟堂の「巻頭言」。「日本野鳥の会25年史」にあると思いましたがなし。巻末にある「日本野鳥の会規約・機構」の規約の目的には「鳥類の知識並びに保護思想の普及を通じて国民の科学精神と情操の涵養を図り、以て文化の向上に資することを目的とする」とあるのみで、くだんの言葉はありませんでした。この他、日本野鳥の会のスローガンの列記といえる囲み記事もありました。たとえば「日本国土の野鳥を減らさぬようにしましょう」など16項目があります。あるとしたら、このコーナーに書かれているはずですが「野の鳥は野に」はもとより、それに匹敵する言葉はありませんでした。
 これ以外の戦後も不完全ながら蔵書の「野鳥」誌、悟堂の著書、おもに『定本野鳥記』をチェックしましたが、見つけられません。この他、『愛鳥自伝』のなかにもありませんでした。以前紹介した雑誌『アニマ』の1979年5月号(No.74)「特集 バード・ウォッチング-鳥の行動をみる-」に悟堂が長文を寄せている「探鳥会とBird watching」にも、ありませんでした。
 『野鳥開眼』(1993・永田書房)に収録されている「野鳥の会の根本精神」にいかにもありそうなので目を通しましたが、ありませんでした。この原稿は、解説の永田龍太郎によると「亡くなる半年前に書いた最後の文章」とのことですが、それらしい記述がないのです。
 ということは、たかはしさんのいうとおり「後年の脚色」なのでしょうか。(つづく)

 

2022年12月10日 (土)

「野の鳥は野に」は、誰が考えたのか-その1

 日本野鳥の会の理念のなかに「日本野鳥の会は、1934年の発足当初から、創設者中西悟堂が唱えた『野の鳥は野に』という自然を本来のままに保護する主張を一貫して掲げてきている。」と書かれています。これは、日本野鳥の会のWebサイトにアップされています。
https://www.wbsj.org/about-us/report/principles-and-activities/principles-and-activities-1 
 この日本野鳥の会の理念は、私が職員だった時代に理念について何も書かれたものがないのはおかしいということから当時の塚本洋三副会長が中心となって、1990年頃に制作されたものです。私は、もっと平易な文章、である調ではなくですます調の方が良い。ときおり使われる難解な単語を使わないほうが良いという意見を言いました。市田専務理事から役員への反抗と取られ、叱られた思い出があります。
 今読み返して見ると30年前に作られたものですが、現在でも十分通用する内容だと思います。塚本副会長の苦労のたまものでしょう。
 しかし当時、私は日本野鳥の会のカレンダーを始め印刷物を制作する仕事が多かったのですが、「野の鳥は野に」のキャッチを使ったことは、ありませんでした。もっぱら私が中心となって日本野鳥の会のキャッチフレーズとして考案した「野鳥も人も地球のなかま」の方が多用しました。今でも、日本野鳥の会のWebサイトのトップにある会長と理事長あいさつの前にこのフレーズがアップされているのは、当時このコピーのために企画書を作った苦労を思い出し、正直うれしい気持ちになります。
 思い出話はこのくらいにして、「野の鳥は野に」の初出を調べてみました。
 ここ10年ほど日本野鳥の会のスローガン、悟堂(以降、敬称を略します)が提唱して「野の鳥は野に」がよく出てくるようになりました。まず、ウィキペディアの「中西悟堂」の項には、野鳥を造語したの前に『「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。』とあります。
中西悟堂協会のサイトには、”野の鳥は野に”のタイトルとともに「(前略)中西悟堂が『野の鳥は野に』を理念に昭和9年(1934年)に『日本野鳥の会』を創設し、戦後も日本の自然保護に力を尽くし、『人類にして鳥類』と評されるほど多くの国民に影響を与えた人物です。」とあります。
 ひとつに、悟堂の伝記『野の鳥は野に―評伝・中西悟堂』(小林照幸・2007)のタイトルの影響があるかもしれません。印象としては、この頃から「野の鳥は野に」をよく聞くようになったと感じています。
 まず、「野の鳥は野に 中西悟堂」などでネット検索してみました。
 ヒットしたなかに、黒田長久さんが日本鳥学会の会誌によせた悟堂への追悼文がありました。長久さんは、悟堂の2代あとの日本野鳥の会の会長を務めました。「紙碑」は1985年2月号に掲載されたものです。学者だけに悟堂を客観的に見ており、同じ業界で同じ世代を過ごした仲間の一文は、他の方たちの追悼文とは異なり、悟堂像の一面を垣間見ることができました。
 このなかに「それは、野の鳥は野にの悟りであった(「野鳥と共に」p.174参照)。「野鳥」という呼び名は、この時彼らに与えられた心の底から生れたものであったろう。」という一節がありました。これが「野の鳥は野に」でヒットしたキーワードとなりました。また、「野鳥」を造語とは書かず「彼らに与えた」言葉であるというセンスは、長久さんならではの言い回しでしょう。
 ただ『野鳥と共に』の174ページには「野の鳥は野に」の言葉はありません。該当ページの主旨は「放し飼いは多くの人に興味を貰っているが、はたして鳥たちのためなっているのであろうか」という疑問から「自身も自然のなかで、鳥と接したい」という思いにいたり『できることなら私の方から山野に出かけて、山野のあいだで鳥と直接親しみ且つ観察したい』と書いています。なお、この一文は175ページになります。
 「野の鳥は野に」にの言葉はなくとも、長久さんのご指摘のとおり主旨は「野の鳥は野に」であり、日本野鳥の会の発会、探鳥会の実施、『野鳥の共に』の執筆という流れの中で、悟堂の頭のなかに「野の鳥は野に」の思想が、萌芽していたことがわかります。しかし、「野の鳥は野に」のフレーズそのものはありませんでした。(つづく)

 

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