考証

2022年3月25日 (金)

日本で最初の鳥のレコード-その2

若気のいたり
 悟堂にしてみれば、蒲谷は小学校5年生の時からめんどうをみた弟子、日本野鳥の会東京支部の援助によって録音した音源だから日本野鳥の会のものという認識だったのでしょうか。また、今でも野鳥の音源には著作権がないと堂々と言う放送関係者がいるくらいですから、当時の悟堂に著作権についてしっかりとした考え方があったとも思えません[注1]。
 そのため蒲谷は、同じく音源を使われている星野温泉社長の先々代の星野嘉助に「レコードは音源が主で、解説は刺身のツマのようなもの」という主旨のことを手紙を出したか、直接言ったそうです。しかし、星野はそのまま悟堂に伝えてしまいました。その結果「文学者である俺の文章を刺身のツマとは何事だ。蒲谷は生意気だ」ということで、絶縁を言い渡されたそうです。今となっては「若気のいたり」と蒲谷は言いますが、当然の主張であります。
 その結果、蒲谷はそれまで日本野鳥の会東京支部の援助によって録音した音源や機材を日本野鳥の会の当時の幹事の一人に渡し、援助していただいた方々には新宿の中村屋で食事会を開き、のちに制作したレコードを差し上げてお礼をしたそうです。そして、日本野鳥の会の蒲谷ではなく個人としての蒲谷鶴彦として活動をしていくことになります。
 ところが悟堂に渡した音源は、その後さまざまなレコードや当時一世を風靡したフォノシート[注2]に転用されている可能性があります。日本の野鳥のレコードリストを見ると、1960年代に発売されたレコードやフォノシートのなかで悟堂の手によるものは「日本野鳥の会収録」となっているものが何種類も発売されています[注3]。

Record2

真下弘さんによると1960年、1963年、1965年の『野鳥の歌』というタイトルが付いているものは形態が違いますが、内容は同じとのこと。レコード会社が同じで、なおかつ収録されている種名が日本最初の鳥のレコード『野鳥の声』と同様のため、蒲谷の音源が使用されています。

『朝の小鳥』に専念
 このころ蒲谷は、ラジオ番組『朝の小鳥』が1959年より放送が毎日となったため毎週、取材旅行をしてはシナリオ執筆し音の編集をして、スタジオでナレーションを収録するという過密スケジュールをこなすことになります。さらに毎年、少なくとも1タイトルのレコードなどを制作するという精力的な活動をしています。そのため当時、悟堂がどのようなレコードやフォノシートを出していたかご存じなく、もう済んだこととあまり気にされていません。
 なお『野鳥の声 第3巻』の解説書には、蒲谷の抗議を聞き入れたためか各巻の音源提供者の名前が列記され「蒲谷鶴彦、蒲谷芳比古」の名前がかろうじて入っています。”かろうじて”というのは、1巻、2巻の音源提供者の名前のなかに3巻のオオハクチョウの音源を提供した星野嘉助、そしてまったく関係のない鈴木孝夫の名前がなぜか入っていて、肝心の蒲谷兄弟の名前は後ろにあるという悟堂の意地を感じる表記だからです[注4]。
 しかしその後、蒲谷によると悟堂のところに結婚のあいさつにいったときは「おめでとう」と率直にお祝いしていただき別段しかられることもなかったとのこと。また後年、文化放送の担当者が悟堂の取材にいった時には、このエピソードに触れ「蒲谷君に悪いことをした」と語っていたそうです。
 黎明期の頃のことといってしまえばそれまでですし、悟堂と蒲谷の間でどのような細かいやりとりがあったのか今となってはわかりません。しかしながら、戦後の野鳥史にひとこまとして、記録と記憶に残しておきたいエピソードです。(2005年1月10日・起稿)

 

[注1]野鳥の音声を録音した場合、著作隣接権が生じると判断しています。著作隣接権は、著作物の創作者ではなくとも著作物の伝達に重要な役割を果たしている実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者に認められた権利です。なお、著作権と同等の権利があるとされています。
[注2]若い人には、フォノシートは説明がいるかもしれません。ソノシートとも言いました。ボール紙のように厚いビニール製のレコードに対して、紙のように薄いビニール製のレコードです。同じように、溝が掘ってあって、レコードと同じプレイヤーで聞きます。薄いために本の表紙の裏に添付することもできました。今で言えばマルチメディアの先駆けでした。ただ、音はあまりよくなく、録音できるカセットテープの登場と普及で衰退してしまいました。
[注3] 私の調べでは、少なくとも下記の7点が該当します。
 日本野鳥の会・収録 1954-5 野鳥の声1-3 ビクターレコード [SPレコード各3枚]
 中西悟堂 1956 野鳥と共に-高原の鳥- 日本ビクター社 [SPレコード1枚]
 中西悟堂 1960 野鳥の歌 日本ビクター社 [LPレコード(25cm)2枚]
 中西悟堂 1963 野鳥の歌 日本ビクター社 [フォノシート4枚]
 中西悟堂 1965 野鳥の歌 日本ビクター社 [LPレコード(30cm)2枚]
 中西悟堂、本田正次 1967 原色県花・県鳥 東雲堂出版 [フォノシート1枚+184p]
 中西悟堂・監修 1976 日本野鳥大全集 日本ビクター社 [LPレコード枚数3枚]
[注4]当初、中古のため解説書が添付されていませんでした。その後、飯塚利一さんよりコピーをいただき、その内容を知ることができました。いずれもB6判、モノクロ、16ページの小冊子です。鳥の解説が中心で、最後のページには山階芳麿や黒田長禮の推薦の辞が見開きにわたって掲載されています。
 なお、第一集のあとがきには「尚、本録音は直接には本会軽井沢支部長星野嘉助君、東京支部幹事蒲谷鶴彦君、並びに蒲谷芳比古君のふだんのご努力を煩わしましたが、そもそも鳥声録音なる事業を実行に至らしめた課程については、東京支部諸氏の盛り上がったご声援を頂き、且つ直接間接のご助力を頂いておりましたし、とくに同支部幹事鈴木孝夫君は、蒲谷君ご兄弟と相提携して録音にも当たっておりましたことを、この際、本会として感謝の意を表するものであります。」
 星野さんと鈴木さんにかなり気を使っているような文章と読み取れますが、録音のほとんどを行った蒲谷兄弟はないがしろにされている感じは否めませんね。
 第2集には、あとがきはあるものの録音者については記述はなく、スタッフの記述もありません。
 第3集は、ブログに書きましたようにあとがきの下に下記のような表記となっています。

 Record1

2022年3月24日 (木)

日本で最初の鳥のレコード-その1

 先日の記事「日本野鳥の会、初めての探鳥会の写真の謎」で、日本で最初のレコードの蒲谷鶴彦さんの音源を悟堂さんが勝手に使ったと書いたところ、もっと詳しく知りたいという希望がメールで寄せられました。
 お断りしておきますが、拙文は悟堂さんを批難するためのものではありません。当時としては著作権の概念はないか極めて希薄な時代であり、考えが及ばないことだったと思います。その後、和解もしており、ことさら取り上げるべきことではないかもしれませんが、歴史の一コマとしてアップするしだいです。
 なお、以下のエピソードは、蒲谷鶴彦さんに話をうかがい原稿に起こしたものです。さらに、蒲谷さんには目を通していただき、訂正すべきところは訂正しています。そのため、アップするにあたり「てにをは」程度の訂正はしていますが、起稿した2005年当時のままです。

レコード『野鳥の声』の謎
 日本で最初に発売された野鳥の声のレコードは、ビクターの『野鳥の声』です。3巻で構成されており、1,2巻が1954年、3巻が1955年に発行されたと『中西悟堂会長業績』(日本野鳥の会事務局編・1978)に書かれています。これ以前に野鳥の鳴き声のレコードは、どのリストを見ても出てきませんので、この第1巻が記念すべき日本最初の野鳥の声のレコードという栄冠に輝きます。
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 このレコードの1巻と3巻を偶然、古本市で見つけたのは『野鳥を読む』(アテネ書房・1994)の執筆の準備をしているときでした。厚紙の表紙のなかに紙の袋があって、各巻3枚、78回転のSPレコードが入っている、いわゆるアルバムの形となっています。表紙には、収録されている鳥たちのイラストがちりばめられ、大時代的というか懐かしい感じのデザインです。持つとずっしりとした重さ、今のCDには望むべきもない重厚な趣があります。その後、中西悟堂が解説を書いた小冊子が挟み込まれていることがわかりました。さらに、紙袋に入ったばら売りのものを見つけましたので、アルバムでない形での販売もされていたようです。
 このレコードを聴いてみると、SPレコード特有の素朴な音で暖かみを感じます。鳥によっては、高音域が歪んでいたり低音域のボリュームが低いところがあるものの50年前に手作りの録音機で録音されたとは思えないクリアでリアルな音に驚かされました。
 このレコードを入手できたおかげで『野鳥を読む』には、日本最初の野鳥の声のレコードとして紹介することができました。しかし、レコードには推薦者の名前が麗々しく並んでいるのに、レコードにとっていちばん大事な音源提供者の名前がないのです。レコードには、単に”日本野鳥の会収録”と表記されているだけで、誰が録音をして編集をしたのかわかりません。そのため『野鳥を読む』の本文では、下記のような表現にとどめました。
「ジャケットには、日本野鳥の会収録となっている。そのころの日本野鳥の会は、中西悟堂の自宅が連絡先で職員もおらず、もちろん鳥の声のライブラリーなどない。前記の業績(日本野鳥の会事務局編・1978)のリストに入っているので中西悟堂が録音したのであろうか。しかし、随筆のなかに鳥の声の録音の苦労話はない。当時から鳥の声の録音を行っていた蒲谷鶴彦氏の音源を使用しているのはないだろうか。」と、いささか歯切れが悪い文章となりました。
 後に、この一文が蒲谷鶴彦先生の目にとまり、当時の経緯をうかがうことができました。日本の野鳥録音の最大のエポックである最初のレコードに収録者の名前がない謎を知りたくて、蒲谷先生にはお手をわずらせるインタビューを行いまとめてみました[以下、敬称略]。

音源は蒲谷兄弟だった
 私が推測したとおり、『野鳥の声』全3巻の音源は1件を除いて蒲谷のものでした。このシリーズの第1集は野鳥のコーラス、ウグイスなど15種類、第2集が16種類、第3集が10種類、合計41種類が収録されています。このうち、第3集のオオハクチョウは先々代の星野嘉助が録音したもので、それ以外の40種類は蒲谷の音源とのこと。とくに、第1集は日本で最初のレコードであり、すべて蒲谷が録音した音源が使われているにかかわらず名前がどこにも表記されていません。日本で最初の鳥の声のレコードの音源の提供を行ったのにも関わらず、その栄誉に浴すことができなかったことになります。それには、日本で初めてのレコードを巡って隠れたエピソードがあったのでした。
 蒲谷の最初の録音は、1951年7月19日の御嶽山のコノハズクです。このときは、弟の芳比古が自作した録音機で電源を神社から借りての録音、今では考えられない苦労のたまものです。そして、軽井沢などで機材をリヤカーに積んでは、別荘から電源を借りて録音していた時代です。これらの機材は今では考えられないお金がかかり、それを日本野鳥の会東京支部の有志の方々が援助をしてくれたからこそできたと、蒲谷は語ります。
 ラジオの文化放送が放送を開始したのは、この翌年の1952年。「収録・構成は蒲谷兄弟でした」と番組の最後のナレーションが印象的だった『朝の小鳥』の放送が開始されたのは開局の翌年の1953年、レコードの発売までおよそ1年。まだ、蒲谷が20歳代の時のことです。
 レコード『野鳥の声』の制作については、日本野鳥の会会長(当時)の中西悟堂によって話は進められたと思われます。もう、このころのことになると蒲谷も覚えていません。しかし、築地にあったビクターのスタジオに赴き、音源の編集をしたことを覚えていらっしゃいます。そして、レコードができあがったということでワクワクして手に取ってみると、ご自身の名前がなかったことに唖然としたそうです。(つづく)

2022年3月 4日 (金)

日本野鳥の会、初めての探鳥会の写真の謎

1934(昭和9)年6月2、3日、日本野鳥の会の創立とともに静岡県須走で探鳥会が行われました。日本野鳥の会としては、初めての探鳥会です[注1]。バードウォッチングの歴史のなかで、最大のエポックかもしれません。
 この探鳥会の集合写真は、大きなインパクトがあります。鳥業界の先達の内田清之助、清棲幸保をはじめ、文壇画壇の有名人がキラ星のごとく並んでいるからです。北原白秋、柳田国男、金田一京助などの名前を知らない人はいないでしょう。もし、この写真が無かったらイメージが伝わらず”初めての探鳥会”の意味が半減したかもしれません。
 それだけ価値の大きな写真ですが、誰がこの集合写真を撮ったのかよくわからないです。
写真は、ネット上にアップされているのを散見しますが、著作権をクリアしているとは思えないものもあります。下記のサイトの写真は、悟堂の長女・小谷ハルノさんの許諾を得ているとのこと。ご覧いただければと思います。
https://hosigarasu.org/about-haikei_history.html
 この写真で不思議なのは、この一枚しか出てこないのです。
 もし、プロのカメラマン、当時ならば写真館の主人が撮ったとしたら複数枚撮影するはずです。そうしたら、違う写真があっても良いはずなのですがありません。私は、2004年6月2,3日に行われた日本野鳥の会70周年記念事業に参加しました。その結果を『日本野鳥の会70周年記念事業 記念碑・記念探鳥会』(日本野鳥の会・2004)の報告書をまとめるお手伝いもしました。この記念事業では、第1回の探鳥会の再現も一つのイベントでした。そのため、このときも他の写真を探してもらいましたが、ありませんでした。
 あと、集合写真を撮り慣れた写真館の主人であれば、重なり合って顔が隠れてしまっている杉村楚人冠を横の空間に移動させていたかもしれません。印象としては、素人ぽい写真だと思いました。
 集合写真が、最初に本に載ったのは『野鳥と共に』(1935・巣林書房)でしょう。これには「第62図 富士山麓探鳥の一行」のタイトルがついています。そして、( )内に「著者撮影」と書かれています。ということは悟堂が撮ったことになります。しかし、本人が写っている不思議があります。
 ということで、本文を読むと「記念撮影をしたいからと、両班に集まって頂く。私がフィルタア(ママ)をかけたり、セルフタイマア(ママ)を取り付けたりしている間に、荒木画伯は16ミリで、一足お先に撮影される。(中略)奥村さんだけは撮影どころではなく、せっせと躑躅園を油絵にして居た」とあります。ということは、取り付けられたセルフタイマーの装置で撮影されたことになります。当時、すでにセルフタイマーがあったことに驚きです。現在でもあるシャッターに取り付けるタイプのものでしょうか。
 これで、素人ぽい写真と悟堂本人が写っている理由がわかりました。
 ところで、悟堂は膨大な記述を残しています。前記事でネタした野鳥という言葉の発想の経緯が変わってしまっているように矛盾や異なった記述に出会い戸惑います。今回の集合写真の撮影者についても同様です。
 雑誌『アニマ』の1979年5月号(No.74)「特集 バード・ウォッチング-鳥の行動をみる-」に、悟堂は「探鳥会とBirdwatching」と題し長文の原稿を寄せています。この投稿にはくだんの集合写真が掲載されています。キャプションには、参加者の名前の最後に「撮影者は平塚らいてう氏の夫君奥村博史氏」と書かれているのです。キャプションの文章は、アニマの編集部が書いたものではなく文体と内容から悟堂自身のものだと思います。
 ちなみに、奥村博史については「若いツバメ」の由来で一度記事にしています。
http://syrinxmm.cocolog-nifty.com/syrinx/2020/09/post-88027d.html
 この記事では、参加をしていながら集合写真に写っていない不思議を書いていますが、彼が撮影したのであれば理解できます。あるいは、本文にあるように油絵を描くのに夢中になって列に並ばなかったのでしょうか。
 なぜ「著者撮影」から、突然「撮影者は平塚らいてう氏の夫君奥村博史氏」になったのでしょう。
 ひとつ考えられるのは、集合写真とはいえ著作権があるためではないでしょうか。写真の著作権は、あくまでも撮影者にあります。アニマへの投稿当時は、1970年に新著作権法となり著作者の死後38年から50年(現在は死後70年)に延びるなど、著作権という考え方が浸透していった時代です。
 ところが、悟堂さんは著作権について認識が極めて希薄な方でした。
 日本で最初の鳥のレコード『野鳥の声1-3』(1954-1955・ビクターレコード)は、星野嘉助さんのオオハクチョウをのぞいてすべて蒲谷鶴彦さんの音源ですが、名前は出てきません。そのため、星野さんに相談したところ、そのまま悟堂さんに伝わり蒲谷さんは絶縁されます。さらに、蒲谷さんの音源は、それ以降の”日本野鳥の会・収録”として、レコード、フォノシートなどに使用されます。私は、少なくとも7点の使用を確認しています。いずれも蒲谷さんにギャラは支払われていませんし、録音者としての名前も記載されていません。悟堂さんにしてみれば、弟子のものは自由に使って良いくらいの感覚だったと思われます。
 アニマの平凡社はコンプライアンスのしっかりした会社でしたので、著作権についても厳密に対応していた印象があります。そのため、本人が写っているのに著者撮影の疑問から、撮影当時の状況を悟堂から聞き出し、キャプションの変更になった可能性があります。
 今や確認のしようがありませんが、有名な集合写真をめぐっても、悟堂さんは謎を作ってくれたことになります。

注1:この「初めての探鳥会」は、正しくは”日本野鳥の会として”ということになります。それまでも、同じようなイベントは須走はもとより各地で行われて、鳥類視察旅行などの名称が使われています。集団で鳥を見ることを探鳥会と名付けたのは、このイベントが初めてと言うことになります。なお『野鳥と共に』(1935・巣林書房)では、「富士鳥巣見学会」というサブ・タイトルで報告されていて、まだ探鳥会という名称を使うのをためらっている印象があります。

2022年2月23日 (水)

竹野家立の『野鳥の生活』は悟堂の蔵書にあった!?

 私の人生を変えた中西悟堂の人となりに触れたくて、著書をはじめ悟堂について書かれたことを読んだりネット検索しては楽しんでいます。調べれば調べるほど、悟堂はほんと鳥が好きな人だったんだなあと思います。そして、情熱家であり頑固ジジイでだったと実感します。
 こうして悟堂の著作を見て、今回の発見のご紹介です。
 私は、野鳥という言葉を野鳥誌と日本野鳥の会に使用したのは『定本野鳥記』に書かれているように「『野鳥の・・・』云々という題」という本のタイトルをヒント説だと思っていました。そして、この『野鳥の・・・』は、前年に発行された竹野家立の『野鳥の生活』(大畑書店・1933)だと確信しています。
 ところが、このところ悟堂の造語説が定説となっていますので、気になって調べたのが前記事です。そして、この記事によって造語説は、くつがえせたと思います。そして今回は物的証拠を発見しましたので、ご紹介です。
 野鳥の原点ともバイブルと言える初版『野鳥と共に』(巣林書房・1935)は、内容が豊富で感動を与えてくれます。それだけに、つっこみどころもあって読んでいて飽きません。この本は、「放し飼い編」と「山野編」にわかれています。放し飼い編、最後の項に「栗鼠を育てる」があります。「そうだそうだ、リチコと名付けたのだ」と中学生時代に読んだ内容を思い出しながら再読しました。
 ふと、本が並んだ上にリスのいる写真が目にとまりました。四六版1ページに載っているため14cm×10.5cmの大きめの扱いです。うれいを帯びたリスの顔が可愛い写真です。並んでいる本は8冊、このうち「トルストイ愛の書簡」「中世欧州文学史」「○○渓谷」などのタイトルが読めます。光線の具合で残りのタイトルは不明瞭でよく読めません。ただ、右から5冊目のタイトルは「生活」という字がかろうじて読めます。ひょっとすると野鳥の命名のヒントになった竹野家立の『野鳥の生活』ではないかと胸が躍りました。
 さっそく、蔵書の『野鳥の生活』を取り出し背文字を比較してみました。
 その前に、リスと本が写った明瞭な写真が他にないか探してみました。『野鳥と共に-普及版』日新書院・1940)があり、ほぼ同じ位置に同じサイズ(14cm×10.5cm)で掲載されていました。写真印刷の程度は戦争間近のためか、初版よりよくありませんでした。
 『定本野鳥記 第1巻』のグラビアにもありましたが、こちらは扱いは小さく5.5cm×4.0cm、名刺サイズより小さいです。ところが、写真製版の技術のため、小さな写真のほうがモワレがあるのものの画像のコントラストを上げることが可能なことがわかりました。タイトルは5文字、”野鳥”の字もなんとなく読めます。
 同じアングルで蔵書を撮ってみました。2枚を並べてアップします。左、リスの写っている写真は一部分をトリミングしての引用です。写真全体の明るさ、彩度の調整はしていますが、タイトル文字部分を強調するような加工はしていません。右が拙蔵書で、当時の本を並べています。いずれの写真も見づらい場合、クリックして大きくしてご覧いただければと思います。
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 戦後に悟堂が、ヒントになったという『野の鳥・・・』、下村兼史の『野の鳥の生活』であれば、タイトルのすぐ下に著者名があるため、映り込みます。私の蔵書の右から2冊目です。この『・・・生活』は、下村の本とは思えません。
 蔵書の写真と比較してみると、タイトルロゴは同じ。タイトルの字の間も同じ。天地から野にいたる長さも同じに見えます。ひとつ不思議だったのは、タイトルは布に金箔が押してあるのです。とても、きれいで派手。そのため、カラー写真で撮るとよく目立つタイトルでした。ところが元の写真と合わせるために、モノクロやセピアに加工すると、タイトルが目立たなくなってしました。掲載したのは、ギリギリタイトルが読めるところまでの加工です。
 ですので、モノクロの写真では読みづらくてよいことがわかり、リスの前足の下にある本は『野鳥の生活』の可能性がかぎりなく高いと思いました。
 ついで、この写真がいつ撮られたものかの検証です。悟堂は5W1Hが曖昧のため、全部を読まないとわかりません。時系列を整理してみます。
・リスは、奥多摩の日原川あたりの山地で捕獲された。
・巣ごと届けられたのは、7月初旬である。
・巣には3匹の子リスが入っていた。生後1ヶ月と推定。歯がまだ生えていなかった。そのため、牛乳で育てる。
・7月20日頃には、歯も生えてきて、活動も活発になる。
・8月8日に1匹死んでしまう。
・9月になると、日本クルミを自分で割るようになる。
・9月下旬、1匹が脱走。5日で帰る。
・この他、リスの成長ぶりが続きます。
・文末に(昭和8年11月下旬稿)と書かれています。1933年です。
 ということは、リスを育てたのは昭和8年の夏から秋。本棚の撮影はリスが来た7月以降となりますが、リスがそこそこ大きくなっているので9月頃ではないかと推測できます。いずれにしても、悟堂が野鳥という言葉を発想した1934年の前年になります。また『野鳥の生活』の発行は昭和8(1933)年7月15日と奥付にあり、8、9月頃の撮影ならば間に合います。
 なお、野鳥という言葉を発想したときは、ぐるっと椅子をまわして後ろにあった書棚に、ちょうど目と水平の高さに鳥の本があったことになっています。この写真を見る限り、鳥の本は『野鳥の生活』のみです。思案したのは半年後なのでその間、本の位置が変わったのでしょう。
 この写真のとおりならば、『野鳥の生活』は野鳥という言葉を発想する前の年に書棚に並んでいたことになります。そして、リスとともに『野鳥の生活』のタイトルは目にしていたはずで、野鳥という言葉は悟堂の身近なところにあったことになります。本書の内容は鳥好きにとってはとても興味深いものですから、悟堂が一読していないわけはないと思います。そうなると、2ヶ月間苦労したという伝説も怪しくなってきます。
 悟堂は、膨大な著作を残しています。また、かなりの割合がリメイクされています。それだけに矛盾もあれば、長い歴史のなかで悟堂自身の変化を探索することができます。
[敬称は、略させていただきました。]

2022年2月10日 (木)

野鳥という言葉は中西悟堂が考えたのか-その3

 まとめる前に「野鳥」という言葉と、日本野鳥の会の歴史について私見を述べておきたいと思います。
 野鳥という言葉は、科学的な専門用語でも法律用語でもありませんので、定義されていません。そのため時代とともに、あるいは場面によって意味が違って使われることがあります。たとえば『蟲・鳥と生活する』(アルス・1932)で悟堂が思わず使ってしまった野鳥は、カナリアなどの洋鳥に対して日本の飼い鳥という意味だったと思います。言い換えれば、飼い鳥の愛好家が使う和鳥に近い意味での使用です。昭和の初期、野鳥はまだ籠のなかに入っていたのです。
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 それが、野生の鳥の意味が強くなり、自然のなかを飛び回る鳥の意味になってきます。これは、ひとえに悟堂をリーダーとした日本野鳥の会の会員の活動によるものだと思い、中でも悟堂の功績は大きなものがあると思っています。とくに戦中、戦後の動乱期にも活動を続けた情熱とその努力の結果、今の日本野鳥の会があるわけです。個人的なことを言わせていただければ、今の私があると思っています。
 そして戦中戦後、日本野鳥の会の会員は、1,000人程度で推移します。その中には、各地に名物とも言える野鳥の専門家がいて、支部として探鳥会を開催したり、鳥の話題を地元新聞に書いたりして野鳥の魅力と大切さの広報に寄与します。そのなかには、悟堂の弟子を標榜する人もいました。悟堂の影響を受けた人が少なからずいたことでしょう。
 私が、日本野鳥の会に入会した1965年には、野鳥は自然の生き物であり、野鳥が食べる昆虫や木の実、巣を作る環境を含めて自然を守らなくてはならない、守るべきだという認識がすでありました。1970年代に入って干潟の埋め立てや森林の伐採などが各地で起きると、地元の日本野鳥の会会員が中心となって”○○を守る会”などの名称の自然保護団体ができました。こうした活動が起こったのも、野鳥という言葉に自然という壮大な概念が含まれるからだと思います。
 また、1970年に日本野鳥の会は悟堂の同人的な任意団体から財団法人として社会に責任ある団体となり事務所を構え、職員を雇います。自然保護運動家に給料を払った最初の組織かもしれません。こうした活動ができたのも悟堂が野鳥という言葉を、会名、雑誌名に使い、活動を続けた効果であったことは否めません。
 しかし、なぜ悟堂が野鳥という言葉を発想した経緯が変化していたのでしょう。それには、悟堂をめぐる問題が関係しているとしたら・・・。
 戦後、間もない頃、悟堂を中心にゴタゴタがあったことはあまり知られていません。若い人たちが研究部を作り活動をはじめたことが、面白くなったことが発端だと思われます。さらに、お膝元の東京に支部がなかったため、東京支部結成も動きもありました。こうした変革に悟堂は難色をしめしました。また、活動が活発になるに従い会員に一般人である有象無象が入ってくることを懸念したようです。会員を増やして、より活動を拡げたい若い会員と会の品位を重んじるために現状維持で良いとした悟堂との意見の相違があったことになります。
 第一次悟堂騒動となります。当時の関係者が多くを語ってくれませんでしたので、詳しい経緯はよくわかりません。また、当時の会員は全国2,000人程度、東京支部500人規模のなかの数10人でのこと、いわばコップのなかの戦争であったことになります。
 ついで1970年財団法人になり事務所を構えたとき、悟堂と事務局員と新たな確執が生じます。第二次悟堂騒動です。
 これについては『野鳥開眼―真実の鞭野鳥開眼』(永田書房・1993)に、悟堂側の言い分が書かれています。今回、一読しました。悟堂と市田体制の事務局との戦いを悟堂側から書かれています。
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 こうした騒動のなかで、野鳥という言葉を造語したというエピソードが変化していることに気が付きました。
 戦前は、問題がなかったために野鳥そのもののタイトル『野鳥の生活』(大畑書店・1933)がヒントです。
 戦後間もない頃は、『野の鳥の生活』(金星堂・1931)から、ちょっと直して造語したことになります。
 1970年代になって、独創となります。この頃、事務局との対立が表面化し、悟堂にとって権威が必要になったからと見るのは、うがちすぎでしょうか。
 正直、虚偽の伝説作りをしたとは考えたくないのですが『野鳥開眼―真実の鞭野鳥開眼』に書かれた事務局への心情を読むと、あったのかもしれないと思ってしまいます。雑誌と会の名前に野鳥という言葉を使ったことは、日本野鳥の会会長の正当性を象徴する強力な伝説となります。会員はもとより、弟子や事務局員にはないカリスマ性を高めることができます。さらに、その野鳥を造語したことになれば、信じる人の支持がより強固なものになるでしょう。
 悟堂は、1981年実質的に日本野鳥の会から退き名誉会長になります。そして、1984年(昭和59年)89歳にて、お亡くなりになります。しかし、悟堂亡き後も野鳥の造語伝説は生きています。
 悟堂の行った日本野鳥の会運動は、多いに評価します。私も影響を受けて、素晴らしい人生にすることができた1人ですので感謝に堪えません。ただ、悟堂の活動やパフォーマンスのなかには、怪しいものや増幅されたものがあります。それを承知で付き合っていた人もいれば、信じていた人もいます。あるいは、利用した人もいたかもしれません。
 悟堂を客観的に見て評価することで、野鳥という言葉の持つ力についても理解できると思います。(おわり)
[敬称は、略させていただきました。]

 

注:悟堂の著作は、およそ70点を超えています。いくつかは、リメイクされ書き直されています。そのすべてをチェックしたわけではありませんので、これ以外の記述がある可能性もあります。ここで紹介した以外のエピソードがあった場合、記事を加筆、訂正するつもりです。

2022年2月 9日 (水)

野鳥という言葉は中西悟堂が考えたのか-その2

 今回、見つけたのはなんと悟堂本人が書いた『蟲・鳥と生活する』(アルス・1932)の本文です。
 344ページのZの項で、小島銀三郎のカスミ網猟の話から「野鳥をそのままペットにしたいと思う人が人があるなら(中略)、そういう人達は試みに霞網をやってみるとよい」の一文です。当時のことですから、内容はともかく野鳥という言葉が使われています。
3441
 『蟲・鳥と生活する』は、悟堂が苦労をして野鳥という名前を造語したとされた2年前の発行ですから、執筆自体は3年前かもしれません。いずれにしても、野鳥が違和感なく突然使われています。
 ここで使われた野鳥という言葉は、カナリヤなどの洋鳥に対して日本の鳥のオオルリやウグイスを示す意味で使われています。代々飼われ飼育しやすい洋鳥に対して、野性味のある野鳥の飼育は難しいということでの使用です。
 普通、本を発行する場合、執筆、推敲、編集者のチェック、チェックの直し、初校、再校と少なくとも5回は、自分の原稿に目を通すことになります。悟堂は文章にこだわりがあったはずですから、推敲は何度もしていると思います。また、当時は活版、鉛でできた活字を組むため棒ゲラと言ってレイアウトされていない状態でのチェックもあったはずです。そのため、校正の回数は今以上に多かったと思います。この野鳥が出てくる一節は、何度も読んでいるはずです。悟堂の頭のなかに野鳥という言葉が、3年前にすでにあったことになります。
 それが、柳田になぜ2ヶ月間も苦労をして考えた自分の「独創」と答えのでしょう。ただ、この野鳥という言葉を思いついたエピソードは微妙に変化しています。
 たとえば、『定本野鳥記 第5巻』(永田書房・1964)の「竹友藻風氏と『鶺鴒』」の項で、発足当時をふりかえっています。それによると「(前略)2ヶ月を経過してもまだきまらず、この夜も同じ考えを繰り返していたのである。(中略)うしろには書棚があって、ちょうど目と水平の棚が鳥の書物であったが、そこにふと翻読書(ママ)の背文字に『野鳥の・・・』云々という題のあるのを見ると、私の目はぴたりとそのに張り付いた。『これだ!』と私の気持ちに閃くものがあった」「今まで、なぜこの言葉に気がつかなかったのだろうと私は思った。(中略)こうして『野鳥』ということばに決まった」とあります。ここでは悟堂は「野鳥」ということばを自分で作ったとはいっていません。 
 私は『定本野鳥記』を読んでいたので、長い間このエピソードを信じていました。ですから、造語したという説が流布していることは不思議に思っていました。
 ちなみに、当時出版された本のなかの翻訳本で『野鳥の・・・』のタイトルの本を見つけることはできませんでした。前記事で紹介した竹野家立の『野鳥の生活』の可能性が高いと思います[注]。
 この一文は、1964年の『定本野鳥記 第5巻』に収録されていますが、文末に「昭和19(1944)年1月」とあり、初出は戦前となります。
 戦後の記述を探すと、『野鳥』誌の「25周年記念特集号」(1960)「日本野鳥の会25年史 第1回」にありました。これには「2ヶ月間も考え抜いたある日、ふとテーブルに向かって腰かけていた回転椅子をぐるりと廻して、背後の書棚を見ると『野の鳥の何々』いいった本の背表紙が目について、『やっこれだ』と思った。そして、『野の鳥』の『の』をはぶいてきめたのが『野鳥』(中略)その頃、私がいろいろな日本の本などから捜し廻った範囲の限りでは『野鳥』という熟語はなかったし、世間の慣用例もきかなかった。」と書かれています。
 ちなみに、昭和9(1934)年当時まで『野の鳥の何々』と言うタイトルで出版されていた本は、下村兼史の『野の鳥の生活』(金星堂・1931)しか見つけられませんでした。
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 その後、「野の鳥」は仁部富之助のタイトルに多用されますが、1936年以降となります。ですので、ここでは下村の本のタイトルがヒントになったと思われます。
 なぜか、2ヶ月間悩んだこと、背後の書棚のタイトルを見たことは同じですが「野鳥・・・」から「野の鳥・・・」に変わっています。何か意図があるのでしょうか。
 つづいて、前記事で紹介した『愛鳥自伝』(平凡社・1993)に書かれているように悟堂は柳田の問いに自分の「独創」であると答えています。『愛鳥自伝』の発行は1990年代ですが、雑誌『アニマ』に1973~1977年にわたっての連載をまとめたものです。このエピソードは最後のほうですので、書かれたのは1977年頃ということになります。
 戦前は『野鳥の生活』、戦後は『野の鳥の生活』、戦後は独創と変遷していることがわかりました。ストレートな借用から、改変しての使用、そして造語したに変わったことになります。(つづく)
[敬称は、略させていただきました。]

注:悟堂が『野鳥の・・・』のタイトルの本を見つけたこと、当時このタイトルの本は竹野家立の『野鳥の生活』しかなかったことは、木村成生さんもブログで指摘しています。

2022年2月 8日 (火)

野鳥という言葉は中西悟堂が考えたのか-その1

 今回、「誰が中西悟堂に野鳥を教えてたか1~5」を書くために調べていたら、ひとつ気になることがありました。
 それは、悟堂が「野鳥」という言葉を造語したということがかなり広く流布され、事実となっていることです。たとえば、ウィキペディア(Wikipedia)の「中西悟堂」の項には「『野の鳥は野に』を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。」また「野鳥」の項では「"Wild Bird"に対応する語として、中西悟堂が『野鳥』の言葉を造語した。」となっています。
 加えて、中西悟堂の伝記である『野の鳥は野に 評伝・中西悟堂』(小林照幸・2007)には「『野鳥』という悟堂発案の言葉」となっています。執筆にあたっては何度もうかがって取材したとされる長女の小谷ハルノの名前があがっていますので、遺族としても認めていることになるのでしょう。
 中西悟堂協会のウェブサイトでも「業績」の項に『「野鳥」や「探鳥」は中西悟堂の造語であり、悟堂が日本に広めた言葉です。』と書かれています。協会として公式的な見解とみてよいでしょう。

 https://nakanishigodo.wixsite.com/home/about

 造語というのは「新たに語(単語)を造ることや、既存の語を組み合わせて新たな意味の語を造ること」とあります。厳密にいえば、造語されたという言葉が使われる以前には、なかった言葉といえるでしょう。
 結論としては、野鳥という言葉は悟堂の造語ではありませんし、悟堂以前に使われている言葉です。それも、悟堂の身近にあった言葉だったといったら、信じてもらえるでしょうか。
 もちろん、野鳥が悟堂の造語でないことに気が付いた方がすでにいます。古書店楽古堂店主の木村成生さんです。彼のブログに詳しく書かれています。
 タイトルは「『野鳥』ということばをめぐって―柳田国男と野鳥―」です。下記URLをまずご覧ください。

 https://blog.goo.ne.jp/takanosu1736/e/07576dac6109513e7a825b3c46608100
 
 木村さんによると、悟堂の師匠ともいえる柳田国男の著書には「野鳥」が何度も登場しているとのことです。
 まず、名著『遠野物語』の序文に「細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鷄かと思ひしが溝の草に隠れて見えざれば乃ち野鳥なることを知れり。」があります。『遠野物語』の発行は、明治43年(1910年)であり、悟堂が野鳥を造語したという1934年から24年前となります。
 同じ柳田の『明治大正史世相篇』の第4章に「つまり人間の技能の加はつた特別のものを愛したので、此点は寧ろ野鳥を疎外した大建築物などの芸術と似て居る」として、鳥を飼うことと野外の鳥に興味や理解を持つこととはつながらないという。つぎの「8 野獣交渉」にも「野鳥」の文字が現れます。『明治大正史世相篇』は、1930~1931年に発行されており、3年前となります。
 さらに柳田の『野草雑記・野鳥雑記』(甲鳥書店・1941)に収録されている「村の鳥」には「椋鳥とか雲雀とかいふ地面を恋しがる鳥は、もう段々退去したが、松のある為に枝移りをして、意外な野鳥までがめいめいの庭へ入つて来る」とあります。「村の鳥」は、昭和9(1934)年1月が初出で、悟堂が野鳥を考えた数ヶ月前に公表されていたことになります。
 柳田と悟堂の関係は、師弟関係にあったのですが、悟堂は師匠の名著の『遠野物語』はもちろん「村の鳥」を読んでいなかったのでしょうか。
 さらに、木村さんは「悟堂は『愛鳥自伝』によると鳥の雑誌を出すにあたりその誌名を2ヶ月苦しんで考えた末に「野鳥」と決めて、柳田邸を訪ねて披露する。それに対して柳田は「よい名前をつけられたねえ。どこから引いたの?」と聞き返し、悟堂は自分の「独創」であるとこたえると、柳田は「よかったよ。これでいよいよ発足だね」とこの名を高く買ったという。」と言われたと書いています。自分が書いたのを忘れた柳田も柳田ですが、この会話から2人の関係がよくわかります。また、悟堂は「自分の『独創』であるとこたえる」が、多くの造語したの根拠になっているものと思います。
 悟堂を弁護すれば、本1冊のなかの一つの単語ですから見落としたとも言えます。
 しかし、次に紹介するのは本のタイトルです。それも鳥仲間の本の題に使われていたのですから、弁解は難しいと思います。
 それは、竹野家立著の『野鳥の生活』(大畑書店・1933)の存在です。
Photo_20220208195201   
 発行は、日本野鳥の会創立の前年となります。著者の竹野家立は『野鳥』誌の創刊から3号まで連載された「野鳥の会座談会」における12人の出席者のひとりです。『野鳥』1巻2号の「執筆諸家の横顔」によると、新宿御苑内動物園で鳥類研究をし、野鳥巣引きを20年、成功したもの30余種、この座談会当時は東京朝日新聞社員という肩書きです。
 木村さんの話に追加をすれば、野鳥という言葉は『野鳥の生活』の2ページの序に2回、本文にも散見しています。竹野は野鳥を飼育し、いかに長く飼い繁殖させるか研究しています。飼育に生かそうと野外での観察もしています。その記録とも言える『野鳥の生活』は、難解な文章ですが読み応えのある内容です。さらに、竹野と悟堂との関係を示すものとして、竹野の日本野鳥の会発足2年後に出版した『野鳥随想』(橡書房・1936)があります。この本の写真に悟堂が撮影したコノハズクの幼鳥の写真が3点、ウグイスとトラツグミの巣の写真が各1点収録されています。写真の貸し借りがあった関係であったわけですから、前著を寄贈した可能性もあります。執筆には1、2年はかかると思いますので、日本野鳥の会の発足当時に書かれたものと考えられ、悟堂との交流があったことは間違いないことになります。
 木村さんは、この他『日本国語大辞典』(小学館・1972~1976)に引用されている室町時代の『日葡辞書』(1603~1604成立)、間清利著『御鷹場』(埼玉新聞社・1981)に引用されている元禄2年(1689)の徳川綱吉による「生類憐れみの令」のなかに野鳥があるのを見つけています。
 これでも、木村さんの調査の一部にすぎません。古書店主だけに、お調べになるポイントがするどい上によい勉強になりました。
今回、改めてネット検索してみたら、同じように悟堂以前に使われた「野鳥」という言葉を見つけた方がいました。なるほど、このような事例まで探したら、もっとありそうです。

 http://seichouudoku.blogspot.com/2015/02/blog-post_18.html

 論文もあります。日本野鳥の会の会員で立教大学名誉教授、知人でもある川崎晶子さんの論文です。

 https://icc.rikkyo.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2015/12/bulletin_2014_03.pdf

 小鳥、野鳥、探鳥、愛鳥の4つの言葉が、時代によって使われた頻度と意味の変化についての考証した内容です。朝日新聞における初出は、1900 年(明治 33 年)の記事で『「年々各地より東京市内に売り込み来る野鳥類」として、農商務省の調査結果を報じている。』とあります。これ以降も、1900年代3件、1910年代1件、1920年代2件、1930年代は18件、野鳥という言葉が朝日新聞に載っているとのこと。1930年代は、日本野鳥の会が発足した年代で、件数が増えているのは話題になったことがうかがえます。加えて、国語辞書の初出は昭和3(1928)年の『改修言泉』(大倉書店・1928 )に野鳥の項目があるとのことです。
 私も調べてみました。日本の古代から江戸末期までの文献から引用した例証を分野別に編纂した日本史研究の基礎資料とされている『古事類苑』(神宮司庁・1896~1914)です。「動物の部」のみですが、すべて目を通したつもりです。
 『本朝食鑑 五 水禽』の「鴫」の項に「野鳥也」がありました。『本朝食鑑』は、元禄10年(1697年)発行で、江戸時代となります。膨大な『古事類苑』のなかから、1例見つけましたが、これ以外にもあるかもしれません。
 いずれにしても野鳥という言葉は、一般的ではなかったとは言え、江戸時代以前の日本語としては存在してはいたことは間違いありません。(つづく)
[敬称は一部略させていただきました。]

 

2022年2月 2日 (水)

日光山久保の鳥屋場

  今回、悟堂のことを調べていると、付随していろいろ興味深い話に出会いました。
 その一つが、日光の鳥屋場です。
 『鳥蟲歳時記』(高山書院・1941)には、鳥屋場巡りをした話が収録されています。日本野鳥の会の会長になって2年目です。実質、収録されている原稿は、それ以前に書かれたものも多く、まだ野の鳥は野になどのコンセプトが固まっていない頃です。そのため、霞網猟を絶賛し、鳥を飼うことについてはなんのてらいもなく書かれています。
 この本には、日光の鳥屋場について
「日光の方では今市の鳥屋場へ行った。地名は日光町大字山窪。今市町の蔦屋に泊まって、明くる朝5時というに自動車を駆つて一里の道を揺られ、柏木から小径を歩いて登った。このあたり山腹の楓、櫨(ハゼ)、ヌルデの紅葉が松と交錯し、行川ふちは竜胆に綴られて、まさに錦綾の秋だったが、鳥屋場に着いてから同行の津田青楓氏の描いた水絵も亦、錦綾の絢爛さがあった。」
 と書いています。
 悟堂の話には5W1Hが明確でないものが多く、これも年号や日付がわかりません。また、誰の案内でどのようないきさつで日光に行ったかも不明です。ただ前後から推測するに、昭和数年の秋であることと、日光の山窪の鳥屋場に行ったことは間違いないでしょう。
 山窪は、現在は山久保と書きます。日光と今市の間、山に入ったところにあります。今市から1里、ほぼ4kmは合っています。
 初めて、日光の自然仲間のA部さんに山久保に連れて行ってもらったときは初夏のことでした。遠くでホトトギスが鳴きハチクマが鳴きながら飛び、近くの農家からニワトリが鳴き声が聞こえるという山里の風景と音が広がっていました。日本の原風景のような里山が、山久保です。写真は、初夏の青空が広がる山久保です。

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 その後も、録音仲間のTさんとは何度も通い、キビタキやヒガラ、サシバの鳴き声を録音するなど野鳥録音を楽しむことができた場所です。
 日光というと戦場ヶ原や霧降高原など、標高の高い環境に目がいきがちです。しかし、こうした隠れ里のような里山が日光にもあるし、野鳥も楽しめます。
 ところで,『鳥蟲歳時記』に書かれているように、山久保の鳥屋場が描かれた挿絵が収録されていました。また、解説がいっさいなのですが、表紙の絵も鳥屋場の風景を描いたもので、同じタッチですので、同じく津田青楓の手によるもので間違いないと思います。
 2枚の絵から山久保の鳥屋場のようすがわかります。
 挿絵の鳥屋場。4人の人、囮を入れた鳥籠らしいものが見えます。また、捕らえられた鳥が並んでいます。右の奥に描かれた山の稜線は、男体山に見えます。

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 『鳥蟲歳時記』の表紙です。表から裏にかけて、カスミ網が3重に張られているようすが描かれています。左タイトルが重なっている山の稜線は、男体山に似ています。

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 描いた津田青楓(1880~1978)について悟堂は語っていないので、補足しておきます。明治生まれ、戦後まで活躍した洋画家です。夏目漱石と仲がよかったようです。プロレタリア画家として弾圧を受けています。鳥屋場行きは、その傷をいやすためだったのでしょうか。青楓が、野鳥好きだったかどうかは不明ですが、悟堂と鳥屋場に同行していることから興味はあったようです。また、少なくとも1970年代の野鳥誌に原稿を寄せていて、悟堂と日本野鳥の会との交流は戦後も続いていました。
 気になったのは、この鳥屋場が山久保のどこにあったのかです。山久保は、けっこう広く、かつては5村あったと言われています。私は、挿絵や表紙絵のように日光連山が見えるところには行ったことがありませんでした。鳥屋場の多くは、山の上のほうにあるので、山登りをしなかったため、そうした風景を見そこなっていました。
 今や日光在住となったTさんにこの話をしたら、文献を調べてくれ「北側の尾根に鳥屋場があったようだ」との地図も送ってくれました。かつて文献に載っていた日光の鳥屋場、季節にめぐってみると渡り鳥との思わぬ出会いがあるかもしれません。
[敬称は略させていただきました。]

2022年1月21日 (金)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その5

鳥屋場の小島銀三郎-2
 銀三郎の鳥屋場でどれだけ、野鳥が採れていたのでしょうか。 『野鳥』第1巻第6号(昭和9年発行)の「鳥の渡り特集」には、八王子市東南部の多摩丘陵での記録とありますので、銀三郎の鳥屋場だと思われます。昭和6年10月20日から11月末まで40日間の捕獲数のうち、ツグミ類が2.599羽、小物1,775羽、計4,374羽と悟堂は報告しています。1シーズン4,000羽を超える小鳥を捕まえていたとは、そこそこの数字ですが、『蟲・鳥と生活する』(1932年)にも同じ数字が載っていますので、間違いないでしょう。
 時代も鳥の数も違う現在との比較はあくまでも参考ですが、山階鳥類研究所が行っている標識調査で織田山鳥類観測一級ステーション(福井県)の放鳥数は1973~1998年で合計77,617羽、年平均3,112羽です。銀三郎は1人で、それ以上の小鳥を捕まえていたことになります。
 また、客も多かったことが書かれており「一期で約300人に及び、多い時には1日120人にも達した」という人気です。それでも、300や400羽の鳥が採れるので、まかなえるとも書かれています。ここで、鳥の味の違いが書かれていると面白いのですが、それはありませんでした。ただ、著名人も多数来訪し、満鉄総裁、ドイツ大使、外務省局長などなどの名前があげられています。前掲した尾崎喜八の文章のように、銀三郎は野鳥の世界のみならず、財界から政界でも有名人であったことになります。
 野暮を承知で、どのくらい儲かったか想像してみます。焼き鳥に合わせて酒も提供されたはずですから、300人が現在の貨幣価値で1人10,000円払ったとして3,000,000円。半額の5,000円としても1,500,000円となります。著名人が多かったとのことですから10,000円に近い可能性があります。たた2ヶ月でこれだけの売り上げがあったとすると、鳥屋場はかなり儲かる商売であったといえるでしょう。
 当時、鳥屋場で野鳥の知識を深めたのは、悟堂にかぎったことではありません。
 戦前戦後の日本野鳥の会を支えてくれた一人に画家の小杉放菴がいます。『野鳥』誌の表紙やカットを描くなど、日本野鳥の会参与という肩書きで、厳しい時代に支えくれた方です。戦前最後の「野鳥」誌の表紙絵は、小杉放菴です。

Nn93
 なお、小杉放菴の美術館が栃木県日光市内にあります。日光の自然仲間のE村さんが関係しているため、作品を見せてもらったことがあります。色紙に描かれた大量のスケッチで、日光の鳥屋場に悟堂と同じように泊まり込んで、捕らえられた鳥を描いたと伝えられています。美術館のサイトにアップされた年譜には「1935(昭和10)年10月27日 岸浪百草居と栃木県川治の鳥屋場へ写生に行く。」などがあります。こうして描かれたさまざまなスケッチから、見事な本画が描かれていく経過がわかります。また、正確に鳥や植物を描くためにどこにポイントを置いて見ていたのか、残されたスケッチを見るとわかりました。
 また、日本野鳥の会の探鳥会が鳥屋場というのは、戦前に行われていました。日光の鳥屋場巡りのお土産が、ヤマガラという時代もあったのです。
 戦後、GHQが日本の野鳥を調べたら、カスミ網が野鳥の減少に大きく影響していることがわかり禁止に動きます。それでも、私が日本野鳥の会の職員時代(1980年代)でさえ、カスミ網の使用は禁止だけど所持はOKというザル状態でした。職員時代にカスミ網の反対署名を集める資金集めのためテレホンカードを作るなど、苦労した思い出があります。その結果、ようやく現在では使用も所持も禁止となりました。
 現在、どれだけ鳥屋場によるカスミ網猟が行われているか、実態は不明です。メジロを捕らえるような小規模な密猟はいまだ行われていると思いますが、銀三郎のように鳥屋場を管理運営するのは難しいでしょう。まず、カスミ網を張る山の植生を一年かけて剪定しなくてはなりません。茂りすぎても開けすぎてもだめで、カスミ網をうまく隠せるような状態にしておかなくてはならないのです。日光の鳥屋場として地名の残っている山は、現在では木が茂りすぎて網を張ることができません。こうした山仕事をするのはたいへんです。それより、ケンタッキーでフライドチキン、あるいは鳥貴族で焼き鳥を注文した方が安いしお手軽です。それに何より、法律違反を犯している後ろめたさを持たないで済みます。
 ところで、悟堂が日本野鳥の会会長となり運営するようになると銀三郎の名前は、出てこなくなります。悟堂の野猿峠への来訪は、日本野鳥の会の発足とともになくなったのではないかと思われます。
 たとえば「アニマ」の1979年5月号(No.74)の特集は「バード・ウォッチング -鳥の行動をみる-」です。このなかで、悟堂は「探鳥会とBirdwatching」と題し寄稿しています。一部を引用すると「私は野鳥の会を起こす前も、西洋の論理に従えぬ意識があった。また当時の鳥類分類学者が学術上の必要があったからとはいえ、多くの標本を持つために鳥を平気で撃ち殺す学風はけして愉快なものではなかった」とあります。暗に山階芳麿、黒田長禮、清棲幸保など、貴族学者たちの剥製のコレクションによる研究を批判しています。鳥を殺すことは大反対であり「野の鳥は野に」の日本野鳥の会の理念が強固になった頃です。しかし、野鳥の会を起こす以前は。同じように鳥を殺す鳥屋場に嬉々として通っていたのですから、日本野鳥の会の活動を通じて考え方がかわったと、まずは自己批判して欲しいところです。日本野鳥の会の会長を名乗る以上、聖人君子でなくてはならないと思っていた頃で、きれい事に終始してしまっているのは残念です。結果、銀三郎の名は暗黒史とし消し去ったといってもよいかもしれません。
 今回いろいろ調べてみたら、悟堂がとつぜん鳥に詳しくなったのではなく、そこには鳥人とも言える先生が少なくとも2人いたことがわかりました。この2人の業績は、悟堂を通じて日本野鳥の会の活動に影響を与えた重要人物であると思います。
 一般的には、鳥がいたら”鳥”、あるいは”小鳥”で終わりです。鳥には、それぞれ名前があり名前を知ることは楽しみであり、その知識を持った人たちが黎明期にいたことになります。明治から大正、昭和の初期です。情報の乏しい時代にこうした知識を得ることは、今では考えられない苦労があったと思います。
 現在では当たり前のことですが、野鳥は名前のわかるものであり識別するものであることを知らしめたことになります。そして、悟堂を通じて、その方法と知識、技術を日本野鳥の会に伝えたと言っても良いかもしれません。今ある探鳥会の指導から図鑑の制作まで、そして私たちがバードウォッチングを楽しめるのも、元を正せばこの2人の活動に行き着くことになります。
 高田昴と小島銀三郎の名は、野鳥史に残すべき名前だと思います。(おわり)
[敬称は略させていただきました。]

2022年1月20日 (木)

誰が中西悟堂に鳥を教えたのか?-その4

鳥屋場の小島銀三郎-1
 『野鳥』誌の「25周年記念特集号」(1960)に須走の高田昴と並んで書かれた「小島銀三郎翁の鳥屋場でのただ見るだけの野鳥の習性を見届けたい」と書かれた小島銀三郎について、調べて見ました。
銀三郎については、高田昴以上に情報がありません。小島銀三郎の名前をネット検索すると、同姓同名の方のFacebookくらいしかでてきません。そのため「小島銀三郎 鳥屋場」で、ようやく1件間違いなく悟堂と関連した銀三郎がヒットしました。
 それも日本野鳥の会や悟堂とも関係した尾崎喜八の文章でした。著作権が切れているため、ネット上で読むことができました。それには「連れの引合せで初めて会った千野さんは、もう頭の大分禿げた、童顔に顎鬚をたくわえた、人を見る眼に一種の光りのある、どこか禪僧とか一流の達人とかを想わせる老人であった。知っている人は、あの霞網の名人小島銀三郎翁を思い浮べれば、ほぼその風貌の見当がつくであろう。」という一文です。
 これは、『山の繪本 紀行と隨想』(1935・朋文堂)のなかの「絵のように」の項に載っていました。直接、銀三郎とことではなく千野さんの風貌が似ているということでの登場です。知っている人は知っているはずということで名前をあげています。さっするに、当時の鳥関係者のなかでは有名人であったことがうかがえます。
 これ以外、銀三郎の情報は少ないのですが、悟堂の日本野鳥の会発足2年前に発行された『蟲・鳥と生活する』(1932年)には、「霞網の小島銀三郎翁を語る」の項があり、詳しく書かれています。
 顔のわかる写真も載っていて、銀三郎は長く白い顎髭が蓄えています。喜八が書いているように「人を見る眼に一種の光りのある、どこか禪僧とか一流の達人とかを想わせる老人であった」という表現が適切であることがわかります。私もこうした老人になりたかったと思います。
 悟堂が書いている断片的な情報から「加賀藩の人で慶応3年生まれ」石川県出身で1867年生。1867年は大政奉還が行われた年で、2年後に明治となる時代に生まれています。また、すごい経歴の持ち主で若い頃は右翼活動を行い、頭山満の玄洋社と肩を並べた団体に所属していたと書かれています。当時の政治活動は弁舌で議論するのではなく、武力闘争であったわけで、銀三郎の「身体にちょっとでもふれたらが最後、5、6人は立ちどころに手玉に取られた」という強者であったそうです。愛国の闘志と鳥屋場の主人のイメージがつながらないのですが、昭和の初期には、そのような人もいたことになります。
 銀三郎は「東京府八王子市の郊外、京王電鉄の北野駅の南方にあたる野猿峠」の尾根道で鳥屋場を持っていて、悟堂はとらえられた野鳥を見るため足げに通ったことになります。
 今や八王子市野猿峠周辺は、住宅地が広がるベッドタウンのイメージです。私と野猿峠の縁は、大学入学のとき(1968年)のオリエンテーションが行われた大学セミナーハウスに行ったのが最初です。セミナーハウスは、野猿という地名のイメージとはかけはなれたモダンな建物でした。ここでは、その後も大学のゼミ合宿、全国自然保護連合の総会、日本野鳥の会の全国大会などで何度が訪れています。ただ、いつも室内での会合で、周辺を歩いた記憶はほとんどありません。鳥屋場のあった尾根はもとより、どのような地形であったのか、もっと見ておけば良かったと思います。
 カスミ網猟は、能登半島に入ってくるツグミなどの冬鳥を捕獲するために北陸地方で始まり発展しました。加賀出身の銀三郎は、カスミ網の本場で猟法を習得したことになります。悟堂によると、銀三郎は野猿峠に落ち着くまで、日光から満州にいたるまで、各地でカスミ網猟の技術指導を行っています。
 なじみのある日光では、山久保や所野など知っている地名の山で銀三郎の指導の元、鳥屋場が開設されたことがわかりました。夭逝の鳥類学者・小川三紀の日光の記録に、鳥屋場があったことが書かれています。小川が日光に訪れたのは、明治30(1897)年と明治38(1905)年で、この記録のなかの鳥屋場も銀三郎の指導の元に開設されたものでした。
 悟堂は、荻窪に住んでいたこともあって路線のつながった八王子には行きやすく、野猿峠に通いつめたことになります。秋の渡りのシーズンには鳥屋場に泊まり、銀三郎の話を聞き鳥の知識を深めたことになります。
 ここでは、小鳥たちの地鳴きの違いを種ごとにこまかく書かれています。さえずり以上に地鳴きの識別は難しいものです。確認にこの鳥が鳴いていると記録するためには、近くで聞かないと聞こえません。鳥屋場で捕らえられた生きた鳥を目の前にして、地鳴きを覚えたことになります。(つづく)
[引用以外、敬称は略させていただきました。]

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