考証

2020年9月 4日 (金)

若いツバメ-考証

 最近、若い人に「”若いツバメ”って知っている?」って聞いたら「幼鳥ですか」と言われました。ということで、若いツバメについて知っている人は知っていると思いますが、考証してみます。
 念のために意味は、年上の女性と付き合っている年下の男性でよろしいでしょうか。たとえば「あのバーテンは、ママの若いツバメだから」という感じに使います。ちょっと憧れる状況ではあります。
 江戸時代からある言葉かと思ったら、昭和時代になって流布した言葉であることがわかりました。それも、ちょっと日本野鳥の会に関係しているかもしれないということでの考証です。
 この若いツバメという言葉のきっかけになったのは、平塚らいちょうさんです。らいちょうさんは、鳥の名前が付いているので調べたことがあります。日本における女性の権利を主張した運動家です。今でも男女平等、同権を訴えるのはたいへんですが、戦前戦後にかけて主張されたのですから、弾圧や誹謗中傷に耐えての運動だったと思います。彼女の意志は戦後の女性運動に引き継がれ、市川房枝さんや神近美智子さん。近年でも土井たか子さんや福島瑞穂さんの活動に影響を与え続けていると思います。
 らいちょうさんは、1912年夏に5歳年下の画家志望の青年奥村博史さんと出会い、事実婚(夫婦別姓)を始めます。今は、同棲なんて当たり前でのことですが、加えて有名女性が年下の男性といっしょに暮らすということは、当時としてはとてもセンセーショナルなことで、文春があれば文春砲の餌食なるような事柄だったでしょう。
 男女のことですからいろいろあって、一度奥村さんと別れます。そのときの奥村さんの言葉が「若いツバメは活けの平和の為に飛び去っていく」で、ここから若いツバメが流行語になったと言われています。今で言えば、文春砲で狙い撃ちされて、その年の流行語大賞を受賞した感じでしょうか。
 ということで、中西悟堂さんの登場です。この件を調べるにあたり、私が住んでいる駒込や巣鴨にらいちょうさんが居住していたことと、悟堂さんが天台宗東部大学(のちの大正大学、現在の駒込学園の場所)であることから駒込つながりがあるかと思っての考証でした。どうも、お二人は駒込では会っていないようです。
 ただ、山下桐子さんの「中西悟堂と平塚らいてう」によると、1928年(昭和3) らいちょうさんと悟堂さんが玉川上水で初めて会ったと書かれ、それ以降のお付き合いです。らいちょうさん42才。悟堂さん33才のときで、日本野鳥の会の発足以前のこと。著書は小説や詩集などで、まだ鳥の本は出していません。昆虫のほうに興味があった頃と推測します。
 悟堂さんにしてみれば、10才近く年上のらいちょうさんは、業界の先輩として接していたことと思います。ちなみに、悟堂さんは40才の時に20才年下の八重子さんと結婚していますので、どちらかというと年下の女性のほうがよろしかったのではないかと推測いたします。
 今回、見つけたのは日本野鳥の会の第1回探鳥会と言われている須走探鳥会に、らいちょうさんの旦那、奥村さんが参加していたことです。私が一人で見つけて喜んでいたら悟堂研究家の西村眞一さんや安西英明さんは、すでにご存知のことでした。
 『野鳥と共に』(中西悟堂・1935)には「班に別れた。1班は柳田國男、荒木十畝、北原白秋、金田一京助、内田清之助、清棲幸保、奥村博史、金澤秀之助、杉村楚人冠、菅原恒覧、穂積忠の諸氏に、苔雲荘の三橋小一郎、瀧口俊次郎両氏が加わり、高田昂さんが付添った。もう1班には戸川秋骨、窪田空穂、中村星湖、半田良平、若山喜志子、猪川珹、松山資郎、内田清一郎、金田一春彦、柳田千枝子、柳田三千子、加来都、岡茂雄、松室重行」とあり、奥村さんは白秋さんといっしょの班です。
 探鳥会のあとは「北原氏と奥村氏とは旅烏になって伊豆の方へ」とあり、奥村さんは白秋さんと行動をともにしています。どうも、奥村さんは白秋さんに誘われて参加したようです。
  ここで不思議なのは、有名な探鳥会の集合写真に奥村さんが写っていないのです。写っていている人31名、班分けで名前が出てくる人(悟堂さんを入れて)29名と写っている人の方が2名多いのにかかわらず、奥村さんがいません。白秋さんが写っているのですから隣にいてもよいはずですがいません。奥村さんは、写真嫌いだったのかしれません。
 ちなみに参加したと言われているのに写真に写っていない竹野家立、古見一夫がいます。また、写真に写っていて参加名がないのは、高田兵太郎、高田重雄でガイド役の高田家の人たちです。
  「日本野鳥の会だけに若いツバメが来た」という会話があったどうかわかりませんが、資料を調べることでらいちょうさんから若いツバメ、日本野鳥の会の最初の探鳥会への話が広がる面白さを楽しみました。

参考Web
https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/174/174-03.pdf

参考文献
山下 桐子 2012 鳥のこぼれ話(その11)―の「こぼれ話」:中西悟堂と平塚らいてう 地中海歴史風土研究誌(36), 45-49

主な時系列
1886年(明治19) 平塚晴子(らいちょう)誕生
1889年(明治24) 奥村博(博史)誕生
1895年(明治28) 中西富嗣(悟堂)誕生
1911年(明治44) 『青鞜』の創刊にともないらいちょうのペンネームを使う。
1912年(大正1) らいちょうさんと奥村さんが出会う。事実婚を始める。
        らいちょうさんと奥村さんが別れる。奥村さんが若いツバメの言葉を使う。
1914年(大正3) らいちょうさんと奥村さんが再びいっしょに生活を始める。
1915年(大正4) 長女誕生。
1917年(大正6) 長男誕生。
1928年(昭和3) らいちょうさん(42才)と悟堂さん(33才)が玉川上水で初めて会う。
1934年(昭和9) 日本野鳥の会の創立に伴う須走探鳥会。奥村さん参加。
※らいちょうのペンネームも若いツバメの言葉も悟堂さんに出会う前のことでした。

2020年3月30日 (月)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その5

 それから11年後の1891(明治24)年、はじめて日本人による日本産鳥類のリストが発表されます。
 飯島魁(1861~1921)による『日本の鳥目録(Nipon no Tori Mokuroku)』(飯島魁・1891)です。およそ130年前になります。
 飯島さんの肖像写真です。昔の方は、皆りっぱな風貌をしています。
Isaoiijima
 このリストは、日本動物学会誌に連載されたもので、33ページ403種類がリストアップされています。和名も表記、ただしこれもローマ字、ウグイスはUguisuです。しかし、不思議なことにこのリストには、なんとコウグイス(Ko-Uguisu)も載っていました。
 飯島さんは、のちに東京大学(当時は帝国大学)の動物学教室を中心に日本の鳥類学の礎を築いた方です。日本鳥学会の初代会長にもなり、教え子には山階芳麿、黒田長禮、内田清之助、蜂須賀正氏、鷹司信輔といった日本の鳥学を支えた大御所がずらっと並びます。山階さんには、以前の勤め先の会長で、孫のように接してもらいました。中学高校時代は、内田さんのエッセイを読んで勉強しました。蜂須賀さんの本もわくわくした読みました。黒田さんの本は今でもネタ本です。鷹司さんは明治神宮の宮司であったことから、日本野鳥の会東京支部の明治神宮探鳥会では有料の御苑にタダで入れてもらっていました。私も何度か恩恵にあずかっています。今、私がこうして鳥に関わる仕事ができるのも、元をたどれば飯島さんがいらしたおかげなのです。
 その飯島さんが、10年前に否定されたのにも関わらず、また日本人でありながらコウグイスの存在を認めた根拠はなんでしょう。リストは、学名とローマ字の和名を列記しただけのもの、そのためそれぞれの種類についての解説がないので理由は不明です。
 この『日本の鳥目録』は、飯島さん30才のときのお仕事です。30才の若さでは、テンミックに反証するすべを持たなかったのでしょうか。飯島さんが、まだ学業中場であったためでしょうか。
 私が調べた限り、これ以降にコウグイスは、見つかりませんでした。コウグイスは、シーボルトの『日本動物誌』から飯島さんの『日本の鳥目録』まで、およそ40年間存在したことになります。
 ウグイスの学名と和名の変遷をたどり調べてみたら、日本の鳥類学の夜明けを知ることができました。(おわり)

飯島 魁 1891 Nipon no Tori Mokuroku 動物学雑誌 Vol.3 31-33
下記サイトにて動物学雑誌のバックナンバーを閲覧できます。飯島さんの『日本の鳥目録』は、当該号の”OTHERS”という項目に入っています。
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10824026?tocOpened=1

2020年3月29日 (日)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その4

 日本のウグイスが2種に分かれているのはおかしいと気が付いたのは、イギリスのヘンリー・シーボム(1832~1895)です。シーボムは、製鉄会社の社長でありながら鳥類学者として名前を残しています。著書の見返しに掲載されている肖像写真です。
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   1862年のイギリスの学会誌に「シーボムが間違いだと指摘している」と後述のブラキストンとプライヤーが書いています。のちにシーボムは『日本帝国の鳥』(H. Seebohm・1890)を著します。明治23年のことです。この本は、一般の書店に並んだ最初の”日本の鳥の本”となります。386ページも及ぶ大著で、381種が収録され、ところどころイラストも添えられています。
 この本では、ウグイスに相当するSalicaria cantillansはSmall Japanese Bush-Warbler、Salicaria cantansにはLarge Japanese Bush-Warblerとそれぞれ英名がつけられてますが、本文を読むと「日本人は、2種の存在を認めていない。」と書いています。
 ただ、シーボムはシベリアまで来たものの日本には来ていません。まえがきには、2,000体もの剥製を元に書いたとあり、剥製の提供者に謝辞を述べています。シーボムもテンミックらと同じように日本から送られてきた剥製を元に研究をしていたことになります。そのため、日本にいた仲間からの生の情報をえての判断ということになります。
 日本にいた仲間とは、イギリス人の軍人であり貿易商のトーマス・ライト・ブラキストン(1832~1891)と、同じくイギリス人で保険会社社員ヘンリー・ジェームス・ストーブン(ストヴィン)・プライヤー(1850~1888)です。2人とも、明治の初期に横浜と函館に在住して商売をします。仕事のかたわら、鳥のみならず昆虫も含めて研究をして論文を発表します。とくにブランキストンは、北海道と本州とでは生物相が異なり、津軽海峡に分布境界線があると示唆、のちにこれをブランキストン線と呼ぶようになり名を残します。
 実は、この2人によって1880年に書かれた "日本の鳥類目録" (Blakiston & Pryer・1880)が、日本の鳥の和名が書かれた最初の報告となります。この目録で、スズメはスズメとなり、カラスはハシブトガラスとハシブトガラスとなりました。ただし、和名はローマ字で表記され、ウグイスはUguhisuとなっています。
 日本は広く、それぞれの地方で独特の文化が発達している国でした。それだけに、方言も豊富で、鳥の名前も地方によってさまざまです。たとえば、ヒガラとコガラでは地方によっては逆なところもあります。
 彼らが日本全国を旅して地方名を採集して、そのなかから選んだというより彼らが拠点とした横浜と函館、関東地方と北海道の方言名を採用した可能性があります。
 もう一つの可能性として、415種の鳥の名前を50音順に並べた『鳥名便覧(ルビ:ちょうめいべんらん)』が1830年に江戸で刊行されています。筆者は薩摩藩の大名、島津重豪(1745~1833)です。蘭癖大名と言われていました。蘭癖とは、”西洋かぶれ”と言ったらよいでしょうか。鳥が好きで西洋の学問を学びました。当時、いろは順が多いなか50音順のリストも斬新なことであったと思います。
 ちなみに、『鳥名便覧』の巻末の序=跋を寄せている福岡藩主の黒田斉清は、シーボルトと面談し西洋の知識を取り入れようとした蘭癖仲間です。当時の大名同士、博物好きのネットワークがあったことになります。さらに、斉清の4代あとに日本鳥学会の会頭を勤めた長禮、そのご子息に長久がいます。鳥好き、生き物好きの家系と言えば家系なのですね。
 いずれにしても、ブランキストンとプライヤーが選んだ方言名は、その後の日本人によるリストでも多くが採用され現在の和名に至ります。
 ウグイスもいろいろな呼び名があったはずですが、そのなかからウグイスが採用されたことになります。こうして、日本の鳥の名前は今から100年ほど前に固定されました。
 なお、このリストでは「ウグイスは1種。小さい方は、雌である」と書かれています。二人は、横浜郊外や北海道で採集をしていますから、フィールド経験も豊富です。ウグイスを観察しての結論でしょう。(つづく)

Blakiston & Pryer 1880 Catalogue of the Birds of Japan. The Asiatic Society of Japan Vol.8. 172-241p.8 (1964年のYushodo Booksellers Ltd.Tokyo.による復刻を参考)
Seebohm H.  1890  The Birds of the Japanese Empire.  R.H.Porter.
『日本帝国の鳥』は
https://www.biodiversitylibrary.org/item/115889#page/7/mode/1up
で公開されています。
島津重豪 1830 鳥名便覧 (江戸科学古典叢書 44 「博物学短篇集 上」 1982 恒和出版より)

追記:園部浩一郎さんから、「日本の鳥の和名が書かれた最初の報告として1880年の”Catalogue of the Birds of Japan”(プラキストン&プライヤー)があげられていますが、両人による1978年のIbisの”Catalogue of the Birds of Japan”が最初です。(中略、ウグイスは)Herbivox cantans, T. & S. "Uguisu"と載っています。」とのご指摘をいただきました。
 プラキストン&プライヤーが、複数リストを発表しているのは記憶していましたが、検索して最初にでてきたリストを使用してしまいました。最初の和名の書かれたリストは、1978年となりますので、2年遡ることになります。訂正いたします。
 園部さん、ありがとうございました。


2020年3月28日 (土)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その3

コウグイスがいた時代
  本州などに分布するウグイスの学名について、エピソードも紹介しておきます。
 本州などのウグイスに学名がつくのには、キットリッツから20年たった1850年に成立したシーボルトの『日本動物誌』まで、待たなくてはなりません。
 江戸後期、日本に来た医師のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796~1866)がいます。シーボルトは、日本と交易のない国のドイツ人であるため、オランダ人と偽って入国します。現在で言えば、日本人が中国人と偽って北朝鮮に入国するようなものです。のちに、スパイの嫌疑をかけられ関係者は処刑され、シーボルト自身も追放されるという事件になります。
 しかし、シーボルトがもたらした近代医学の礎は、その後の日本の発展に大きく寄与したといえます。また、博物学にも造詣が深く、長崎に滞在した1823~1829年間に生物の標本を採集してはオランダに送ります。
 その集大成が『日本動物誌』と『日本植物誌』です。絵の黒い部分は石版刷り、色は職人の手で彩色されています。絵1枚で1種、解説文が別に印刷されています。これを一回に数種ずつ発行して、ですから、読者は完成してから製本して保存します。鳥編だけで1844~1850年の6年間、全体は1833年からで17年かかった大事業でした。実質的には、シーボルトの自費出版です。シーボルト家は、貴族階級でそれだけの資産があったことになります。
 また、動物の学名を整理して命名したのは、オランダのライデン博物館のコンラート・ヤコブ・テミンク(1778~1858)とヘルマン・シュレーゲル(1804~1884)です。2人は、シーボルトに雇われて関わりました。
 『日本動物誌』は、近代日本の生物学の礎とも言える書物ですが、日本には数セットしか現存していません。
 私は一度、『日本動物誌』のオリジナルが古書展に出品されると聞いて、見に行ったことがあります。さわることができないため、古書店に方にページをめくってもらいました。大きなことと100年以上たっているにも関わらず、退色することのない石版刷り手彩色の美しさに魅せられました。もはや書籍ではなく芸術品だと思いました。バブル後期でしたが、このときの値段が500万円。もちろん買えませんが、高級外車より安い値段に物の価値とは何なのだろうと思ったものです。
 また、昭和初期の1934~1937年に植物文献刊行会によって復刻された版を持っています。復刻版と言えども、私の蔵書のなかでもっとも高価な代金を払い入手した本となります。
 この『日本動物誌』の制作作業のなかで、トキにIbis nippon、後にNipponia nipponという学名がつけられました。また、前掲のアカヒゲとコマドリの学名の付け間違いも起きています。どうも、テミンクとシュレーゲルの仲があまりよくなく、連携が取れていなかったためという説もあります。
 現在のドイツは、ユーロ圏はもとより世界のリーダー的な存在です。GDP(国内総生産)でみると、ドイツは4位、オランダは18位と大きな差があります。ところが19世紀のオランダは、東南アジアを中心に植民地を持ち、イギリス、スペインなどと並ぶ列強国のひとつでした。それに対しドイツは、植民地政策で遅れをとり格下。また、日本と国交のないドイツの医師シーボルトが交易のあったオランダ人と偽って日本にきています。
 こうした当時の世界情勢のもとオランダ人のテミンクとシュレーゲル、そしてドイツ人のシーボルトの関係には軋轢があって、それが間違いにつながったのではと想像してしまいます。
 ところでいくら『日本動物誌』を見ても、ウグイスが載っていないのです。
 よく探すと、Salicaria cantillansSalicaria cantansという学名がついた鳥がどうもウグイスのようなのです。ウグイスの雄と雌の大きさが違うことから、雌雄を別の種類として命名していたのです。
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 Salicaria cantansとされているウグイスの雄
     
Bushwarbler
Salicaria cantillansとされているウグイスの雌   

 学名は、日本から送られてきた剥製を根拠に考えられました。剥製は、内臓を抜き取り防腐剤で処理しているか、塩漬けの状態です。魚を分類するのに干物を元に行っているようなものです。ですから、卵巣があるか精巣が残っているかなど雌雄を判断する材料はなかったことになります。ちなみに、オオルリも雄と雌で別種として記載されています。
  のちに雄の学名のcantansが、本州のウグイスの亜種名のとして採用され現在にいたります。ちなみにcantansは、「歌う」にちなんだラテン語です。学名をつけたテミンクは日本に来ていませんし、ウグイスの鳴き声を聞いたことはないはずです。シーボルトは、1830年に帰国し1859年に再来日しています。帰国中は、『日本動物誌』の制作に関わったはずで、日本で聞いたウグイスの声を思い出しながら学名をテミンクに提案したのかもしれません。(つづく)

 Philipp Franz von Siebold 1844~1850 Fauna Japonica.(シーボルトの『日本動物誌』は昭和9年(1934)に発行された植物文献刊行会のものを参考にしています)
福岡県立図書館では、シーボルトコレクションとして内容を公開しています。下記URLで閲覧できます。
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/001/dou_index.html

 

2020年3月27日 (金)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その2

 キットリッツがハシナガウグイスにつけた学名は、Sylvia diphone。その後、属名のSylviaは何度か変更され現在のCettiaに至ります。
 なんとウグイスの種小名は、小笠原の亜種ハシナガウグイスのものだったのです。なお、diphoneのdiは2です。mono、di、tri、tetraのdiです。phoneは、今では電話の意味として使われることがあります。しかし、当時はまだ電話は普及していませんので、元の意味の”音”でよろしいでしょう。ですから、2つの音という命名です(久保順三・1991)。
  ウグイスの「ホーホケキョ」はどう聞いても4音、2つ以上の音があります。そのため、この学名と合致しないのが気になっていました。
 思い出してください。方言のところ(122ページ)で書いたように小笠原のハシナガウグイスのさえずりは「ギーチョン」や「ギーホッ」と聞こえ、2音なのです。キットリッツが命名したのは、ハシナガウグイスなのですから、2つの音という意味で合致します。キットリッツは、実際に小笠原で生きたハシナガウグイスの鳴き声を聞いて、学名を付けていたのです。
 当時の多くの分類学者は、採集人が取ってきた標本を元に学名を付けました。そのため学名の意味は、色や形になりがちです。鳴き声由来の学名は、命名者が実際に見聞きした証拠となります。
  現在、ハシナガウグイスの亜種名まで表記すると、Cettia diphone diphoneです。
 本州などのウグイスの亜種名は、Cettia diphone cantansとなります。ハシナガウグイスのように、種小名と亜種名が同じ亜種を基亜種といいます。ウグイスの場合、ハシナガウグイスが基亜種となります。これは、亜種のなかで最初に学会に登録されたものが基亜種となるためです。
 多くの場合、分布が広く数の多い亜種のほうが先に学名がつけられることあるため、基亜種は普通にいる亜種となります。しかし、小笠原だけというたいへん分布の狭いところにいる亜種が基亜種になることもあるのです。
 私は、1988年にロシア(当時はソ連)のサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)に行ったことがあります。大きな博物館があって、現地の鳥類学者とタイガに野宿に行ったりしてバードウォッチングも楽しんできました。そのとき、オガサワラマシコの標本を見せてもらいました。世界に11体しかなく日本にはない標本なのですから、とても緊張して見たのをおぼえています。このとき、この博物館にはキットリッツが採集したハシナガウグイスの標本もあったはずですが、そこまで気が回らず、今思えば残念なことをしました。(つづく)
参考文献
久保順三 1991 日本鳥名ノート・改訂版 鎌倉自主探鳥会

2020年3月26日 (木)

『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』-増刷御礼・その1

 去年の5月に発行された『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』が、増刷されました。本が売れない時代にもかかわらず1年もたたずの増刷は、たいへんありがたいことです。
 本書は、中学生が読者対象ということで、表現はもとよりボリューム的にもいろいろな制約がありました。実は、収録した原稿の1.5倍ほどを書いています。全体に少しずつカットした部分とごっそりとネタそのものを削った項目があります。
 増刷御礼として、このカットしたネタをアップします。『鳥はなぜ鳴く?ホーホケキョの科学』の読了後に重ねてお目通しいただければ、より内容を楽しむことができると思います。
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ウグイスの学名は誰がつけたのか
 現在のウグイスの学名は、Cettia diphoneです。学名であることを示すために、斜体をかける=イタリック体で表記します。
 まず、人が発見した生物の種には、バクテリアでも哺乳類でも学名がつけられています。学名を付けることで種としての定義されます。たとえば、イヌはちいさなチワワから大きなセントバーナードまでいますが、学名はすべてCanis lupusとなり1種です。ちなみに、私たちヒトの学名は、Homo sapiensです。
 学名は、ラテン語で属名と種小名の2名連記で表記します。なお、亜種は3名連記となります。
 この学名を提唱したのは、スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(1707~1778)です。リンネは、うぬぼれが強く人間的にはあまり評判の良くなかった人物でしたが、学名の命名法を考案した功績は大きなものがあります。生き物を分類するという基礎の基礎は、その後のダーウィンが進化論を発想するなど、生物学の発展の契機となっています。それに、今から200年以上も前に提唱されたシステムであるに関わらず、今も有効なのですからリンネに感謝です。
 さて、学名は先につけた方が優先されます。こうした交通整理を動物の場合は、動物命名法国際審議会が行っています。これにより、同じ学名がいろいろな生物に付けられないように管理されています。また、一度学名を付けると基本的には変えることはできません。ですから、アカヒゲの種小名にkomadori、コマドリはakahige、ミゾゴイにgoisagiとつけ間違ってもそのままです。ただし、分類学の発展によって属が変わり学名が付け替えられることもあります。
 もし、私が新種を発見したとします。
 発見者の私には、学名をつける権利があります。ですから、自分の名前を付けることも可能です。基本的には、命名者として名前が残ります。この文明が存在する限り自分の名前が残ることになります。生物学を志すものとしては、新種発見は夢です。
 ただ、新種として認めてもらうためには、ちゃんと論文を発表しなくてはなりません。さらに、これが新種発表の元になった標本、これをタイプ標本と言います-を残すことも必要です。あとから誰が見ても新種であると証明できる客観的な証拠を残さなくてはならないのです。
  さて、diphoneの学名を使ったのは、ドイツ人貴族の博物学者のハインリッヒ・フォン・キットリッツ(1799~1874)です。
 キットリッツは、1828年5月1日から2週間、小笠原諸島に滞在して鳥を採集します。これは、ロシア船による4年近くに渡る航海の途中のことで、まだ大航海時代の面影の残るクルーズです。当時の小笠原は、捕鯨の基地の役割を果たしていました。また、この時代、ロシアは捕鯨大国でした。
 この頃の日本は、まだ江戸時代で鎖国政策のまっただなかです。西郷隆盛が生まれ、葛飾北斎が『富嶽三十六景』を描きはじめ、庶民の間に伊勢神宮に集団でお参りにいく、お陰参りが大流行した頃です。
 なお、アメリカのペリーが浦賀に黒船4隻とともに、やって来たのは24年後の1853年のことです。いかに、キットリッツの小笠原来訪が早い時期であったか、わかると思います。
 このとき、キットリッツは、絶滅したオガサワラマシコも採集しています。オガサワラマシコの標本は、このキットリッツら採集した11体しか現存していません。それだけ、あっというまに絶滅してしまったことになります。
 キットリッツは、オガサワラマシコにも学名をつけて発表するのですが、2年前に発表されていて先取権を奪われます。しかし、セントペテルブルグの帝国大学理学部の学会誌に発表した小笠原のウグイス、ハシナガウグイスの学名の命名は、世界で最初となり認められます。1830年のことです(黒田長禮・1927)。
 当時の日本の学校と言えば寺子屋で読み書きそろばんを習い、藩校で武芸と四書五経を学んでいた時代です。しかし、すでにヨーロッパでは大学があり、近代科学への道を歩み始めていたのです(つづく)。
参考文献
黒田長禮 1927年 『日本鳥学発達史』 自然科学Vol.2, No.2:20-57 改造社

2019年12月17日 (火)

ジョウビタキの課題

 気になっているけど、なかなか確かめられないことがいくつかあります。
 場所によってジョウビタキの雌と雄の出会いの頻度の違いです。私は、東京で六義園、栃木県の日光でバードウォッチングをする機会が多いのですが、この2ヶ所を比較しても雌雄の偏りがあると感じています。いずれもカウントしての比較ではなく、あくまでも個人の印象です。
 たとえば、都心の文京区にある六義園では、ジョウビタキは雌のほうが多いのです。もちろん、雄もいないわけではないのですが、ざっと印象として雌3~4羽に対して雄1くらいの割合です。現在、六義園には1羽のジョウビタキがいます。中之島を中心になわばりをかまえているのは雌です。
 それに対して、日光の所野の住宅地や大谷川の川原で会うジョウビタキは雄の方が多いのです。先週末の日光では、大谷川の川原であった2羽はいずれも雄でした。写真は、そのうちの1羽です。
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  1984~1991年の六義園のセンサスデータをチェックしたら、ほぼ毎年ジョウビタキを記録しているものの雄はわずかの2例しかありませんでした。7年間ありますので、ざっと雌5:雄2で、実感に近い比率となります。
 日光では、センサスをしていないのであくまでも印象となりますが、数字的には逆となります。日光以外の東京周辺の記憶をたどると、北本自然観察公園では雄が多かったと思います。葛西臨海公園や芝川第一調節池は、5:5の印象です。観察記録と写真記録をざっと見た感じです。ただ、写真記録はきれいな雄のほうが熱心に撮っていますので、あくまで参考です。
 なぜ、都心に雌が多く郊外から地方は雄が多いのか。勝手に推測します。
 実は、雌が強く暖かくて食べ物の多い都会を占領しているためで、雄は追い出されて都心に入ってこられないというのはいかがでしょうか。
 もう一つ考えられるのは、警戒心の薄い雌が人の多い都心でも生活できるけれど、警戒心の強い雄は入ってこられないということも考えられます。というのも、六義園と日光では、ジョウビタキとの距離に違いがあります。日光で出会うジョウビタキは雌雄に関わらず警戒心が強く近づかせてくれません。また、六義園で見られる雄は近くまでやってきてくれます。
 などなど、まだいろいろな推論が考えられると思いますが、ご参考にしてください。
 ということで、日本野鳥の会では「見つけて!”ジョウビタキ”」キャンペーンがはじまりました。URLです。
   https://www.wbsj.org/activity/event/dr-campaign-201912/
  ジョウビタキを探して、寄付をすると可愛いジョウビタキのバッチがもらえます。ジョウビタキ好き、ピンバッチ好きにはたまらないキャンペーンです。
 私は、ジョウビタキの声紋表示で協力いたしました。ちなみに、動く声紋です。是非ご覧ください。

2019年12月 8日 (日)

カモ類の変遷を絵はがきから探る-上野不忍池

  六義園では資料となる絵はがきの点数が少ないので、説得力にかけます。
  ということで、絵はがきの多い上野不忍池で調べて見ました。
  まず、私が撮った1974年2月9日の写真です。

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 当時は、オナガガモがこのように多かったのです。上野動物園の飼育係の人がボートを出して餌を撒いていました。その時間をあらかじめ聞いての撮影でした。こうして、集まるのはほとんどがオナガガモで、少し離れたところにオシドリが数10羽いて入園者が与える餌をもらっていました。この他、キンクロハジロとホシハジロは池の真ん中に集まり寝ているというのが不忍池の風景、当時は池中がカモであふれているという印象です。
 1970年代の不忍池は、カモ類が多かっただけにトモエガモ(1973年)、アカハジロ(1973年)、クビワキンクロ(1977年)などの珍鳥も記録されています。
 ということで、絵はがきを調べて見ました。「不忍池 絵はがき」で画像検索すると、今度はたくさんありすぎて見るのがたいへんでした。横書きの文字が右から書かれていますので、少なくとも戦前、紙質や印刷の具合から昭和初期ではないかと思います。写真製版が一般的になり、絵はがきも普及した時代ということにもなります。
 博覧会などのイベントや蓮が茂った夏の風景をのぞき、雪景色やバックの木々の枯れている風景を探しました。
 それでも、かなりの点数になるのですが、カモの群れは写っていませんでした。

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 蓮池の東側の北端から、弁天堂をのぞんだ風景です。現在、いつも屋台が並んでいるところです。蓮が枯れていることから冬から春ですが、カモは見当たりません。

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 かろうじて、カモが写っていたものです。タイトルも「不忍雪の鴨」です。弁天堂あたりだと思います。右手手前にいるのはマガモのように見えます。中央は背中まで白いので、ホシハジロでしょうか。マツの頬杖の根元にいるお腹の白い小型のカモは何でしょう。この他は、特徴がわかりにくいカモの雌のようです。この1枚が、いちばんカモが写っていた絵はがきとなります。
 不忍池のカモの増減については、上野動物園による餌撒きの影響がかなり大きいと言われています。小宮輝之さんの『動物園ではたらく』(2017)によると、カモへの給餌は戦後の古賀忠道さんが園長の時代にはじまったそうです。1958年からはじまり、10年ほどでオナガガモが集まりはじめたとのこと。ということは1968年頃にオナガガモが集まり始めて、1970年代にかけて多かったことになります。
 ですので、絵はがきのように戦前の不忍池は、それほどカモは多くはなかったと推測されます。
 話は、いっきに江戸時代に飛びます。

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 歌川広重の『絵本江戸土産』の「不忍池」です。『絵本江戸土産』は、1850(嘉永3)年から1867(慶応3)年にかけて制作されていますから、江戸後期の風景です。当時、流行った鳥瞰図で上から見たように描かれています。以前、池之端の料理屋の5階から見たら、同じように見えました。江戸時代は、見ることのできないアングルのはずですが、見事に描かれています。
  池の中には、弁天堂に続く道があるだけで、現在のように池が3分割されていません。上に書かれた文字には「(前略)冬は鴨雁蝿の如く水に戯ぶれ、浪に遊ぶ(後略)」と書かれています。カモやガンがハエのようにいたことになります。水面の点々は、ガンやカモなのでしょう。「浪に遊ぶ」という粋な表現と「蝿のごとく」のミスマッチが、江戸風なのでしょうか。
 いずれにしても、江戸時代の文献を見ると、江戸市中の赤坂の溜池などの池には、ガンやカモ、そしてハクチョウが多数渡来していたように伝えられています。
 ツルやトキが乱獲されていなくなった明治から大正の狩猟の暗黒時代は、ガンカモ類にまで及んでいたのかもしれません。
 わずかな資料からいろいろ推測する楽しみに、このところ惹かれています。
 おつきあいありがとうございます。

2019年12月 7日 (土)

カモ類の変遷を古い絵はがきから探る-六義園

 今年は、六義園に渡来するカモ類は、ここ数年では多いほうです。
 写真は、昨日の吹上浜から見たようすです。キンクロハジロが優占していて、ホシハジロが混じり、マガモが多めでハシビロガモもいます。カルガモは、紀ノ川のほうに10数羽いて、合計で100羽前後になります。
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 これでも、かつてのキンクロハジロの最多数2,570羽(1989年12月2日)に比べれば、寂しい感じがします。そのときは、この水面がキンクロハジロで真っ黒となり、マガモやオナガガモは芝生の上に追いやれていました。
 当時は、キンクロハジロが多かった上に東京湾での銃猟が行われており、狩猟解禁の11月中旬より急激にふえるために内陸に避難してくるのではないかと推測していました。
 鳥の記録のある戦後だけでも、優占種がヒドリガモ→オナガガモ→キンクロハジロ→カルガモ、そして現状のキンクロハジロと変化しています。
 戦前の状況は、どうだったのか記録がないだけに推測するしかありません。
  以前、六義園の開園当時の古い絵はがきをネットオークションで手に入れました。
 岩崎家から東京市(当時)に寄付され開園したのは、1938(昭和13)年10月16日ですから81年前のこと。開園を記念して作られたとされている絵はがきは、現在3種類見つかっています。写真は、開園当時のものと考えて良いでしょう。いずれも池を中心に撮影されていますので、カモが写っていないかチェックしてみました。
 
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 1枚目は、昨日撮影したところの反対側から写した吹上茶屋を中心にしたアングルです。今もある大イチョウは空が透けて見えますから、落葉しているので秋から冬です。しかし、カモの群れは写っていません。ちょうど、吹上茶屋の前あたりに2つ水面に浮かんだものが見えますがカモでしょうか。少なくともカモの群れはいません。

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 2枚目は、昨日撮影したところとほぼ同じところからやや左にアングルをふって撮影されています。奥の建物は心泉亭ですが、建物は今より小規模です。多くの木々が茂って見えるほか、手前のヨシが芽吹いてきているのがわかります。現在ですと、4月下旬から5月初旬の感じです。キンクロハジロの終認は比較的遅く、連休過ぎのこともありますので、いれば写っている可能性があります。しかし、それらしい姿はありません。

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 3枚目は、出汐湊から中之島に渡る仙禽橋を中心した風景です。手前や右奥にある何本もの頬杖で支えられたクロマツは、今はありません。この風景から季節を推し量るのは難しいですが、木の茂り具合、芝生に落とすクロマツの影の濃さから初夏から夏の印象です。もし、カモがいたら繁殖の可能性のあるカルガモですが、残念ながら写っていませんでした。
 たった3枚、冬らしい風景は1枚ですから、そこから戦前の六義園にはカモ類はいなかったと結論つけることはできません。しかし、当時の東京のカモは少なかったのではないという話を次回は上野不忍池で検証してみます。(つづく)

2019年8月20日 (火)

ササゴイ幼鳥の声か-六義園

 昨夕、ハシブトガラスがネグラに集まり、セミたちの鳴き声が静かになってきた時刻、午後7時頃のことです。六義園から聞き慣れない声が聞こえてきました。1声鳴いては長い間があって、また1声。これならば、録音ができそうと準備をしました。PCM-D100で録音、目的の音を増幅、1,500Hz以下ノイズのカット、2,200Hz以上の音をカット、ノイズリダクションをかけています。

 「キュ」と聞こえます。ハシブトガラスの鳴き合う声とセミの合唱の中という録音的には轟音のなかに、ときどき聞こえて来るのですから難題です。それも長い間があって、鳴きやんだかと思うとまた鳴いています。全部で5,6声聞こえました。ここにアップした2つの鳴き声の間は、実際は10分ほどの間が空いているのを詰めています。
 はじめの印象は、アオゲラの地鳴きに聞こえました。日没時間は過ぎている上に曇りでかなり暗い六義園ですので、昼間の鳥というより薄暮性から夜行性の鳥の可能性があります。そのため、アオゲラは却下です。思い浮かんだのは、ササゴイです。
 ただ、ササゴイの一声鳴きの「キュ」あるいは「キョ」と聞こえる音は、頭のほうが1,600Hzで終わりのほうが400Hzと幅のある声です。この鳴き声は、2,200Hzから1,600Hzと幅はありますが、一段高い音です。ただ、頭から後ろにかけて音が下がる声紋のパターンはよく似ています。
 このシーズン、六義園にササゴイがいるのでしょうか。
 ということで本日、六義園に行きました。常連さんたちの情報では、一昨日と昨日にササゴイがいたとのこと。また、写真を撮ったというM上♂さんに写真を送ってもらったら、写っていたのはササゴイの幼鳥でした。
 昨夕の鳴き声が写真を撮られたササゴイとすると、音が高いという違いは幼鳥のためだった可能性があります。今後、ササゴイの幼鳥の鳴き声を聞いて確認できる機会があると思います。そのときのチェックポイントとなります。
 いよいよ野鳥たちの移動の季節になりました。
 M上♂さん、写真をありがとうございます。
 

 

 

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