徒然

2022年4月21日 (木)

日本野鳥の会名誉会長・柳生博さん-訃報

 日本野鳥の会の元会長、柳生博さんがお亡くなりになりました。
 素面のときは「松田さん」、酔うと「お~い、松田」というつきあいをさせていただきました。
 ちょうど、柳生さんが会長になった2004年に評議員になり、その後、評議員議長、理事と歴任した間、会長としてお世話になりました。
 とにかく日本野鳥の会にお金がないのを知っての会長就任でしたからノーギャラ、さらに他の仕事で地方に出向いた際には地元の支部と交流の機会を作るなど、日本野鳥の会に負担のかからない心遣いをしていただきました。結果、歴代会長のなかで、もっとも地方まわりをした会長になったのではないでしょうか。
 柳生さんの楽しみは、理事会のあとに懇親会でした。とにかく、私たちに囲まれて飲んで話をするのが楽しそうで、この人は自然や鳥も好きだけど、人も好きな人なんだとつくづく思いました。
 ただ、お酒が入って話が長くなるのは人の常。気が付くと午後6時から始まった酒宴は10時になっていることもありました。役者だけに話がうまくて面白いのですから、時間のたつのを忘れます。
 アニメ「ルパン3世」の峰不二子の声優だった奥さんのほうが先に売れてしばらくはヒモ状態だった話とか、最初の映画出演でたった一言の台詞にOKが出ないで苦労した話、軽トラでスタジオに行ったらガードマンに「業者は向こう!」と間違えられた話などなど。
 こうした話が切れ目なく続くのですから、あっと言う間に時間がたってしまいます。それにしても、話の多くを覚えているのは、私は素面だったことになります。
 思い出はつきませんが、柳生会長にはたいへんお世話になりました。感謝の言葉しかありません。
 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 写真は、日本野鳥の会の役員会にて。田村剛さんと柳生さんの両巨頭に囲まれた私です。

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2022年3月12日 (土)

蹴ったのはイヌでした-日光

 先日の記事「蹴られた録音機-日光」の後日談です。
 日光在住の録音仲間から、記事を読んでメールをもらいました。
 なんでも、近所の方から「林のなかにあった機械を散歩中のイヌがいじってしまい、お詫びしたい。」と言われてしまったとのこと。私のブログを読んでいたため、場所と時間が一致するので、私の録音機であるとわかったそうです。
 ご近所さんは、ほぼ毎日この林道をイヌといっしょに散歩しています。私も挨拶をしたことのある方でした。何年か前、散歩中にヤマザクラの実を食べるツキノワグマに遭遇して以来、イヌに熊鈴をつけているそうです。ですから2人連れではなく、イヌに話かけているために2人いるように聞こえたことになります。
 録音機は、林道から一段上がって数m林に入った地面に置いてありました。林道を歩くイヌには、それでも録音機の臭い、あるいは私の匂いを嗅ぎつけて興味を持ったことになります。それにしても、イヌの嗅覚の鋭さに感心いたしました。
 まずは、木の上などイヌの近づけない場所に縛り付けるなど、一工夫することにします。
 タイマー録音や長時間録音については、歴史が短くどのようなことが起きるか、まだわからないことあります。鳥に影響を与えることが少ない、簡単にデータを収集できるというメリットはありますが、デメリットもあることを知っておいて欲しいと思います。たとえば、自分の家の庭に録音機が置かれてあったらいやですものね。キャンプ場など施設での設置では、了解を得るようにしています。ただ、説明しても理解してもらえず、快諾を得られず不承不承ということがありました。知人は、お寺の境内で断られたこともあります。また、自然のなかの施設では連絡先が不明であったり、とれないこともあって、そうした場合どうするのかなど、課題もあります。
 広い自然のなかでのびのびと録音する、貸し切り状態での録音が理想的ですが、狭い日本でのこと。トラブルは、避けられないかもしれません。これからもデメリットの情報を集めて発信していきたいと思います。
 こうしたアクシデントを避けるために、情報を寄せていただきたいと思います。 

2022年3月 5日 (土)

蹴られた録音機-日光

 抗がん剤の休薬週間なので、体調もなんとか持ちそう。と言うことで、久しぶりの日光に行って来ました。
 いつものお気に入りの雑木林にタイマー設定をした録音を2台仕掛けて置いて翌日、回収に行きました。ところが、石の下に置いたはずのDR-05がむき出しとなり、布製のジャマーがはずれていました。
 写真は、前日の夕方に置いたときの状態です。2個の平な石を重ねて置き、マイク部分が出ています。
Recorder1
 翌日の状況です。石から飛び出した感じになり、録音機からジャマーが外れています。
Recorder2
 ケモノだと、キツネ、タヌキ、テンならば石を動かせそうです。鳥だと、ハシブトガラスができるかできないか微妙なところです。
 ということで録音中に原因が録音されていないか、チェックしました。なお、タイマー設定は午前5時から8時までの3時間です。
 録音されていたのは、なんと人でした。DR-05で録音、大きな音は削除しています。100Hz以下のノイズを軽減しています。

 どうも、男性2人連れの登山者のようです。クマ鈴の音がします。この季節は、まだ山菜は出ていませんので、良い天気に恵まれての山歩きでしょう。録音機は、林道から数mは入ったところに置いています。ですから、林道を歩いていて見えるところではありません。ただ、置いた近くにピンクのテープを小枝に結び付けてありますので、それで気が付いてしまったようです。
 「なんだこれ!」と言って、石を足で蹴ってどかして、下の録音を蹴り出してしまったようです。時刻は7時50分のこと、タイマー録音の残り時間わずか。幸いにして録音には、ほとんど影響ありませんでした。
 日光で、野生動物のためにトレイルカメラを置いて調査をしている知人によると、カメラの盗難が多いとのことです。そのため、ワイヤーで厳重に縛り付けるのだと聞いています。それだけに、持って行かれなかっただけでも幸いです。
 私自身の油断も反省しています。この道の先には別荘が2軒あり、どちらも顔なじみです。私からは良い録音ができるとCDを上げたり、住民からは落としたジャマーを拾っておいてくれる仲です。20年前は、この林道で登山者にときどき会いましたし、ハンター、山菜採りにも出会いました。しかし、先の道が消えかかっているので登山者が来ることもなくなり、日光のハンターは高齢化、山菜採りは福島原発の事故以来、激減しています。ですから、2軒の別荘の住民以外出会ったことはなく、人の来ないところと思っていました。
 どんなところでも対ヒトの対策を考えておくことと、再認識いたしました。
  

2022年2月24日 (木)

秋山孝さん-訃報

 「さすがに美術系の大学生はおしゃれだなあ」というのが、秋山孝さんに初めて会ったときの印象です。私は当時(1979年頃)、日本鳥類保護連盟の職員でした。バードカービングを普及させるためにどうしたら良いか思案しているときに紹介されたのが、秋山さんでした。
 当時は、彫りを桒山賀行さん、塗りを秋山さんが分担して行い、日本で最初のバードカービングを制作して入門書を制作いたしました。この作品は、展示会があるとよく使われましたが、日本鳥類保護連盟が剥製を飾って良いのかというクレームが付くほどのできでした。その後、バードカービングが普及し現在あるのも、すべて秋山さんが作ったこのモデルからスタートしたことになります。
 残念なことに昨夜、日本バードカービング協会の水上清一さんから、秋山孝さんの訃報が伝えられました。秋山さんの出身地であり、彼の秋山孝ポスター美術館長岡のある地元の新聞記事の訃報記事です。
  https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/27935
 今思えば、連盟で私がバードカービングの仕事ができたのは、ひとえに秋山さんの存在が大きかったと思います。とにかく、バードカービングがどんなものかわからず新しい事業をすることに後ろ向きな専務理事や事務局長がしきっていた連盟でした。ところがバードカービングに関わり、作品が完成、入門書の発行、展示会や教室の実施、制作キットの販売とどんどん展開していったのですから、文句を言えない雰囲気を作ることができました。これらの多くが秋山さんの援助とお仕事です。おかげで、私はバードカービングだけでなく他の仕事である干潟の保護などについても自信を持って取り組むことができるようになりました。
 そして、バードカービングは内山春雄さんや水上清一さんなどのプロが成り立つ世界となりました。そして、コロナ禍のなかコンクールの実施は困難になっていますが、東京都美術館で盛大な展示会ができるまでになりました。
 若い頃、秋山さんは「俺はメジャーになる」と言っていました。私は、なんで人間が巻き尺になるのかと思ったものです。メジャーとマイナー、そんな言葉も知らないで仕事していました。彼は言ったとおり、雑誌『じゃらん』の表紙をイラストで飾り、出身地の長岡市には秋山孝ポスター美術館長岡が建てられ、多摩美術大学の教授になりました。彼の言ったとおり、私の知人のなかでもっともメジャーになったことになります。
 ごく一部の人に受け入れられる趣味の世界、マイナーな業界で生活してきた私にとって、秋山さんは地球という広い世界、一般社会で仕事をした憧れの存在でした。これからも、秋山さんから刺激を受けて、少しでもメジャーになろうと思っていただけに残念でなりません。
 心の底からご冥福をお祈りするとともに、深く感謝いたします。
 20年前のバードカービングコンクール会場にての写真です。
Akiyama2000

2021年12月26日 (日)

森田三郎さん-訃報

 森田三郎さんの訃報が伝えられてきました。
 毎日新聞では11月11日にお亡くなった記事があり、昨日(12月25日)の朝日新聞に追悼記事が掲載されているのをFacebook情報で知りました。朝日新聞の記事のURLです。リンクが切れる可能性がありますので、早めにご覧ください。
 https://www.asahi.com/articles/ASPDR76RBPDQUDCB009.html?fbclid=IwAR1Yhx1fKWt -og_ROO_qZSqs0bXb4J6E7FnMmtcnc8MUHETy6An8JBZObI
 青春時代を同じ場で過ごした者として、思い出話を書いてみました。
 千葉の干潟を守る会に参加したのは活動が新聞に紹介され、それを見た森田さんが代表の大浜清さんをたずねたのが始まりです。大浜さんから、たのもしい仲間が参加してくれるようになったと毎週集まっていた菊田公民会で紹介があったと思います。当時、大浜さんは平凡社の労働組合から出版会社の組合運動を行っていました。そうした流れのなかで自然保護運動に関わっていたことになります。ですから、森田さんは新聞配達をやっている勤労青年という運動にはもってこいの仲間ととらえたようです。ちなみに当時は、若い労働者の集まりなどが、もてはやされていた時代でした。
 私は、何度か谷津干潟や埋め立て地で森田さんに鳥を教えたことがあります。彼は、1,000を超えるコアジサシの巣を見つけて、その位置を地図にするような作業をしてくれました。調査の前にシロチドリの巣との区別を教えたのですが、区別することなく調べてしまい、結果データ的にはもったいない記録となってしまいました。どうも科学的にとらえることは、得意ではなかったようです。
 当時としては熱くて感情のままに保護運動を行った情熱家として、もてはやされたことになります。しかし、習志野市長室にゴミをぶちまける暴挙をのちに行うなど、すでにトラブルの根がありました。
 現在の津田沼高校から先は広大な埋め立て地が広がっていました。その埋め立て地の水たまりでセイタカシギが繁殖したことがあります。今ではセイタカシギは東京湾各地で繁殖していますが、最初の記録となります[注1]。見つけた森田さんは「俺のセイタカシギ」という認識でした。日本で数例目の繁殖であり、まだ謎の多いセイタカシギの生態を調べ保護するために、後輩たちが標識用の脚輪を付けました。ところが、俺のセイタカシギに脚輪を付けたということで後輩が殴られる事件となります。脚輪についての説明不足などあったかもしれませんが、暴力を振るのは論外です。この事件から、私たちとも決別したといってもよいでしょう。
 また、同輩が彼の家に行ったら「国粋主義的な本が並んでいた」とびっくりして話てくれました。そして、革新的な大浜さんとも決別していくことになります。
 彼が人が変わったと感じたのは、森田さんが新聞の記事になってからではないと思います。当時、マスコミの取材がたくさんありました。おもに大浜さんや石川敏雄さん(千葉大学名誉教授、千葉県自然保護連合代表)、ときに私が対応しましたが、対応できないときに大浜さんが森田さんにふったことがあります。どうも、これがいけなかったようです。当時、自然保護を訴えるため新聞に載るのは、仲間では当たり前のことでした。しかし、森田さんにすれば今まで自分が配っていた新聞に自分の記事が載ったことになります。舞い上がったというか、その後はこうした記事になるように意図した活動が多くなったと感じます。
 現在、Googleで「森田三郎」を検索すると「“たったひとりで谷津干潟を守った”はウソだ!三番瀬」が上位に出てきてしまいます。これは、2009年12月8日に放送されたNHKのドキュメント番組への反論です。また、検索の下位には『どろんこサブウ-谷津干潟を守る闘い』(松下竜一・1990)[注]、『わが青春の谷津干潟』(本田カヨ子・1998)と彼を取り上げた著作のタイトルが上がってきます。いずれも彼一人が谷津干潟を守ったような内容のNHKのドキュメント同様、彼の本質に迫るものはなく、美談で終わっているのは残念です。番組では企画段階、出版の企画では原稿段階で本人のチェックを受けているはずです。谷津干潟は多くの人が関わり、その努力の結果、残ったのだと私は確信しています。このことをなぜ彼から言って、活動の事実を伝えようとしなかったのでしょうか。もし、「皆さんの活動のおかげもあって谷津干潟が残った」の一言があれば彼の評価も変わったことと思います。
 森田さんは、何が問題なのか仲間で話し合ったことがあります。結論のひとつは、コンプレックスの人という評価でした。とくに学歴についてのコンプレックスが強かったと異口同音に言われました[注3]。たしかに、大浜さんはじめ活動に参加した大人たちはインテリでしたが、誰がどこの大学を出たかなど私は知りません。私たち東邦大学生は、無名の大学に在籍しているコンプレックスさえありました。
 しかし、私が彼から言われたのは「学生は昼からマージャンをしている。もっと干潟を守るために活動すべきだ」です。彼の頭のなかには、学生はヒマで金があり、昼からマージャンをしていると思い込んでいました[注4]。
 その後、干潟の保護運動は全国に広がり干潟シンポジウムの実施、さらにはラムサール条約の登録湿地など国際的な活動と展開していきます。また、谷津干潟の保護については谷津干潟自然観察センターが自然観察会はもとより干潟まつりや講演会などのイベント、ゴミからアオサの回収などの環境管理を行ってきました。しかし、こうした場に彼が来ることはありません。
 森田三郎さんが、谷津干潟で何をしたかったのか?こうして考えると、わからなくなってしまうのは、私だけでしょうか。
2112261
 写真は、まだ造成前の谷津干潟に森田さんが立てた看板。日本野鳥の会の名前がありますが、承諾はとられていません。愛国無罪の感覚で勝手にやってました。
 
注1:このセイタカシギについては、『セイタカシギ大空を飛ぶ―荒地に生まれた4つのいのち』 (1979・国松俊英)に詳しい。
注2:松下竜一さんに会うために大分県中津をたずねたことがあります。たいへん人見知りをする人で、著作の印象とは異なりました。ちなみに松下さんは、出版前に谷津干潟にも来ていませんし森田さんとは直接会ってはいないはずで、どれだけ交流があったか不明です。プロレタリア・エッセイストとも言える松下さんとしては、謎の仕事です。
注3:『わが青春の谷津干潟』(本田カヨ子・1998)によれば、森田さんは東洋大学文学部英米文学科に在籍、数ヶ月残して退学してます。退学の理由は、当時の学生運動による大学の荒廃にいやけをさしたためとなっています。今回、彼が学生であったのを始めて知りました。
注4:たしかにそういう学生もいたと思いますが、私は生涯マージャンをしたことはありません。それに、理系のため出席しないと単位を落とす実験が多く忙しかったのです。また、実験のない日は、渋谷の青山にできたばかりの日本野鳥の会の事務所に行って、野鳥誌の発送などのボランティアをしていました。同じボランティアのなかには、多摩川の自然を守る会、荒川の自然を守る会などの同じような学生が集まっていて、彼らが千葉の観察会や調査を手伝ってくれました。

2021年9月11日 (土)

入院していました

 8月15日より入院しておりました。予定の2週間が3週間となり一昨日、退院いたしました。
 コロナではありません。6年来の造血細胞のガンの治療で、新しい抗がん剤に変更するための監視観察のための入院でした。思った以上に過酷で、年寄りにはきつい治療もありました。
 そのため、ブログの更新やメールのご返事が滞り、ご心配をおかけし申しわけございませんでした。
 コロナ禍のなかの病棟は隔離状態で面会もままならず、独房に入っているようなものでした。一般病棟とはいえ、医師、看護師など医療従事者の方々の緊張感は、入院患者にもひしひしと伝わってまいりました。
 ですので、家に帰ってきて窓の外から聞こえるハシブトガラスの鳴き声やツクツクボウシの声が解放されたと実感いたします。
 今後も通院で治療を続けますので、ここしばらくはブログも事務連絡のみなるかも思います。どうぞ、あらかじめご了承いただければ幸いです。

2021年8月15日 (日)

8月15日はまだ野鳥録音の季節

 この長雨と寒さは、とても旧盆の最中とは思えません。それも、1週間続くかもしれないという予報なのですから、何かおかしな感じです。
 8月15日前後に野鳥録音をしていますし、けっこう成果をあげています。いちばん思い出深いのは、8月15日に義弟と男体山と大真名子の間にある志津小屋に泊まったときのことです。もう、さえずりのピークは終わったものと思っていましたが、朝はアカハラのさえずりで起こされました。小屋から出ると、森はルリビタキとコマドリの競演に包まれていました。ただ、日が昇り温度が上がるといっせいに虫が飛び始め、その騒音が凄かったことは忘れません。2001年のことで、まだDATで録音していた頃です。
 そのため、8月中旬でもまだ行けると、夏休みで混む日光のメインルートを避けては、録音機を仕掛けています。
 YAMAHA W24で録音、ボリュームの増幅、1,000Hz以下のノイズの軽減、ヒスノイズリダクションをかけています。 

 アカハラとウグイスの競演です。霧降高原のいつもの場所で、10年前の録音です。
 少しでもさわやかな高原のイメージが伝われば幸いです。

2021年7月30日 (金)

竹下信雄さん-訃報

 シバラボさんから、竹下さんの訃報が伝えられました。なんでも、シバラボさんは竹下さんの弟子だそうです。
 竹下さんは、6月9日に急逝されたとのことで81才。最近、お会いした安西英明さんからは、お元気だったと報告を受けたばかり、急な知らせに驚いています。
 日本野鳥の会が1970年に財団法人になって、はじめて事務局ができて職員を置くようになりました。この事務局の最初の職員3名のうちのお一人でした。当時の青山通りには、ビルはなくあっても木造2階建てのしもた屋が並んでいました。国連大学や青山劇場は、都電の車庫の跡地で広大な空き地が広がっていました。
 第一園芸もプレハブのような造りで2階建て。その隅に日本野鳥の会の事務所かありました。今思えば、倉庫に机と椅子を置いたような感じでした。
 ここに夕方になると、学生をはじめとする若者たちが集まって、議論をしたり野鳥誌の発送を手伝ったりしていました。私もその一人でした。狭い事務所に10人も入ると床がギシギシいって、竹下さんが「床が抜ける」と心配していたのを覚えています。また、若者たちが議論で盛り上がりつい大きな声になると竹下さんに「電話が聞こえない」とよく叱られたものです。学生たちからみれば、10才年上ですから大人から叱られた子どもの感じで、シーンとなったものです。ちょっと怖い存在であったと思います。
 竹下さんは、私たちがTシャツにGパンなのに、いつもスーツにネクタイをしていたのも竹下さんのイメージです。いちばんのお仕事は、中西悟堂会長との連絡役で秘書的な役割を果たしていたと思います。悟堂さんとのやりとりは『野鳥』誌の編集に関わることで、悟堂さんにとっては『野鳥』誌が命でしたから、さぞ神経をつかったことでしょう。竹下さんの辞めた後、事務局と悟堂さんの関係が劣悪になったことを考えると、竹下さんの存在が大きかったのではないかと想像しています。また、常務理事の奈良部博さんと企業周りをしていたのを覚えています。夕方、2人が事務所に戻ってきて「今日は大丈夫だ」「たぶんだめだろう」と反省会を開いていました。
 日本野鳥の会の事務局の黎明期、社会保障も不十分な事務所で、ご苦労されたことでしょう。日本野鳥の会の事務局がいまこうしてあるのも、竹下さんのような方がいたからこそ。大恩人のお一人であると思います。
 竹下さんが、あるとき「平家物語に出てくる渡辺綱が退治したのは、ヌエではないのを知っているか」と言われました。たしかに、怪物は「頭が猿、身体はは狸、尾は蛇、手は虎の姿。鳴く声ヌエにぞ似たりける」とあります。「あの怪物には名前がない、正体のわからないものを”ヌエ的存在”という言葉が、間違いを広めてしまった」とのこと。その後、野鳥誌のコラムにこのネタを書かれていたと思います。その前になっとくできるか、私にネタを披露してくれたことになります。
 それまで、てっきりヌエ=怪物だと思っていたので、びっくりです。それ以降、私のトラツグミの解説では「渡辺綱が退治した名無しの怪物の声」と書いています。いまだにトラツグミの解説で、怪物の名前だったと書かれているのを見ると、竹下さんのことを思い出しほくそ笑みます。

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 たぶん著作権のない写真ですのでアップします。もし、問題がありましたら削除いたします。1977年の日本野鳥の会全国大会・茨城です。後列右から3人目が竹下さんです。田久保晴孝さんと園部浩一郎さんの間に挟まれています。
 思い出はつきませんが、竹下信雄さんのご冥福をお祈りいたします。

2021年7月20日 (火)

西船橋のオオコノハズク-記憶

 オオコノハズクといえば、思い出すことがあります。
 それは、西船橋でオオコノハズクが鳴いているという情報です。
 まだ、東西線が西船橋まで開通したばかりの頃(1969年)、私の学生時代(1968~1972年)のことだったと記憶しています。
 情報元は、高野伸二さんです。当時の状況から私が学生で日本鳥類保護連盟の雑誌「私たちの自然」の発送のアルバイトに行ったときに聞いたことだと思います。
 たぶん「西船橋駅の近くのお寺でオオコノハズクが鳴いている。松田君は毎日、西船橋を通っているのだから行ってみたら」というようなことを言われたと思います。「どうやって聞き分けるのか」と聞くと「アオバズクは2声、オオコノハズクは1声の連続だからわかる」と言われたと思います。
 当時の総武線沿線は、本八幡駅から先は田んぼやヨシ原が線路際まで、広がっていました。下総中山駅では、オオヨシキリの鳴き声を電車の中から聞くことができたほどです。ですから、西船橋も今とは違って閑散とした駅でした。電車の中から見ると北側に小高い丘が続きマツの大きな木が続いていて、この林のなかにオオコノハズクがいるかもと思ったものです。
 記憶では、法華経寺と聞いたと思います。法華経寺が近くにあるにはあるのですが、下総中山駅のほうが近く、最寄りの駅は京成中山駅となります。ですから記憶違いかもしれません。この西船橋の丘の上にあるのは、春日神社となっています。神社とお寺では、大きな違いですが、50年以上前の記憶なのでご勘弁を。
 私は、高野さんの言うとおり毎日通っているのだから「いつか行けばいいや」との思いと、厳密にはいつの季節に何時頃行ったら良いのか、当時の知識ではわからず結局行かずじまいでした。
 また、いっしょに聞いたか私が話したか思い出せませんが、後に日本野鳥の会の職員となった柚木修さんが「それなら、行ってみる」か「行く」と言っていたのも覚えています。ライファーを稼ぎたい年頃でしたので、熱心な柚木さんのこと、行ったのではないかと思っています。
 残念ながら、高野さんも柚木さんもお亡くなりになり、今となっては確認のしようがありません。
 またその後、千葉県には日本野鳥の会の千葉支部や千葉県野鳥の会が発足しますが、西船橋のオオコノハズクの記録を見つけることはできませんでした。
 高野さんが言ったアオバズクとオオコノハズクを2声鳴きと1声鳴きで区別する方法は、他の人からも聞いたことがあります。「小さく低い声」というのが、オオコノハズクの鳴き声の特徴ですから、高野さんも聞いたことがなかったのでしょう。
 本来、里山の鳥のオオコノハズクですから、まだまだ里山や谷津田が残っていた1970年代の西船橋周辺にオオコノハズクがいてもおかしくありません。いずれにしても、オオコノハズクが身近な鳥であった時代にかろうじて私は生きていたことになります。今でも西船橋を通ると、このエピソードを思い出します。
 

2021年7月 8日 (木)

セグロカッコウとヤイロチョウは普通種だ

 「セグロカッコウとヤイロチョウは普通の鳥だ」と言ったら、ごうごうたる非難をあびそうです。
 でも、このところの野鳥録音の情報から、そんな印象を得るようになりました。
 ここ2週間ほど、福島県、神奈川県、山口県の野鳥録音を始めた方とメールのやりとりをしています。いずれの方もバードウォッチングの造詣は深く、野鳥録音を行い、もっと野鳥との関係を深めたいという意欲を感じる方々です。
 面白いことに、まず「セグロカッコウが録音できた」と報告がありました。「それでは、次はヤイロチョウですね」と半分冗談でメールの返事を送ると、なんと3名ともヤイロチョウも録音できていました。
 私自身、最初のセグロカッコウの録音は、粟島でアオバズク狙いの一晩録音に偶然入っていたものです。ICレコーダーのバッテリーとメモリのバランスがよくなり長時間録音が可能になったばかりの頃です。
 ですから、長時間録音が可能なICレコーダーで野鳥録音を始めると、昼間の録音ばかりでなく夜の録音もやってみたくなります。すると、セグロカッコウはもとより、ヤイロチョウも録音できてしまうことになります。
 以前のこの2種が録音できたと報告のあったのは東京都や栃木県などです。セグロカッコウだけ、ヤイロチョウのみという報告もあります。
 これらを加えれば、特定の地方に偏ることなく全国にばらついています。私に連絡をしてくる人は、ごくわずかだと思います。そのなかの3名が3名とも同じように録音できてしまうということは、ひょっとすると全国的にはかなり多い鳥になっているかもと思ってしまいます。
 ということで、野鳥録音の世界ではセグロカッコウとヤイロチョウは普通種と言うわけです。さらに、野鳥録音が普及すれば、これが常識になるとかもしれません。

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