徒然

2021年12月26日 (日)

森田三郎さん-訃報

 森田三郎さんの訃報が伝えられてきました。
 毎日新聞では11月11日にお亡くなった記事があり、昨日(12月25日)の朝日新聞に追悼記事が掲載されているのをFacebook情報で知りました。朝日新聞の記事のURLです。リンクが切れる可能性がありますので、早めにご覧ください。
 https://www.asahi.com/articles/ASPDR76RBPDQUDCB009.html?fbclid=IwAR1Yhx1fKWt -og_ROO_qZSqs0bXb4J6E7FnMmtcnc8MUHETy6An8JBZObI
 青春時代を同じ場で過ごした者として、思い出話を書いてみました。
 千葉の干潟を守る会に参加したのは活動が新聞に紹介され、それを見た森田さんが代表の大浜清さんをたずねたのが始まりです。大浜さんから、たのもしい仲間が参加してくれるようになったと毎週集まっていた菊田公民会で紹介があったと思います。当時、大浜さんは平凡社の労働組合から出版会社の組合運動を行っていました。そうした流れのなかで自然保護運動に関わっていたことになります。ですから、森田さんは新聞配達をやっている勤労青年という運動にはもってこいの仲間ととらえたようです。ちなみに当時は、若い労働者の集まりなどが、もてはやされていた時代でした。
 私は、何度か谷津干潟や埋め立て地で森田さんに鳥を教えたことがあります。彼は、1,000を超えるコアジサシの巣を見つけて、その位置を地図にするような作業をしてくれました。調査の前にシロチドリの巣との区別を教えたのですが、区別することなく調べてしまい、結果データ的にはもったいない記録となってしまいました。どうも科学的にとらえることは、得意ではなかったようです。
 当時としては熱くて感情のままに保護運動を行った情熱家として、もてはやされたことになります。しかし、習志野市長室にゴミをぶちまける暴挙をのちに行うなど、すでにトラブルの根がありました。
 現在の津田沼高校から先は広大な埋め立て地が広がっていました。その埋め立て地の水たまりでセイタカシギが繁殖したことがあります。今ではセイタカシギは東京湾各地で繁殖していますが、最初の記録となります[注1]。見つけた森田さんは「俺のセイタカシギ」という認識でした。日本で数例目の繁殖であり、まだ謎の多いセイタカシギの生態を調べ保護するために、後輩たちが標識用の脚輪を付けました。ところが、俺のセイタカシギに脚輪を付けたということで後輩が殴られる事件となります。脚輪についての説明不足などあったかもしれませんが、暴力を振るのは論外です。この事件から、私たちとも決別したといってもよいでしょう。
 また、同輩が彼の家に行ったら「国粋主義的な本が並んでいた」とびっくりして話てくれました。そして、革新的な大浜さんとも決別していくことになります。
 彼が人が変わったと感じたのは、森田さんが新聞の記事になってからではないと思います。当時、マスコミの取材がたくさんありました。おもに大浜さんや石川敏雄さん(千葉大学名誉教授、千葉県自然保護連合代表)、ときに私が対応しましたが、対応できないときに大浜さんが森田さんにふったことがあります。どうも、これがいけなかったようです。当時、自然保護を訴えるため新聞に載るのは、仲間では当たり前のことでした。しかし、森田さんにすれば今まで自分が配っていた新聞に自分の記事が載ったことになります。舞い上がったというか、その後はこうした記事になるように意図した活動が多くなったと感じます。
 現在、Googleで「森田三郎」を検索すると「“たったひとりで谷津干潟を守った”はウソだ!三番瀬」が上位に出てきてしまいます。これは、2009年12月8日に放送されたNHKのドキュメント番組への反論です。また、検索の下位には『どろんこサブウ-谷津干潟を守る闘い』(松下竜一・1990)[注]、『わが青春の谷津干潟』(本田カヨ子・1998)と彼を取り上げた著作のタイトルが上がってきます。いずれも彼一人が谷津干潟を守ったような内容のNHKのドキュメント同様、彼の本質に迫るものはなく、美談で終わっているのは残念です。番組では企画段階、出版の企画では原稿段階で本人のチェックを受けているはずです。谷津干潟は多くの人が関わり、その努力の結果、残ったのだと私は確信しています。このことをなぜ彼から言って、活動の事実を伝えようとしなかったのでしょうか。もし、「皆さんの活動のおかげもあって谷津干潟が残った」の一言があれば彼の評価も変わったことと思います。
 森田さんは、何が問題なのか仲間で話し合ったことがあります。結論のひとつは、コンプレックスの人という評価でした。とくに学歴についてのコンプレックスが強かったと異口同音に言われました[注3]。たしかに、大浜さんはじめ活動に参加した大人たちはインテリでしたが、誰がどこの大学を出たかなど私は知りません。私たち東邦大学生は、無名の大学に在籍しているコンプレックスさえありました。
 しかし、私が彼から言われたのは「学生は昼からマージャンをしている。もっと干潟を守るために活動すべきだ」です。彼の頭のなかには、学生はヒマで金があり、昼からマージャンをしていると思い込んでいました[注4]。
 その後、干潟の保護運動は全国に広がり干潟シンポジウムの実施、さらにはラムサール条約の登録湿地など国際的な活動と展開していきます。また、谷津干潟の保護については谷津干潟自然観察センターが自然観察会はもとより干潟まつりや講演会などのイベント、ゴミからアオサの回収などの環境管理を行ってきました。しかし、こうした場に彼が来ることはありません。
 森田三郎さんが、谷津干潟で何をしたかったのか?こうして考えると、わからなくなってしまうのは、私だけでしょうか。
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 写真は、まだ造成前の谷津干潟に森田さんが立てた看板。日本野鳥の会の名前がありますが、承諾はとられていません。愛国無罪の感覚で勝手にやってました。
 
注1:このセイタカシギについては、『セイタカシギ大空を飛ぶ―荒地に生まれた4つのいのち』 (1979・国松俊英)に詳しい。
注2:松下竜一さんに会うために大分県中津をたずねたことがあります。たいへん人見知りをする人で、著作の印象とは異なりました。ちなみに松下さんは、出版前に谷津干潟にも来ていませんし森田さんとは直接会ってはいないはずで、どれだけ交流があったか不明です。プロレタリア・エッセイストとも言える松下さんとしては、謎の仕事です。
注3:『わが青春の谷津干潟』(本田カヨ子・1998)によれば、森田さんは東洋大学文学部英米文学科に在籍、数ヶ月残して退学してます。退学の理由は、当時の学生運動による大学の荒廃にいやけをさしたためとなっています。今回、彼が学生であったのを始めて知りました。
注4:たしかにそういう学生もいたと思いますが、私は生涯マージャンをしたことはありません。それに、理系のため出席しないと単位を落とす実験が多く忙しかったのです。また、実験のない日は、渋谷の青山にできたばかりの日本野鳥の会の事務所に行って、野鳥誌の発送などのボランティアをしていました。同じボランティアのなかには、多摩川の自然を守る会、荒川の自然を守る会などの同じような学生が集まっていて、彼らが千葉の観察会や調査を手伝ってくれました。

2021年9月11日 (土)

入院していました

 8月15日より入院しておりました。予定の2週間が3週間となり一昨日、退院いたしました。
 コロナではありません。6年来の造血細胞のガンの治療で、新しい抗がん剤に変更するための監視観察のための入院でした。思った以上に過酷で、年寄りにはきつい治療もありました。
 そのため、ブログの更新やメールのご返事が滞り、ご心配をおかけし申しわけございませんでした。
 コロナ禍のなかの病棟は隔離状態で面会もままならず、独房に入っているようなものでした。一般病棟とはいえ、医師、看護師など医療従事者の方々の緊張感は、入院患者にもひしひしと伝わってまいりました。
 ですので、家に帰ってきて窓の外から聞こえるハシブトガラスの鳴き声やツクツクボウシの声が解放されたと実感いたします。
 今後も通院で治療を続けますので、ここしばらくはブログも事務連絡のみなるかも思います。どうぞ、あらかじめご了承いただければ幸いです。

2021年8月15日 (日)

8月15日はまだ野鳥録音の季節

 この長雨と寒さは、とても旧盆の最中とは思えません。それも、1週間続くかもしれないという予報なのですから、何かおかしな感じです。
 8月15日前後に野鳥録音をしていますし、けっこう成果をあげています。いちばん思い出深いのは、8月15日に義弟と男体山と大真名子の間にある志津小屋に泊まったときのことです。もう、さえずりのピークは終わったものと思っていましたが、朝はアカハラのさえずりで起こされました。小屋から出ると、森はルリビタキとコマドリの競演に包まれていました。ただ、日が昇り温度が上がるといっせいに虫が飛び始め、その騒音が凄かったことは忘れません。2001年のことで、まだDATで録音していた頃です。
 そのため、8月中旬でもまだ行けると、夏休みで混む日光のメインルートを避けては、録音機を仕掛けています。
 YAMAHA W24で録音、ボリュームの増幅、1,000Hz以下のノイズの軽減、ヒスノイズリダクションをかけています。 

 アカハラとウグイスの競演です。霧降高原のいつもの場所で、10年前の録音です。
 少しでもさわやかな高原のイメージが伝われば幸いです。

2021年7月30日 (金)

竹下信雄さん-訃報

 シバラボさんから、竹下さんの訃報が伝えられました。なんでも、シバラボさんは竹下さんの弟子だそうです。
 竹下さんは、6月9日に急逝されたとのことで81才。最近、お会いした安西英明さんからは、お元気だったと報告を受けたばかり、急な知らせに驚いています。
 日本野鳥の会が1970年に財団法人になって、はじめて事務局ができて職員を置くようになりました。この事務局の最初の職員3名のうちのお一人でした。当時の青山通りには、ビルはなくあっても木造2階建てのしもた屋が並んでいました。国連大学や青山劇場は、都電の車庫の跡地で広大な空き地が広がっていました。
 第一園芸もプレハブのような造りで2階建て。その隅に日本野鳥の会の事務所かありました。今思えば、倉庫に机と椅子を置いたような感じでした。
 ここに夕方になると、学生をはじめとする若者たちが集まって、議論をしたり野鳥誌の発送を手伝ったりしていました。私もその一人でした。狭い事務所に10人も入ると床がギシギシいって、竹下さんが「床が抜ける」と心配していたのを覚えています。また、若者たちが議論で盛り上がりつい大きな声になると竹下さんに「電話が聞こえない」とよく叱られたものです。学生たちからみれば、10才年上ですから大人から叱られた子どもの感じで、シーンとなったものです。ちょっと怖い存在であったと思います。
 竹下さんは、私たちがTシャツにGパンなのに、いつもスーツにネクタイをしていたのも竹下さんのイメージです。いちばんのお仕事は、中西悟堂会長との連絡役で秘書的な役割を果たしていたと思います。悟堂さんとのやりとりは『野鳥』誌の編集に関わることで、悟堂さんにとっては『野鳥』誌が命でしたから、さぞ神経をつかったことでしょう。竹下さんの辞めた後、事務局と悟堂さんの関係が劣悪になったことを考えると、竹下さんの存在が大きかったのではないかと想像しています。また、常務理事の奈良部博さんと企業周りをしていたのを覚えています。夕方、2人が事務所に戻ってきて「今日は大丈夫だ」「たぶんだめだろう」と反省会を開いていました。
 日本野鳥の会の事務局の黎明期、社会保障も不十分な事務所で、ご苦労されたことでしょう。日本野鳥の会の事務局がいまこうしてあるのも、竹下さんのような方がいたからこそ。大恩人のお一人であると思います。
 竹下さんが、あるとき「平家物語に出てくる渡辺綱が退治したのは、ヌエではないのを知っているか」と言われました。たしかに、怪物は「頭が猿、身体はは狸、尾は蛇、手は虎の姿。鳴く声ヌエにぞ似たりける」とあります。「あの怪物には名前がない、正体のわからないものを”ヌエ的存在”という言葉が、間違いを広めてしまった」とのこと。その後、野鳥誌のコラムにこのネタを書かれていたと思います。その前になっとくできるか、私にネタを披露してくれたことになります。
 それまで、てっきりヌエ=怪物だと思っていたので、びっくりです。それ以降、私のトラツグミの解説では「渡辺綱が退治した名無しの怪物の声」と書いています。いまだにトラツグミの解説で、怪物の名前だったと書かれているのを見ると、竹下さんのことを思い出しほくそ笑みます。

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 たぶん著作権のない写真ですのでアップします。もし、問題がありましたら削除いたします。1977年の日本野鳥の会全国大会・茨城です。後列右から3人目が竹下さんです。田久保晴孝さんと園部浩一郎さんの間に挟まれています。
 思い出はつきませんが、竹下信雄さんのご冥福をお祈りいたします。

2021年7月20日 (火)

西船橋のオオコノハズク-記憶

 オオコノハズクといえば、思い出すことがあります。
 それは、西船橋でオオコノハズクが鳴いているという情報です。
 まだ、東西線が西船橋まで開通したばかりの頃(1969年)、私の学生時代(1968~1972年)のことだったと記憶しています。
 情報元は、高野伸二さんです。当時の状況から私が学生で日本鳥類保護連盟の雑誌「私たちの自然」の発送のアルバイトに行ったときに聞いたことだと思います。
 たぶん「西船橋駅の近くのお寺でオオコノハズクが鳴いている。松田君は毎日、西船橋を通っているのだから行ってみたら」というようなことを言われたと思います。「どうやって聞き分けるのか」と聞くと「アオバズクは2声、オオコノハズクは1声の連続だからわかる」と言われたと思います。
 当時の総武線沿線は、本八幡駅から先は田んぼやヨシ原が線路際まで、広がっていました。下総中山駅では、オオヨシキリの鳴き声を電車の中から聞くことができたほどです。ですから、西船橋も今とは違って閑散とした駅でした。電車の中から見ると北側に小高い丘が続きマツの大きな木が続いていて、この林のなかにオオコノハズクがいるかもと思ったものです。
 記憶では、法華経寺と聞いたと思います。法華経寺が近くにあるにはあるのですが、下総中山駅のほうが近く、最寄りの駅は京成中山駅となります。ですから記憶違いかもしれません。この西船橋の丘の上にあるのは、春日神社となっています。神社とお寺では、大きな違いですが、50年以上前の記憶なのでご勘弁を。
 私は、高野さんの言うとおり毎日通っているのだから「いつか行けばいいや」との思いと、厳密にはいつの季節に何時頃行ったら良いのか、当時の知識ではわからず結局行かずじまいでした。
 また、いっしょに聞いたか私が話したか思い出せませんが、後に日本野鳥の会の職員となった柚木修さんが「それなら、行ってみる」か「行く」と言っていたのも覚えています。ライファーを稼ぎたい年頃でしたので、熱心な柚木さんのこと、行ったのではないかと思っています。
 残念ながら、高野さんも柚木さんもお亡くなりなり、今となっては確認のしようがありません。
 またその後、千葉県には日本野鳥の会の千葉支部や千葉県野鳥の会が発足しますが、西船橋のオオコノハズクの記録を見つけることはできませんでした。
 高野さんが言ったアオバズクとオオコノハズクを2声鳴きと1声鳴きで区別する方法は、他の人からも聞いたことがあります。「小さく低い声」というのが、オオコノハズクの鳴き声の特徴ですから、高野さんも聞いたことがなかったのでしょう。
 本来、里山の鳥のオオコノハズクですから、まだまだ里山や谷津田が残っていた1970年代の西船橋周辺にオオコノハズクがいてもおかしくありません。いずれにしても、オオコノハズクが身近な鳥であった時代にかろうじて私は生きていたことになります。今でも西船橋を通ると、このエピソードを思い出します。
 

2021年7月 8日 (木)

セグロカッコウとヤイロチョウは普通種だ

 「セグロカッコウとヤイロチョウは普通の鳥だ」と言ったら、ごうごうたる非難をあびそうです。
 でも、このところの野鳥録音の情報から、そんな印象を得るようになりました。
 ここ2週間ほど、福島県、神奈川県、山口県の野鳥録音を始めた方とメールのやりとりをしています。いずれの方もバードウォッチングの造詣は深く、野鳥録音を行い、もっと野鳥との関係を深めたいという意欲を感じる方々です。
 面白いことに、まず「セグロカッコウが録音できた」と報告がありました。「それでは、次はヤイロチョウですね」と半分冗談でメールの返事を送ると、なんと3名ともヤイロチョウも録音できていました。
 私自身、最初のセグロカッコウの録音は、粟島でアオバズク狙いの一晩録音に偶然入っていたものです。ICレコーダーのバッテリーとメモリのバランスがよくなり長時間録音が可能になったばかりの頃です。
 ですから、長時間録音が可能なICレコーダーで野鳥録音を始めると、昼間の録音ばかりでなく夜の録音もやってみたくなります。すると、セグロカッコウはもとより、ヤイロチョウも録音できてしまうことになります。
 以前のこの2種が録音できたと報告のあったのは東京都や栃木県などです。セグロカッコウだけ、ヤイロチョウのみという報告もあります。
 これらを加えれば、特定の地方に偏ることなく全国にばらついています。私に連絡をしてくる人は、ごくわずかだと思います。そのなかの3名が3名とも同じように録音できてしまうということは、ひょっとすると全国的にはかなり多い鳥になっているかもと思ってしまいます。
 ということで、野鳥録音の世界ではセグロカッコウとヤイロチョウは普通種と言うわけです。さらに、野鳥録音が普及すれば、これが常識になるとかもしれません。

2021年7月 2日 (金)

録音機をどこに置くか-芝川第一調節池

 一昨日の芝川第一調節池のネタに T_ohiさんから「ブログのお写真の位置は人工音の一番入らない場所と感じました。」とコメントがありました。広い調節池とはいえ、もっともノイズが少なく鳥のいるところとしては、昼間のベストポイントの一つです。さすが地元の方のコメントです。
 10年ほど前にO村さんとここで待ち合わせをしたことがあります。一度記事にしていますが、芝川のベストポイントの話として思い出しましたので、再度記事にします。
 O村さんはプロの音楽家でCMなどにつける音楽や効果音を作る音の仕事をしています。それだけに、彼と話をしているといかに自分がアマチュアであるか思い知らされます。また、鳥にも造詣が深く、松戸のフクロウを案内してくれたときは、見事に見つけてくれ録音できました。フクロウの気持ちになって探すのですから、見つかります。
 芝川第一調節池は、周囲およそ3kmあります。見晴らしがきくので双眼鏡で探せば見つかるはずですし、携帯電話を鳴らせば巡り会えるはずと、場所を決めないでの待ち合わせです。芝川は写真のとおり、広いです。
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 私は、この前日の夕方に芝川第一調節池を訪れ、一晩録音を仕掛けておきました。
 ですので、O村さんを探しながら録音機を回収に行きました。土手の上の人影が見えると、彼ではないかと双眼鏡で確認しますが、いません。それならばと携帯電話を鳴らすと、なんと手前のヨシ原から彼が登場。
 思わず「どうしてそこにいるの?」と私。「松田さんが録音機を置くとしたら、ここしかないと思って、ここで待っていました」とO村さん。
 確かに私が録音機を置いた場所は、南を走る武蔵野線からいちばん遠い辺です。また、昼間は車の多い463号線も夜は交通量が少ないはず、また土手の内側に置くことでかなり車の音は軽減されるはず、さらにすぐそばに採石場があり昼間はパワーシャベルがうなりを上げていますが、夜は動いていません。それに、なにより池の水面とヨシ原が良い感じに入り交じったところで、水面とヨシ原の鳥の両方が狙える場所ということになります。
 さすが、音のプロが鳥の知識を得たら最強、見事な推理です。私も彼が考えと同じだったことで、少しプロに近づいた感じになりました。

2021年6月17日 (木)

退任いたしました-日本野鳥の会理事

 日本鳥類保護連盟と日本野鳥の会の職員を経験した私にとっては、年1回程度しか開かれない理事会、あるいは支部長会議で、「ああすべきだ」「こうすべきだ」と言われるに辟易していました。なかには、平日に事務所に来て大きな声で「野鳥の会は、だからダメなんだ」から始まって自説を説く人もいました。
 こうした提案は得てして現場とはかけ離れたものです。多少、当を得ているとは言え、それでは資金はどうするのか、誰がやるのか、具体案のない話なのですから、事務局としては対応のしようがありません。
 ですから、柳生博会長(当時)から日本野鳥の会の理事をお願いしたいとの電話があったときはそうした理事のイメージがありましたのでお断りしました。しかし、1時間以上説得されると断る理由がなくなってしまい、引き受けたのは10年前です。条件は、ボランティアで無給であることをお願いいたしました。そして、気が付いたら最年長、最古参の理事になっていました。
 ということで、改選のタイミングとなりましたので、昨日の理事会評議員会にて理事の退任が承認されましたのでご報告いたします。
  役員、職員の皆さま、全国の連携団体の方々、長い間お世話になりました。ありがとうございました。10年間、職務をまっとうできたのは皆さんのおかげですし、誇りに思っております。あつくお礼申し上げます。
 以下、雑感です。
 現在の役員の皆さんは、今までなく結束していると感じています。まずはお一人お一人の人柄も大きいと思います。それに加えて、本音で話し会える理事懇談会、懇親会の場から気心の通じた仲間意識を持つことができたからだと思っています。現在の理事会のムードは、辞めるのが惜しいと思うほどです。
 そもそも私の性格から言ったら、会長とか理事長、事務局長かと長のつく立場の人にたしていは、本能的に反発して一言いうのが習性です。もし職員だったら、うるさい爺さんになっていると思います。ですから、自分自身が理事という立場になって、なんとも座り心地の悪い10年でした。
 このコロナ禍のさなかでの退任は、敵前逃亡のようで申し訳ない気持ちです。コロナに負けず執行役員はじめ職員ががんばっているのですから、どうぞ引き続き皆さんのご支援をお願いいたします。
 職員からは、私が心配した「ああしろ、こうしろ」はなかったと言われましたが「昔はああだった、こうだった」は、けっこう言っていたと思います。これからは、たずねられない限り言わないことにしますのでご勘弁を。
 なお、今後は参与という肩書きで、日本野鳥の会には協力してほしいとのことですので、引き続きよろしくお願いいたします。

2021年4月27日 (火)

見つかった録音機に入っていたクロツグミ-日光

 じつは、先日の日光でのタイマー録音で、YAMAHA W24が見つからなくなりました。いつものお気に入りの雑木林で岩陰に置いたつもりなのですが、翌日に回収に行くと見つかりません。いくら探してもないのです。この日の朝は風が強く、風に吹き寄せられた枯れ葉が録音機に積もって見つけられないのではないかと思いました。そのため、枯れ葉を掻き分けて探したのですが、みつかりません。
 翌日、たまたま日光の自然仲間のE村さんにその話をしたら、雑木林にいっしょに行って探してくれました。しかし、見つけることができません。タヌキやテンのいるところなので、ケモノに持って行かれたのかもしれません。山菜の季節でもありますので、いつもは入らない森のなかを人が歩いていることもあります。そのため、人に持って行かれた可能性もあります。これで、無くしたのは3台目、これもネタになるなあとあきらめました。
 ところが昨日、E村さんからLINEで「例のブツ、無事発見されました」との連絡をもらいました。さっそく確認すると「同じ場所で録音しようと、録音機を置きに行ったらみつかりました」とのこと。なんとも、うれしい限りです。ありがたいことに、レターパックで送ってくれ本日、到着いたしました。
 タイマー録音の設定が「毎日」にしてありましたので、午前4時~7時、3日間録音されていました。そのなかにクロツグミとオオルリが近くで鳴いてくれ、素晴らしいさえずりが録音されていました。
 YAMAHA W24で録音。ボリュームの増幅、1,500Hz以下のノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。

 渡って来たばかりの雄は、なわばりをまもり雌を呼ぶために懸命にさえずります。まさに、力いっぱいさえずるクロツグミを見事にとらえてくれました。
 以前、この場所にいたクロツグミは「いいですよ」がよく入っていました。その「いいですよ」が少し残っているのが面白いです。
 E村さん、ありがとうございました。

2021年4月26日 (月)

シュレーゲルアオガエルと鐘の音-日光

 日光植物園は冬の間は閉園、4月15日から開園しています。以前、開園そうそうに行ったら積雪がありました。4月下旬の観察会でも雪が降ったことがあります。雪の間からミズバショウが顔を出しているというのが、この季節の風景です。
 ところが、先日の植物園はサクラが満開、新緑が目にまぶしい風景が広がっていました。以前ならば、連休後半の雰囲気です。季節が、半月早く進行している感じです。
 池では、シュレーゲルアオガエルがにぎやかに鳴いていました。いつも鳴いて簡単に録音できそうなのですが、いざ録音機を置くと警戒して鳴きやんでしまいます。そのため、腰をすえてじっくりと構えないと鳴いてくれません。
 鳴くのを待っているとちょうど正午になり、輪王寺の梵鐘の音が聞こえてきました。おかげで日光らしい音になりました。
 PCM-D100で録音。録音ボリュームを少し下げています。100Hz以下の低音ノイズの軽減、ノイズリダクションをかけています。

 

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